第二十九話 その戦を終えて
孫権は合肥の対岸となる濡須へ撤退した。
全軍撤退の狼煙を上げた事によって皖城も手放す事になった為、最初に合流を果たしたのは孫河だった。
そこで、谷利の独断による行動を孫河から説明された。
「そうか、その機転が無ければ俺はあそこで討たれていただろう」
本来いるはずのない援軍によって命を拾った孫権だったが、それ以降の生存者は中々戻ってこなかった。
だが、尋常じゃない武勇を示した張遼であっても、あの戦場にいた孫権軍の武将や兵士の全てをその手で討つ事など有り得ないと言う理由で、孫権は濡須で自軍の武将を待ち続けた。
「遅くなって、申し訳ございません」
戦場で殿軍として残り続けた呂蒙が、他の武将や逃亡した兵士などを再度かき集めて戻ってきたのである。
その数は元からすれば激減しているとは言え、四万以上の兵士を率いて戻ってきたのである。
さらに賀斉や潘璋と言った共に殿軍を務めた武将、朱然と丁奉の別働隊だった。
徐盛や太史慈といった生死不明の重傷者は、こちらではなく直接建業へと送られ、その指揮を取っているのは同じく重傷者でありながら意識がしっかりしている谷利だった。
旗を取り戻す事は出来たものの、陳武や董襲の遺体を回収する事は出来なかった。
「呂蒙、よく戻ってきた」
孫権はそう言うと、呂蒙だけではなく生存して帰還した者達全員に声をかけて回った。
また、建業に残る魯粛に医者の手配を指示する書状を送る。
だが、戻らない者の中に戻るべき者達が含まれている事に、全員が気になっていた。
凌統の軍が誰も戻ってこないのである。
凌統、甘寧、蒋欽といった孫権軍の中でも猛将揃いの軍であり、全員が命を落としたとはとても思えないのだが、その誰も戻ってこないのだった。
「あの者達が全員戦場に倒れたとはとても思えない。おそらく俺らと同じように戦場に残って何か行っている事でしょう」
呂蒙が孫権にそう説明する。
だが、その受け持ちとでも言うべき李典が孫権の退路に現れたと言う事実。それは凌統達が討たれた可能性でもあった。
が、それからさらに数日後、蒋欽が凌統の軍を率いて戻ってきた。
重傷の凌統も共に濡須へ戻って来る。
「申し訳ございません、俺がしくじったばかりに大局を狂わせ、預かった貴重な兵を徒に失ってしまいました」
自力では立っていられないほどに憔悴した凌統が、蒋欽の肩を借りて孫権に涙ながらに謝罪する。
「大局を狂わせた事を罪とするのであれば、僅か数百騎の騎馬隊を数万の兵で止められなかったこの孫権こそが最大の罪人だ。諸将はよく戦った。詫びるべき何物もない。確かに兵を失い、死んだ者はもう戻らない。だが、君らは帰ってきてくれた。この至らない主が、それ以上の何を望めようか」
孫権は凌統の手を取って言う。
こう言う事をまったく意識せずに行う事が出来るところが、孫権が孫策を凌駕する点の一つだっただろう。
「ところで甘寧はどうした? 甘寧こそ殺しても死なない様なヤツのはずだが」
重傷の凌統を建業に送る手配を済ませた孫権は、蒋欽に尋ねる。
「共に戻るはずだったのですが、まだやり残した事があると言われて別行動を取りました」
「やり残した事? 余計な事をしてくれなければ良いものを」
「残念ながら、そこは甘寧将軍なので余計な事をする為に別行動を取ったのでしょう」
孫権は心配そうに言っていたが、呂蒙の言葉を聞いて全員が妙に納得した。
余計な事をするつもりが無いのであれば敗残兵をまとめたところで帰ってくるのが普通であり、しかも呂蒙や今は亡き周喩であればともかく、甘寧やこの戦には参加していないが魯粛などがやり残した事があると別行動を取ると言うのは、その時点で厄介事を引き起こすつもりなのが分かる。
そして甘寧が生還した時に、やり残した事の正体も分かった。
甘寧は自身にごく近しい錦帆族を数名連れて帰還したのだが、それだけではなく軍馬を百頭ほど連れて戻ったのである。
「甘寧、生還は非常に喜ばしい事なのだが、その手土産は一体どうしたのだ?」
孫権は戻ってきた甘寧の迎えるにあたって、喜びより先にその疑問が口に出た。
「合肥の軍馬です。いや、実に良き軍馬。是非我が軍に欲しいと思い、連れて戻りました」
「うむ、それは、まあ、見れば分かる事なんだが、どうやって連れてきた?」
「それは、ちょっと行ってかっぱらって来ただけの事で、さして説明するほどの事は」
甘寧は不思議そうに答える。
本人は本当に事も無げに答えるのだが、軍馬を百頭連れて戻ると言うのは簡単な事ではないどころか至難の技である。
実際の馬追いなどでも集団で行う事であり、その頭数が多ければ多いほど困難になってくるのだが、甘寧はほぼ単身でそれを行い、僅か数名の共のみでそれを連れて戻ったのである。
余りにも非常識な行動に呂蒙達は言葉を失っていたが、孫権だけは大笑いした。
「はっはっは! 敵将の文遠にはしてやられたが、離れ業と言うのであれば我らには興覇がおるわ!」
今回の戦は正に孫権軍の惨敗とも言うべき結果である事に違いは無いのだが、まったく別方向から曹操軍に一矢報いる事は出来たと溜飲を下げる事も出来た。
「今頃合肥の連中は腸が煮えくり返る思いだろうな」
孫権は笑いながら言う。
単純に馬を百頭でも損害としてはかなり大きいのだが、訓練された軍馬となるとその十倍以上である。
だが、どれほどの怒り狂おうとも合肥にはまともな水軍は無く、いかに剛勇無双の武を示した張遼と言って川を飛び越えて濡須を攻める事は出来ず、また仮に船を用意出来たとしても合肥に濡須を攻めるだけの兵力は無い。
甘寧によるまったく予想外の奇襲による戦果もあって気をよくした孫権は、呂蒙らが連れて戻った兵士達を再編して再度合肥攻めを計画していたが、それも断念せざるを得なくなった。
曹操の本隊が到着したのである。
攻める事を想定していたのだが、急遽防戦に切り替える事になった孫権だったが、突然の嵐によって曹操軍も濡須への侵攻を諦めざるを得なくなった。
「董襲が守ってくれたのかもな」
水没するまで張遼の行動を睨んで止めていた董襲は、その後その遺体は発見されていない。
全力で走る軍馬に自ら正面衝突して川に跳ね飛ばされた谷利が、張遼の停戦を受け入れた時にすぐに兵士に捜索させたのだが、董襲を見つけ出す事は出来なかった。
陳武と董襲は、張遼が名指しで自身の足を止めた武将だと賞賛していた事もあり、孫権の軽口も案外そうなのかもしれないと言う空気すら、孫権軍に流れていた。
合肥側でも攻められない事態が起きていた。
もちろん甘寧による軍馬強奪事件は大問題であり、すぐにでも見つけ出して賊を始末すると張遼は息巻いたのだが、臧覇によって止められた。
それどころでは無かった、と言うべきだろう。
最大の戦果を上げた張遼や密かに参戦していた臧覇はともかく、楽進と李典は生死を彷徨うほどの重傷を追っていた。
楽進は太史慈と正面からぶつかり合い、李典もその智力を駆使して凌統や甘寧を翻弄していた。
劣勢の兵力でありながらその足を止め続けたのは凄まじい戦果と言うべきだが、その代償は同じく余りにも大きかった。
少なくとも今すぐ合肥を攻められた場合には、まず守り通す事など出来ないほどの損害を被っていたのである。
張遼がどれほど憤っていたとしても、守りを固める以外に出来る事が無かったと言うべきだろう。
そんな状況を知らない孫権軍は再編に時間がかかった事もあり、曹操の本隊が合肥に到着するのが間に合った。
「よく合肥を守ってくれた。被害は覚悟していたが、あれほどの大軍に対してよく城を守れたものだ」
「俺自身は大した事などやっていません。李典、楽進が死力を尽くしてくれたからこそ、これほどの戦果を上げる事が出来たのです」
「ははっ、戦の前では考えられない言葉ですね」
曹操は笑いながら言う。
何しろ三人の不仲が深刻過ぎて、官吏が曹操に泣きつくほどだったのだ。
その張遼が自身の尋常ならざる武勇を誇るのではなく、不仲であった李典や楽進の方を立てる言葉を伝えてきたのだから、曹操でなくても驚く事だろう。
事実、付き合いの長い臧覇が驚いていた。
「その楽進と李典は?」
「……残念ながら、今は起き上がる事も出来そうにありません」
もし健全であれば、本来なら張遼ではなく李典の方が曹操を迎えに出るはずだった。
「では、その分もやり返しましょうか。敵は濡須に集まっているという事でしたので、徹底的にやりましょう。我々を舐めた場合どうなるかを、思い知らせてやらないと」
曹操は年齢を重ねても没個性的で、その見た目だけで言えば漢の丞相どころかせいぜいが記憶にも残らない役所の小役人なのだが、その言葉には並外れた力が宿っている。
実際に彼の一言で万単位の命が奪われる事は、さして珍しい話ではない。
だが、曹操にどれほどの力があったとしても天災を自在に操る事が出来るはずもない。
曹操が濡須を攻める準備を急ぎ、その準備を整える直前だったがそこに嵐が襲い足止めされる事になった。
双方に時間が与えられた場合、攻めるはずだった曹操の方が面倒になる。
何より水上戦に必要な準備を整えるのには時間が必要であり、攻め手の方がこの嵐による準備には遅延させられる。
そして、万全の守りを固められた孫権軍と水上戦を行う事はいささか以上に不安要素が大きくなる。
嵐が過ぎ、濡須を攻めるべきか悩み合肥では会議となった。
「私は反対です」
まず反対意見を口にしたのは蔣済だった。
「我が軍は先ごろ病で荀攸殿を亡くし、新任の華歆殿も全軍を掌握しているとは言い難い状態。また勝ち戦に乗じるにしても間が空き、敵が立て直している以上は勝ちに乗じるとはいかないでしょう」
「……あまりやりすぎるなよ」
勢いが付き過ぎると言葉が荒くなり、酒が入ろうものなら暴言が飛び出す蔣済である。
傍に座る親友で参謀見習いの司馬懿が、小声で蔣済を抑える。
「うむ、蔣済の言には聞くべき点がある。それでも私は今が攻め時であると考えるのだが」
曹操は自身が濡須を攻めるべきであると考えている事を明かしたが、それは一通の書状にて断念させられる事となった。
孫権からの降伏状が届いたのである。
「……やってくれる」
誰しもが考えもしなかった孫権の書状には、臣下の礼を尽くす事が名言されていた。
ただし、それは皇帝に対して、と言う但し書きも込みである。
かつて関羽も曹操ではなく朝廷に降ると言う条件で降伏を認めたが、この書状にはより悪意が込められていた。
降伏を申し出ると言うより、降伏させたければ皇帝になれ、と曹操に言って来ているのだ。
曹操の武功に対して、献帝は曹操に魏公から魏王の座を与えたのだが、これが国内で大きな問題になっていた。
その事が原因で『王佐の才』と讃えられた荀彧との関係が悪化して死に至らしめたと噂されるほどで、それ以来その話題は曹操軍内で禁忌とされている。
孫権はそのど真ん中の話題をぶち込んできたのである。
「孫権は、戦乱の世の処し方をよく知っているな。息子に持つなら、この様な者が良い。なぁ、子建よ」
曹操は今回書記官として参加している自身の息子である、曹植に向かって言う。
「精進いたします」
「口先だけでない事を期待するぞ」
曹操はそう言うと濡須攻略を断念し、守備隊を残して都へ引き返していった。
これによって張遼はその武名を轟かせる事となったが、共に戦った李典、楽進はこの戦を最期に歴史書の中でその名を目にする事は無くなった。
どこまで本心?
厳密に言えばこのタイミングではありませんが、と言うより孫権の書状がこのタイミングでは無いのですが、曹操が孫権に対して息子を持つならこんな子が欲しいとか、自分の子になれと言う様な事は言っていたみたいです。
曹操の後を継いだ曹丕に問題があった訳では(無かった訳でも)ありませんが、この頃の孫権と比べると確かに見劣りするかもしれません。
孫権はそう言うバランス感覚は超一流で、こう言う綱渡りは孫策には不可能だったでしょう。
とにかく評価うなぎ登りの孫権なのですが、晩年のアレがね……。