第三十話 神医、華佗
まったくの偶然だったのだが、孫権からの書状が来る前から魯粛は医者を探していた。
幾つか事情はあったのだが、一つには体調不良を自覚していたのもある。
大都督と言う役職は、当初魯粛が想定していた以上に多忙で過酷な役職であった為、疲れが蓄積したのだろうと思っていた。
よくもまぁ、公瑾はこんな仕事を涼しげにこなしていたものじゃな。アレはアレでバケモンじゃったからのう。
そんな事もあって、曹操の元に移る前に華歆が挙げた人物を探していたのだが、その人物をようやく見つける事が出来た。
その人物の名は、華佗。
華歆が言うには、人の域を超えた仙術としか思えないほどの神業を身につけた神医であると言う話だったのだが、実際に会ってみるとその評判も疑わしくなってくる。
魯粛は話しか知らなかったので、なんとなく精悍で屈強な男性を想像していたのだが、実際に現れた華佗を名乗る人物はやせ細った骨と皮だけの様な容姿で、大きな目だけがぎょろりとこちらを見ている。
ほかの誰よりもまず先に医者に診てもらったほうが良いのでは?
魯粛が華佗に抱いた印象はソレだった。
とは言え、他に『華佗』と言う人物が見つからなかった以上、この人物がその神医なのだろうと思うしかない。
異常に痩せた華佗は、正直なところ年齢さえも想像がつかず見ただけでは高齢に見えるのだが、実際にはそれほど高齢では無いのかもしれない。
また杖でも無ければまともに歩けそうもない様に見えても、しっかりとした足取りで背筋も伸びて姿勢も良い事から、もしかすると自分より年下なのではないかと魯粛は見ていた。
華佗が魯粛を診察している間、魯粛も華佗を観察していた。
そんな中で華佗が動きを止めて、魯粛の方を見る。
気味が悪いのう、一体何じゃ?
「お客様ですか?」
魯粛の妻である于氏がやってくる。
「うむ、医者の華佗先生じゃ。何でも合肥の攻略に失敗したらしくてのう。怪我人が大量に送られてくるそうで、それを診てもらう為に来てもらったのじゃ」
魯粛は衣服を正しながら言う。
「奥方様ですか」
華佗は、その大きな目を于氏の方に向ける。
「え? あ、はぁ」
身の危険でも感じたのか、于氏はすぐに下がれる様に身構えて応える。
于氏も大概肝の据わった女性なのだが、それでも華佗の不吉極まりない容姿には圧倒されているようだ。
「大都督、おめでとうございます」
「あ? 何じゃ、急に」
「奥方様のご懐妊です。おめでとうございます」
「……はぁ?」
魯粛と于氏が同時に気の抜けた声を上げる。
「何じゃ? ワシに取り入ろうとしておるのか?」
「いえいえ、事実です。今はまだ目立ちませんが、奥方様はご懐妊されておられます」
華佗は笑顔で言うが、その笑顔すら薄気味悪い。
「懐妊? 私が?」
于氏は不思議そうに腹部に手を当てる。
「何か体調に変化はないか?」
「はい、今のところは別に」
魯粛と于氏は、華佗に疑いの目を向ける。
「間違いなく。今後の事を考えると、安静にしている事をおすすめします」
「……らしいからの。安静にしておるが良い」
「はぁ、まぁ、そう言う事でしたら」
于氏はまだ納得出来ていないが、一応その場から離れようとする。
「その子、本当に大都督の子なのですか?」
華佗が急に妙な事を言い出す。
「あん? どう言う意味じゃ?」
「言葉通りの意味です。不義密通の結果であったならば、大都督はいかにしますか?」
「はぁ?」
その場を離れようとした于氏だったが、華佗の言葉を聞き逃す事が出来ずに凄む。
「どう言う意味だよ」
「そうじゃのう」
于氏が詰め寄ろうとするのを、魯粛が止める。
「もし男子なら、家督を継がせる事にしよう。もし女子ならば養子を取らんといかんのう」
魯粛は笑顔で応える。
「ご自身の御子では無いとしても?」
「血の繋がりとはそれほど大事なモノかのう? ワシには今一つわからんのじゃが、親とは子を生んだ者の事を言うのか?」
「それ以外の何とお考えで?」
「ワシは父親を知らんからのう。ワシを育ててくれた母にはこれ以上は無いほど感謝しておるが、父には感謝のしようがないのじゃ。漢に蔓延るこの血筋血統大事の考えがワシにはよう分からん。優秀であれば養子であっても家督を継がせるし、無能であれば周りに迷惑を掛けて断絶するより絶縁するわい」
「これは、異端なお考えで。大変失礼致しました」
「うむ、実に非礼無礼失礼の極みじゃな。于氏、下がっておれ。念のためにも安静にのう。ここはワシに預けよ」
「ご存分に」
于氏は華佗を睨みつけながら離れる。
「華佗、貴様何故切られようとした?」
于氏が離れた事を確認して、魯粛は華佗に尋ねる。
「気付かれましたか」
「あれだけ不自然に妙な事を言い出せば誰でもわかろうに。ワシは近い内に死ぬと言う事か」
魯粛の言葉に、今度は華佗が驚かされる。
「何故そう思われるので?」
「それも少し考えれば分かるじゃろう? 大都督の死期を察し、それを伝えた場合には国の大事を見誤せる事にもなりかねんしのう。それであれば切られて秘密を隠し通す方がマシじゃ、と言う事じゃろう?」
「お見事です」
華佗は素直に頭を下げる。
「浅い。実に浅いのう。神医などと崇められても、所詮は妓楼の者と言う訳か」
魯粛はそう言うと、華佗を見る。
「その程度の覚悟で人の死期を診て宣告してきたのか? 浅い、甘い、その上でおこがましいのう、神医とやら」
魯粛は蔑む様に笑うと、ゆっくり立ち上がる。
「さて、貴様には大都督に対する無礼の罰を受けてもらわねばならんのう、華佗よ」
「どうぞ、この細首を切り落とし下さいませ」
「たわけ、その安い首を落として罪を償えるとでも思っておるのか。自惚れるのも大概にせよ、神医よ」
魯粛はニヤリと笑うと、華佗の衣服を掴んで立ち上がらせる。
「さっきチラッと言うたじゃろう? これから怪我人が群れをなして運ばれてくる。神医と呼ばれるその業、偽りで無い事を証明してみせい。それによって裁きのいかんを下す事にしよう。もしそれが虚名であったとすれば、その体、寸刻みにしてくれようぞ」
魯粛は笑顔でそう言うと、建業に送られてくる怪我人を華佗に診せる事にした。
「時に華佗、ワシはあとどれほど生きられる見立てじゃ?」
「……偽りなく申しますとおそらく、一年ほど。今すぐ職を辞して安静にされておけば三年ほどかと」
「一年、か。残せるモノは少なそうじゃのう」
魯粛は薄く笑うと、敗戦によって建業に戻ってくる孫権を迎える準備をする事にした。
華佗は評判に偽り無しと言わんばかりにその腕を振るい、生死を彷徨う怪我をした者達も次々と回復していく。
徐盛や谷利だけでなく、二度に渡って矢の雨にその身を晒して孫権を守った周泰すらもその一命を取り留める事が出来た。
が、全員を助ける事が出来た訳ではない。
孫権達が戻ってきた時、その元を尋ねる者がいた。
「太史慈の息子、太史享と申します。ご主君に我が父の最期の言葉を伝えに参りました」
「そうか、太史慈は逝ってしまったか。この孫権の不甲斐なさをさぞかし嘆いていた事だろう」
「父はご主君に対して、こう言葉を遺しております。男子として生まれたからには、七尺の剣を持って天子とならんを欲するところ。ご主君のその御姿を見る事が叶わぬ事だけが心残りである、と」
「そうか、太史慈はその様に俺を評価してくれていたのだな。太史慈の期待に報いる事になるかは分からないが、太史享よ。今、この時より我が軍に加わるが良い。見たところまだ若いが、いずれ父の位を引き継がせる事になるだろう」
太史慈の遺言は、下手をすると自身が天子の位を望んでいるかの様にも取られるが、孫権はそんな事を考えもしなかったのか、考えても分からないフリをしているのか、太史享に向かってそう応えた。
「さて、俺の無策無能によって合肥攻略は失敗してしまった。それ故に軍略を元の荊州攻略に向け直す事になるが、魯粛よ、その点はどうなっている?」
「一つ非常にマズい問題があってのう、ワシでは判断がつかんから相談しようと思っておったところじゃ」
「ほう、魯粛の手に余るか。どんな問題だ?」
「妹君じゃよ」
魯粛の言葉に、この場に集まっている文官達から一斉にため息にも似た声が上がる。
合肥に参戦した者達は大なり小なり怪我を負っていた事もあり、今この場には武官は非常に少なく、朱治や呂範などの一部以外のほとんどが文官であった。
それでも魯粛の言葉の深刻さは伝わったらしい。
奇妙な形で成立してしまった劉備との婚姻によって、孫権の妹が荊州にいる為に攻めるに攻められないのである。
ある意味では強固な盾を得た劉備は、その隙を突いて劉璋の収める益州の乗っ取りに動いている。
「劉備が蜀を得た後には荊州を返せと言うのは簡単なのじゃが、外交にしても攻略にしても最大の障害となるのは妹君の事じゃ。どうするが良い?」
「……悩みどころだな」
尚香の性格を考えると、蜀を得たら荊州を返すと言う約束があるからと言っても、同盟国であればどちらの手にあっても一緒、などと口を挟んできてこちらにとって確実に不利に働く。
かと言って攻め込んだ場合にはあの武将気質で侍女にまで武装させているのだから、進んで戦場に出てくる恐れすらある。
「何とかして妹を国元に帰らせる必要がある、と言う事だな」
「そうでもせんと、呉国太も納得せんじゃろう。下手に動けばそれこそ婚姻の時と同様に乗り込んできて騒ぎ立てる事じゃろう」
魯粛の言っている事は、全員が簡単に想像出来る事だった。
「分かった。妹は国元に戻す事にする。それで良いな?」
「それじゃと劉備とは本格的に敵対する恐れがあるが、それは構わんのじゃな?」
「構わない。すでに曹操への書状は送っているのだから、向こうは向こうでこちらには踏み込んで来れないはずだ」
孫権が送った書状は魯粛も見せてもらったが、降伏の書状としては随分と挑発的な内容であり、とても臣従を誓う者の書状ではなかった。
しかし、どんな形であったとしても孫権は曹操に対して帰順の意思を見せている。
それで困るのは確実に劉備側、特に軍師である諸葛亮だろう。
「では、ちょいと動いてみるとしようかのう」
その軍略は魯粛の思い描く天下三分とはまったく違う方針ではあったが、それに従う事に対して魯粛には何ら抵抗は無かった。
むしろその時間が無かった、と言うべきかもしれない。
華佗と太史慈の遺言
当初華佗のイメージは『K』でしたが、それだと何か訳のわからない医術で魯粛の病も治せそうだったので、急遽こんな陰気臭いヤツになりました。
けど、どう考えても華佗は『K』の血族としか思えないんですよね。
この時代に全身麻酔の手術したり、開頭手術で脳腫瘍取り除こうとしたり、これ以降全身麻酔の技術が数百年に渡って再現される事が無かったりと胡散臭い事この上なしです。
以前の三国志大戦でも『K』でしたしね、華佗。
ネタにされやすい太史慈の遺言ですが、本作ではちょっとだけアレンジして忠臣の言葉にしてみました。
あのままだったら、露骨極まりない不忠者になってしまいますので。
あの遺言では、太史慈はやっぱり信用出来ないとなっても不思議じゃないというより、どう考えても信用出来ない完全アウトなヤツです。