第二十六話 袋小路の川
李典はすぐに二射目を放とうとはしなかった。
すでに走っている孫権にその場で二射目を放ったとしても、それは側面どころかせいぜい後続を削る程度で孫権の足を止めるどころか張遼の足を引っ張るだけだろう。
小数の騎射隊をさらに半減させている事もあったが、それでも李典は逃走する孫権軍と並走する様に走り出す。
全力で逃げる孫権だったが、それでも全力であれば李典の率いる烏桓兵の方が僅かに早い。
僅かでも孫権の前から矢を射掛けない限り、孫権を討つ事は当然としてその足を緩める事さえ出来そうも無い。
李典はその位置取りをするべく走り、まさに二射目を放つに相応しい場所に入る。
放て、と言うべく李典が右手を上げたその瞬間、李典の側面に向かって突撃してくる一隊があった。
「李典! ここで討ち取る!」
「……凌統、か」
李典は一目見ただけで相手を見抜く。
まったく、猛将と言うヤツは……。
凌統は李典に右肩を射抜かれ、右腕は使い物にならない。それだけではなく、その後甘寧の部隊に救い出されるまでに満身創痍と言うべき重傷を負っている事は間違いない。
普通であれば、まともに動く事すら出来ないはずなのだが猛将と言う種にはそれは当てはまらない。
何しろ曹操軍には、自身の目を射抜かれながら自分の目を射抜いた敵将を討ち取り、その後も戦場に立ち続けて戦い続けた非常識な猛将が軍部の中枢にいるのだ。
猛将と言う生き物は片腕が動かない程度で戦えなくなる様な、甘い生き物ではない事は李典も頭では分かっていた。
だから、李典は猛将が嫌いだった。
李典は不快でありながらも、瞬時に頭を働かせる。
このまま当初の予定通り孫権に矢を打ち込めるか、と考えるが残念ながらそれは万に一つも成功しない。
勢いのある凌統に背を向けて孫権を狙ったところで、二射目を放つ前にこちらは切り捨てられる。
それなら、打つべき手は多くない。
「百騎で構わない、孫権の鼻面に矢を打ち込め! ここは私が食い止める!」
ただでさえ小数の騎兵をさらに減らす事によって、李典は自身の手で孫権を討ち取る事は極めて困難となった。
が、ここで凌統の足を止めておかなければ、この猛将は李典ではなく張遼の横腹を突く事を狙っているのが李典には分かった。
一見するとただ激情に駆られているかの様にしか見えない凌統だが、この男はただの猪ではない事を李典は見抜いていた。
もしこの男が脳まで筋肉で出来ている様な猪であれば、先の策に嵌めた時点で討ち取れていた。
「凌統! 片腕のお前に何が出来る!」
「口先だけは達者だな、青瓢箪め!」
通常で腕を競うのであれば、おそらく李典では凌統に及ばないだろう。
だが、満身創痍かつ片腕の凌統であれば戦う事が出来る。
孫権に届く必殺の刃は自分でなくても構わない。張遼の刃が届きさえすれば、それで勝利なのだ。
その為に李典は、ここで足を止めて凌統を阻む事に注力した。
谷利は妙な空気を感じていた。
皖城の守りを任されていた谷利だったが、その役割は孫権の一族である孫河に委ね、谷利は独断で皖城から離れ水路で合肥を目指した。
もちろん孫河には理由を問われたが、至って簡単な理由だった。
合肥での戦いは長くかかるはずもなく、おそらく一戦で勝負が着くはずだと谷利は考えていた。
それであれば、前線は合肥に移る事もあって、物資を皖城に集めておく理由も薄れてしまう。
なので、前もって合肥に移す為にも水路で物資を運んでおくべきだと谷利は考えたのである。
そんな指示は出ていないとは言え、谷利はあの甘寧の元で裏方に徹していた人物であり、思い付きで標的を変える事もあった川族を裏で支えてきた人物でもある。
こう言う判断も必要だった事を孫河に伝えると、孫河も納得して城の守りを代わる事となった。
が、谷利は合肥に近づくにつれて、異様な空気を敏感に感じ取っていた。
この空気は勝ち戦の空気ではない。
「空船を全て出せ。槍も束ねて筏代わりに、矢も束ねて浮きの代わりにしろ」
谷利からの命令に、水夫や兵士達は首を傾げる。
「それでは槍も矢も無駄にする事になりますが……」
「全ては俺が責任を持つ。急いで準備しろ」
谷利はそう言うと、自身は船着場に降り立つ。
もし気のせいであれば、それこそ大目玉を喰らうだろうし、孫権だけでなく魯粛や張昭からもしこたま怒られる事になるのは予想出来るどころか目に浮かぶほどである。
が、この予感が当たっていた場合、敗走する味方の兵士達が続々と退路を求めてこの川に飛び込んでくる事になる。
急造の槍の筏では兵士を乗せる事は出来ないが、それに掴まる事によって浮いている事は出来る。
今の季節であれば水に浸かっていても凍死する様な事は無いのだから、完全に沈んでしまわない限り皖城へも対岸へも流れ着く事が出来るのだ。
我ながら独断が過ぎると谷利自身も考えていたのだが、悪い予感は見事と言えるほどに的中していた。
全ての準備が整うより先に、敗走する孫権軍が船着場に殺到してきたのである。
「谷利か? これは一体?」
袋小路に追い込まれた事を覚悟しながら逃走していた孫権は、本来ならいるはずのない自軍の武将を見て驚いていた。
「細かい説明は後で行います。今はまず御身の無事を確保して下さい」
谷利の方も今の状況を説明して欲しいところではあるのだが、どう見ても悠長に話している時間など無いのは分かるので、すぐに孫権を軍船に移乗させようとする。
が、孫権はまず負傷者、特に孫権を庇って全身に矢を受けた周泰達を先に船に乗せる様に指示する。
「ご主君もご一緒に」
「そうしたいのは山々なんだが」
孫権がそう言った後に、谷利にも理由が分かった。
馬が嫌がっているのである。
何とかして馬を引いて空船に乗せようとしたのだが、水を怖がっているのか馬が動こうとしない。
そうする内に敵軍接近の報がもたらされた。
「ご主君、非礼をお詫びいたします」
谷利はそう言うと、孫権の乗る馬の尻を思い切り叩く。
それによって馬は川を飛んで空船に飛び移った。
「お叱りは必ず受けますので、まずはご自身の安全を」
谷利はそう言って孫権を逃がそうとするが、そこに李典の別働隊である烏桓の騎射隊が孫権に向けて矢を射掛けてくる。
「伏せて!」
本来であれば立ち上がる事も出来ないはずの周泰が、ただでさえ全身に矢を受けていると言うのにさらにその身を呈して孫権を守る。
「主君をお守りしろ!」
谷利は僅かに率いてきた兵士達に、小数の烏桓の騎射隊を追い払う様に命じる。
とは言え率いてきたのは水兵でもある事から、騎馬隊をどうにか出来るはずもない。
とにかく矢の射程外に敵を、あるいは主君を逃がす事が目的だった。
正しく状況を把握出来ていない谷利だったので止むを得ない判断ではあったが、真に危険なのは烏桓の騎射隊ではなく、孫権を追ってきた張遼の騎兵だったのを知らなかった為に、それに対する備えを手放してしまった。
見た瞬間にソレと分かる敵将は青龍刀を閃かせ、孫権本隊の兵士達を草でも刈るかの様に切り倒し、一切速度を緩める事無く走っている。
その数は決して多くなく、しかもその後ろからは友軍が追走しているのも見えた。
少し、ほんの少しでも足を止める事が出来れば、あの快進撃は止められるのではないか。
圧倒的な武勇を誇る張遼ではあるが、当然ながら余裕がある訳ではなく、勝利条件を得られなければ敵中に孤立するだけになる。
谷利は単身で張遼に立ち向かったが、谷利の取った行動は張遼の予想したモノではなかった。
船、だと? そんな馬鹿な。孫権には救援を求める余裕があったと言うのか?
張遼は孫権を追っている先に軍船が停泊しているのを見つけた。
水上に逃げられては討ち取る機会が失われるが、今であれば追いつける。
張遼は追いついてきた追撃部隊の兵を切り、孫権本隊の兵を切りながら走っている事もあって、その速度を維持する事も困難な状況だった。
しかし、船着場が見えてくると前が開けてくる。
孫権の率いた兵達が川に飛び込んでいるのだが、そこにはすでに空船が数艘浮かべられたり、槍で筏を作ったり、矢束で浮きを作ったりで兵を救助する準備も出来ていた。
孫権はすでに逃げた後か?
一瞬そんな考えが張遼の頭をよぎったが、軍船はまだそこまで離れていない事やまだ張遼の前に立ちはだかろうとする武将風の男がいる事から、孫権はまだ近くにいると判断する。
おそらくあの軍船か。今なら間に合う。
張遼は青龍刀を掲げて、目の前の武将風の男を切ろうとしたのだが、その男の取った行動は余りにも常軌を逸していた。
その男は丸腰だったのだが、それだけでも正気を疑うところを張遼ではなく張遼の乗る馬に対して真正面から体当たりしてきたのだ。
当然、その男は馬に撥ね飛ばされて川に落ちる事になったが、勢いよくぶつかった事もあって、張遼の馬もよろめいて足を止める事になった。
「谷利! よくやった!」
そんな声が横から聞こえると、足を止める張遼の横を走り抜けて一人の武将が馬から飛んで空船に乗り込むと、その上で大刀の石突きで空船のそこを叩き割って、張遼に向かって構えた。
張遼を追っていた董襲が、張遼を追い抜いて沈む空船の上で大刀を持って迎え撃つ様に立ちはだかった。
董襲の待ち構える空船は軍船にも近く、足場としては理想的なモノだったのだが、先に抑えられたのは孫権を追う上では致命的だった。
もし無理に飛び移ろうとした場合には、張遼は董襲を切れるだろうがこちらは馬を失う事になる。
馬も無く単身で軍船に移って孫権を討てるかどうかは極めて怪しいし、沈む空船から戻ってもただ馬を失ったと言う結果になる。
ならば董襲が離れる一瞬の隙を突くしか無い、か。
張遼はそう考えたのだが、董襲は沈む空船から逃げる気配を一切見せる事無く、大刀を構えたまま川に沈んでいく。
……陳武といい、この董襲といい、孫呉の武将は凄まじいな。主の為には命も惜しまないと言う事を言葉ではなくここまで行動で示せるのは、大したものだ。
足場となる空船を失い、また軍船も離れていった事によって張遼は孫権に対する追撃を断念せざるを得なくなったが、総大将の撤退によってこの一戦では合肥を守り抜いた事もこの時点で確定した。
張遼を追ってきた賀斉や潘璋などの部隊も集まってくるが、事態を察した事もあって一気に張遼軍に殺到する様な事も無かった。
「孫権は対岸へ退いた。これ以上の流血は無意味であろう。まだ血を求めるのであれば、この張遼が存分に相手をするが、どうする?」
「ご主君が退いたと言う証拠は?」
馬を替えた賀斉が張遼を睨みながら尋ねる。
おそらく張遼の言葉を信じられないと言うより、単純に信憑性の問題なのだろう。
「間違いありません。孫権様は無事にこの戦場から離れました」
随分と頑丈な体をしているらしい、馬に撥ね飛ばされて川に叩き込まれた谷利と呼ばれていた男が船着場にあがりながら、賀斉に向かって説明する。
もし戦闘を継続するなら、数自体は少ない張遼を討ち取る事は出来るかも知れないが、その場合には想像を絶する被害を出す事になる可能性がある事を賀斉も考えただろう。
今の追撃軍は小数とは言え張遼の圧倒的武勇を見せつけられている上に、すでに総大将は撤退しているのである。
そんな中で士気を高く保つ事など出来るはずもない。
賀斉や潘璋は張遼の提案を受け入れ、全軍に撤退の合図となる狼煙を上げる。
「孫権に伝えて欲しい。もし陳武将軍がその命を掛けてこの張遼の足を数瞬であっても止める事が無ければ必ず追いつけたであろう。また、追いつく為の足場を董襲将軍が死守した事によって逃れる事が出来たのだ、とな」
「必ず」
賀斉は短く答えると、張遼の部隊が引き上げる為の道を譲る。
こうして張遼は敵軍のど真ん中を突き破って孫権軍を敗走させ、敵軍の真ん中を通って合肥の城に戻った。
この一戦の後、呉では『遼来来』と言うと泣きじゃくる子供ですら息を飲んで黙ったと言う。
あまり目立つ武将ではありませんが
実際に命を落としたのはこの戦ではないですし、ちょっと違う形にはなってますが、董襲は正史でもかなり壮絶な死の遂げ方をしていると思います。
アーケードの三国志大戦では、周泰、陳武と共に『漢の意地』を持っているだけあります。
孫権は帰らなかった陳武と共に、董襲の死を嘆いたそうです。
ちなみに、今回空船を出しましたが、この時代の軍船に救命ボート的な小舟が乗っていたとは書いている側が考えてません。
あくまでも雰囲気的なモノとして出してます。
また、谷利にしても孫権を逃がす為に馬を叩いて川を飛ばせた事はあっても、その後に突撃してくる馬に突進したと言う事はありません。
ウチではやらかしてますが、そんなムチャな子じゃないと思います。