第二十三話 太史慈対楽進
楽進軍と接触する前に、太史慈は自身が率いる武将達を集めた。
戦う前に士気を高めようとしていると思っている為に武将達はすぐに集まってきたが、太史慈が集めたのはまったく違う理由だった。
「董襲、五千を率いて急いで本隊と合流して張遼に備えよ」
「……は?」
董襲は決して無学な者では無かったのだが、すぐに太史慈の指示を理解する事が出来なかった。
「敵を前に戦線を離脱しろとは、さすがに説明を求めても良いでしょう?」
「お前は感じなかったか?」
「は? 何をですか?」
太史慈の言いたい事が理解出来ず、董襲は首を傾げるばかりだった。
「張遼の陣が見えなかったか?」
「張遼の、ですか? いえ、私のところからは」
「そうか」
そう言う太史慈も遠目にそれっぽいモノが見えただけで、陣容を確認出来るほどしっかりと見えていた訳ではない。
その時に見えたのは、恐ろしく少ない騎兵。
おそらく千にも満たない数で、五百から八百といった程度であり、この戦の規模から考えれば戦力にすらなりえない程度の数。
にも関わらず、太史慈はその張遼の陣を見た瞬間から無視できない何かを感じていた。
余りにも強烈な死の気配。
「董襲ならば、同じ感覚を持ってくれるかもと思っていたのだが」
「張遼の軍は想定より多かったのですか?」
「いや、想定通りだった。むしろ想定より少なかったと言える」
「それでも五千を率いて本隊の防衛に回れ、と」
「そうだ、おそらくこの戦でもっとも危険なのは、もっとも少ない張遼軍だ」
離脱しろと言われた董襲だけでなく、他の武将達も太史慈が警戒しすぎではないかと思う。
「……どうにも要領を得ないのですが」
「この中、いや、今回の戦に参加している武将の中で先主と戦った経験があるのが、俺と君くらいだ。故に同じ感覚を覚えたかと思ったのだが」
「……先主、ですと?」
そう言われると、董襲も考えるところが出てきた。
今回の合肥軍ほど極端では無かったものの、先主孫策も小数の兵力を持って大軍と戦って勝利を収めてきた。
しかも孫策の戦は、その小数の軍勢全軍を持って一点突破と言う戦い方ではなく、今まさに戦おうとしている合肥軍の様に、小数の軍をさらに分けてより少ない本隊を率いて戦場を切り裂く事を得意としていた。
「張遼に、先主の相有り、と?」
「先主は攻めを得意とされていた。攻めは後に収める事を考えても武将を討ち、短時間に戦を終わらせ兵を丸呑みにして民心を慰撫する必要があった。守りの戦は兵を吸収する必要も無ければ、民の慰撫も必要無く、ただ攻撃してきた者達を蹂躙するだけで良い。それこそ、我らが赤壁で行った事だ」
太史慈の言葉に、董襲はようやく何を警戒しているのかが伝わってきた。
理屈で考えるのであれば、まったく必要のない警戒であると思う。
孫権軍本隊には四万近くの兵力があり、千にも満たない張遼軍が何か出来る様な兵力差ではない。
さらに言えば、そこに董襲が歩兵五千を率いてきたところで戦局を左右する事態になるとも思えない。
思えないが、そんな理屈で全ての結果が出ているのであれば、孫権軍も曹操軍もおそらく今頃は存在していないだろう。
「その任、引き受けました」
董襲は太史慈の指示に従う。
全てが理解出来た訳では無かったが、確かに董襲と太史慈は孫権軍の中では数少ない戦場で孫策と対峙した事のある武将であり、太史慈はおそらく孫権軍の中でもっとも戦場の孫策を知る人物である。
その人物が孫策と同様の気配を感じ、それがこちらの蹂躙のみを狙ってくると言う死の気配を感じたと言うのであれば無視出来るはずもない。
「丁奉、朱然にも別動として五千を率いて楽進軍ではなく、ソレを迂回して合肥城を狙ってもらう」
「五千で合肥の城を?」
太史慈に質問したのは朱然だった。
朱治の姉の子であったが、孫策の仲立ちもあって朱治の養子になった人物である。
孫権とも幼馴染であったが、これまで戦果に恵まれていたとは言えず本隊の守りではなく太史慈の軍に参加していた。
「まともな兵は残っていないはずだが、落とせずとも良い。数千の敵兵が城に近づいていると言う事実があれば、小数の合肥軍に動揺が走り、必ず隙が生まれる。そこで一気に突き崩す。我々の勝利条件は楽進に勝つ事ではなく合肥の城の奪取である」
前線から外される事に不満を見せる朱然に、太史慈は改めて言う。
太史慈はその凶相から二心を疑われ実力はあっても重用されずに来たが、孫策に気に入られて以降は孫権軍でも将軍として実績を上げてきている。
見るからに猛将と言う風貌の太史慈であるが、その実、知勇兼備の名将である事を改めて実感させられる。
「ですが、将軍。董襲将軍と我々に五千ずつを切り離しては、将軍の率いる兵は半減しますが」
丁奉が太史慈に尋ねると、太史慈は頷く。
「それでも我が軍は一万。楽進軍は二千程度と聞く。それだけの兵力差があって遅れを取る様な太史慈ではない」
その武勇は間違いなく孫権軍屈指の実力者である太史慈が、数倍の兵力を持って対峙するのだから確かに心配する様な事は無いだろう。
こうして太史慈の率いる軍は三手に別れる事になり、戦う前から兵力は半減する事になったとは言え、楽進軍の数倍の兵力を有する事に変わりはなかった。
もしその事実で少しでも緩みが発生していれば、と太史慈は思ったのだが、楽進軍はそれほど甘くなく現実を正しく理解している軍だった。
数は当初の予定通り二千足らずで、歩兵を中心とした一軍。
規律正しく前進するその進軍は、まさに一丸となった巨大な生物の様な一体感があった。
見事な統率だ。確かに正面から噛み合えば余計な被害を受ける事になるかも知れないが、悠長に構えていてはもう一方の攻め手である凌統達に先を越される可能性もある。
太史慈とて武将であり、率いる者達がいる以上はその者達に武勲を挙げさせたいとも思っていた。
敵兵は多くとも李典では、凌統や甘寧の相手は務まらないだろうと太史慈は思っていた事から、実戦経験に乏しい朱然や丁奉を切り離して身軽になったと言う一面もあった。
「数は少ないとはいえ、あの軍を本隊に近付けるのは良くないな。ここで潰すぞ!」
太史慈はそう言うと、正面から楽進軍の前に陣を敷き迎撃の体勢を取る。
楽進もまた勇名を馳せた猛将である事から、こちらが備えているからと言って大きく迂回する様な用兵はしないだろうと太史慈は予想していた。
そして、予想通りに楽進は前進してくる。
太史慈は両翼を伸ばして鶴翼に構え、正面と両翼から楽進軍を捉えて三方向から矢を射掛ける。
三方向からの矢の雨に対し、楽進軍は全面を盾で覆って矢を防ぐ。
その上でゆっくりとだが一歩ずつ確実に前進してくる。
大したものだな。武将だけでなく、全軍に恐怖すら感じさせないとは。
この状況下では兵士の方から崩れてもおかしくないはずなのだが、楽進軍はまったく揺らぐ事も無く太史慈軍の矢などものの数ではないとばかりに前進を続ける。
これはただ武将が豪胆であると言うだけでは、実行する事は出来ない。
豪胆な武将に対する絶対の信頼と、厳しい鍛錬によって得た強靭な身体能力が必須である。
一見すると何も考えずただ前進しているだけだが、その一歩一歩は重さだけではなくこちらの戦略をも踏み越えてくる強さがあった。
「矢では止められぬか。正面から突き崩す」
太史慈は自ら兵を率いて、楽進軍に切り込む。
左右の弓隊もそれぞれに抜刀して、押しつぶす様に額進軍に迫る。
騎兵を含む太史慈自らが率いる軍が最初に楽進軍に殺到しようとしたが、その時敵軍の陣形が開く。
「何!」
一塊りだった楽進軍は左右の攻撃に備える様に二分して、正面を開くとそこに構える楽進とその近衛隊が弓矢を構えていた。
「この楽進を侮るな。この程度の策を弄する事も無いとでも思ったか」
楽進とは剛直な武将であり、その豪胆な前進こそが持ち味である。
と、思い込まされていた。
層の厚い曹操軍にあって、楽進は記録係と言う末端の書生から将軍にまで上り詰めた人物である。
そんな人物が剛一本なはずもなく、剛柔併せ持つからこそ今の地位にある。
油断したか。
太史慈はその事を認めない訳にはいかず、正面からの矢に備える。
当然そのまま突撃する事も出来ず足を止める事になったが、正面からの矢はそれほど多くは無い。
後続の者には犠牲者を出したものの、太史慈自身は両手に持つ短戟を振るって矢を防いだ。
「俺を討つほどの策では無かったな、覚悟しろ楽進!」
正面を開けた事によって、太史慈の前に楽進への道が開いた。
一気に楽進に向けて駆けようとした太史慈だったが、
「甘い。侮るなと言ったはずだ」
左右に開いた楽進の陣だったが、全員が例外なく左右の外側に備えていた訳ではなく、内側にいる数名はそれぞれ弓矢を構えて太史慈に矢を射掛けてきた。
極小の鶴翼の陣によって、楽進は先ほどの太史慈の攻撃をやり返してきたのである。
「おのれ、楽進!」
太史慈も短戟にて矢を防ごうとするが、正面からのみならともかく、左右からの一斉射撃を短戟のみで防ぐ事など不可能であり、飛来する矢の一矢が太史慈の腰に当たる。
一撃で体を貫く様な矢では無かったものの、一切の衝撃も痛みも発生しない訳ではなく、痛みによる一瞬の体の硬直のせいで太史慈は体勢を崩し落馬してしまった。
「今だ、太史慈を討て! その首、孫権軍にとって安くはないはずだ」
武将の首を取って相手の士気を崩壊させるのは、戦場においては非常に有効な手であり、圧倒的な兵力差のある合肥軍にとって勝利の為のほぼ絶対条件とも言えた。
落馬した太史慈に、楽進の兵が殺到する。
が、そこで血風が吹き荒れ、楽進の兵は薙ぎ倒される。
「確かに、侮っていた事は謝ろう」
楽進の兵を薙ぎ払い、ゆっくりと立ち上がりながら太史慈が楽進を睨んで凶相の笑みを浮かべる。
「だが、そっくり言葉を返そう。この太史慈を侮るなよ」
「二心を抱く反骨の武将と聞いていたが、噂などまるで当てにならないな」
楽進は自ら槍を手にすると、太史慈に向かって言う。
太史慈は決して討ち取られた訳ではないものの、手傷を負った状態で敵陣中にあったので今尚健在である兵力を指揮する事が出来ず、また楽進も士気は上回るとはいえ数倍の兵力に囲まれた状況は変わっていない。
双方の戦いは、まさに死闘となりお互いに流血を止められないところに入っていった。
本来ならこの戦では無いのですが
本作では合肥と濡須口の戦いが合わさっている上に創作設定まで交えているので、今更細かい事を言っても仕方がない事なのですが、朱然はどちらかといえば合肥ではなく濡須口の方の戦いの武将です。
まぁ、このタイミングで董襲や丁奉がウロチョロしている時点でおかしいと言えばおかしいので、あまり細かく気にしないで下さい。
また、太史慈は正史ではこの戦どころか赤壁の戦いの前に病没しているので、演義ほどの活躍は見せていません。
が、とんでもない遺言によってインパクトを刻み込む事には成功しています。
是非ともその遺言ネタは使いたいところです。