第二十一話 死闘が始まる
「朱光ですら張遼将軍が着くまで持たなかったのか」
合肥では、文官達が不安に駆られていた。
曹操軍内で速攻と言えば夏侯淵と言う印象が強いが、騎馬隊の指揮に優れる張遼の足も相当に早い。
また皖城を任されていた朱光も、前線の城を任される守将としては十分に能力のあった人物である事は、合肥の者達であれば誰もが知っている。
その朱光をして、快速の張遼が援軍として駆けつけるまで城を守る事が出来なかったのだ。
しかも張遼が放った物見によれば、孫権軍の大軍による総攻撃などではなく先鋒隊の呂蒙と甘寧と言う二部隊によってだと言う。
「皖城、か。孫権軍は川族が主体と聞いていたが、存外戦術を心得ているな」
慌てる文官達と違って、自称文官の李典は冷静に戦況を読んでいる。
「戦術? 手近な城を奪っただけでは?」
楽進が不思議そうに尋ねるが、李典は首を振る。
「皖城を先に落としたのは、合肥の後の事を考えての事。先に合肥を落とした場合には、どうしても次の行動の際にこの皖城が邪魔になる事が分かっているのだ。向こうの参謀も分かっているじゃないか」
李典の分析に、文官達の動揺は大きくなる。
「それでは勝目など……」
「ある」
それは三人同時の答えだった。
「皆、そこに気付いていたと言う訳か」
張遼が言うと、李典も楽進も小さく頷く。
「将軍方、お三方がそれぞれに勝機を見出している事は分かったが、是非とも我ら軍才に乏しき身の者達にも分かる様に説明していただきたいのだが。情けない事に我々はただ慌てる事しか出来ていないので」
まったく慌てた様子を見せない文官もいた。
合肥の三人の武将があまりにも不仲だった為に、その仲を取り持つ為に急遽派遣されてきた文官の趙儼である。
元々合肥には薛悌と言う文官が長として置かれていたのだが、その薛悌が自分には手に余ると泣きついた結果、立場としては張遼、李典、楽進の直属の上司の立場にある趙儼が送り込まれたのであった。
しかし、立場だけは上であっても実際に兵権を持っている訳でもなく、また武勇によって張遼や楽進を黙らせる事が出来ると考えるほど趙儼はうぬぼれていないので、常に三人を立てる様にしている。
またそれぞれに我の強い三人ではあるが、自分たちの立場を弁えている事もあって趙儼の言葉には耳を傾けている。
それによって合肥はかろうじてこれまで分裂せずにいられたのだった。
趙儼の質問に李典は張遼の方に視線を向ける。
立場は趙儼の方が上であるとはいえ、合肥における総大将は張遼である。
「我々の勝機は敵総大将が戦場に出ていると言う事だ」
張遼の言葉に、李典と楽進は頷く。
「確かに敵は我らの十倍を超す大軍であるが、我らはただ一人、孫権さえ討ち取ってしまえばこの戦に勝利する事が出来る」
「驚く程簡単に言ってくれるが、それは可能な事なのか? 一人で十人を抜いて討ち取る事であればともかく、十万近い敵兵に守られた要人を討てるものなのか?」
誰しもが思う事を、趙儼は代表して張遼に尋ねる。
「そこは戦術次第と言う事もあるが、どうなんだ、李典」
張遼は参謀役を兼ねる李典に尋ねる。
「そもそもが十倍の兵力を相手にすると言う事なのだから、打てる手は決して多くはない。だが、まったくもって打つ手無しと言う事も無い」
李典が地図を見ながら言う。
「向こうも戦術を理解しているのであれば、さらに打つ手は少なくなるが、逆にこちらの打った手の意図も読み取れる事だろうから、こちらの策に対策する様に動くだろう。十万の大軍と言っても、向こうも奪った皖城の重要性は分かっているはずだから、守備兵を最低でも一万、多ければ二万は配置するだろう。向こうも官渡の結末は知っているだろうからな」
戦わずして一万以上の兵力を削れるのは有難いとは言え、それでもまだこちらの十倍以上の大軍である。
「こちらは三手に分かれ、敵を迎え撃つ。中軍に張遼、左に私、城の守りに戻りやすい右に楽進を。そうすれば、敵軍は確実に同じように三手に分かれて対処しようとしてくる」
「向こうは大軍。多少の野軍を放置してでも合肥の城を攻めてくるのでは?」
「それは無い。もしその場合には楽進がすぐに城に入り守りを固め、私が側面から孫権軍に仕掛ける。奴らは城と私に対処する為に兵を散開させる事になり、張遼の奇襲する隙を広げる事になる。さすがにその危険は冒せない事くらいは判断出来るはずだ」
「さすがだ。そこまで敵の策を見越しているのであれば、心配無用だ」
趙儼はそう言って手を叩くと、文官達を安心させる様に言う。
「とは言え、我ら文官とて弓を引く事くらいは出来よう。武将達の足を引っ張るワケにはいかないからな」
趙儼はそう言って文官達を落ち着けて、この場から退出して武将達に任せる。
「戦術は確かにそれしかないと思うが、李典はどれほどの勝算があると見ている?」
張遼が尋ねると、李典は腕を組んで考え込む。
「良く言っても四割程度。悪くすれば二割といったところだろう。勝目が無いワケではないが、勝てる見込みは薄い。お前達と顔を合わせるのも、これが最期かも知れないな」
李典は笑いながら言う。
「討ち死にすれば、盛大に弔ってやろう。何なら弔辞も読んでやるから、安心しろ」
楽進の言葉に、張遼と李典は驚く。
「どうした?」
「いや、中々洒落た事を言うもんだと思ってな」
「案外面白いヤツなのか?」
張遼と李典が、初めて楽進に興味を持った様に言う。
「黙れ、これから戦だろう。準備に入るぞ」
「照れるなよ」
「もう少し面白い事言えよ。お前の事好きになれるかも知れないぞ?」
「黙れ」
楽進が最初に動き始める。
不仲でどうしようも無かった三人が揃って出撃する、最初で最後の戦が始まろうとしていた。
一方の孫権軍では、まさに呂蒙が李典の策を看破していた。
「向こうの勝機として狙ってくる弱点は二つ。こちらの物資と、総大将の首です。兵力の差などを考えても、狙ってくるのはおそらくご主君でしょう」
「ではご主君に皖城を守ってもらうのは?」
そう提案したのは、参戦している武将の中でもかなり若手の丁奉だった。
「いや、それでは全軍の士気に関わるし、何より敵が全力で皖城に火を点けに来るだろう。それによってこちらは撤退させられる事になる。危険はあるものの、ご主君には大軍を率いてもらった方が結果として安全だろう」
呂蒙の説明に、丁奉は納得して引き下がる。
「向こうは別働隊を組織して皖城を狙うほどの兵力に余裕は無く、唯一の勝機を信じて主君を狙ってくるのは間違いありません。おそらく三手に分かれ、それぞれに攻撃してくる事でしょう。それしか向こうに勝目は無いのですから。なので、こちらはその三手に対し、もっとも有効と思われる武将を当て完全に打ち砕いて合肥を落とす事にしましょう」
呂蒙はそこで少し考え込む。
「まず参謀役の李典ですが、武勇の面においては楽進、張遼より劣ると思われます。が、慎重で切れる副将ですので、行動の自由を与えてはどの様に揺さぶられるか分かりません。なので、凌統、甘寧と言う猛将をぶつけて圧力をかけます。ここは討てる限りの兵を討ち、敵に敗北感を与える事も重要ですのでその武を示して下さい」
呂蒙の言葉に、凌統と甘寧は頷く。
「楽進は豪胆かつ剛直な武将ですが、張遼ほどの疾さや突破力は無く、李典ほど機転が効く訳でもない。なので実戦経験豊富で器用に立ち回る事が出来る太史慈を中心とした部隊で食い止め、翻弄してもらいます」
「まともに噛み合うな、と言う事か」
太史慈の言葉に呂蒙は頷く。
「張遼ほどの突破力は無いとは言え、剛直な楽進とがっぷり組み合うのは被害の拡大を招きかねません。振り回してやりましょう」
「心得た」
「おそらく奇襲の決め手となるであろう張遼を止める壁の指揮は、広い視野を持つ陳武に指揮してもらおうと思っています。隙を見せれば小数でも突撃してくるでしょうから、油断される事の無い様に」
「……張遼、か。かつて呂布の副将であったらしいがどれほどのモノか、興味はあったのだ」
陳武は赤い目を光らせて薄く笑う。
普段は紳士的な陳武だが、こう言う表情を見せると凶悪な川族として名を馳せた人物であると実感出来る。
「向こうは負ければ終わりである事は十分に理解しているはずだから、数の利に甘える事の無いように油断せず、敵を打ち砕く事に専念する様に」
「はっは、まるで公瑾の如しだな」
孫権が笑いながら呂蒙を褒める。
「大都督は俺の理想像ですので、いつも大都督ならどうするかを考える様にしていますが、俺などまだまだ足元にも及びません」
「そんな事も無いと思うが、念のために言っておくと当代の大都督は公瑾では無いからな」
「俺にとって大都督と言えば先代です。当代もきっとそう思っている事でしょう」
これは決して当代の大都督である魯粛に問題があると言うだけではなく、それだけ周喩と言う存在が大きかったのである。
それぞれの部隊の指揮者を定めた後に、各武将をそれぞれの部隊に配して孫権軍の準備も整った。
もしこれが普段の合肥軍を相手にするのであったなら、孫権軍は苦もなく合肥を下していたはずだった。
そう、この時でさえなかったら。
ダメダメな三人
個々に実績十分で名前の通りも良いのであまりそう思われてないかもしれませんが、この時の合肥の三人は本当に混ぜるな危険レベルだったみたいです。
あまりにもダメダメ過ぎて、実はかなり偉い人である趙儼がこんな僻地に送り込まれる事になるほど。
文官と言う事や演義で出番が無い事などから趙儼と言う名はあまり有名とは言えないかもしれませんが、あの陳羣と並ぶ名声があったほどの人物です。
と言うより、それくらいの人物でもなければこのダメダメな三人を空中分解させずにとどまらせる事は出来なかったでしょう。