第十七話 予期せぬ大都督
周喩の無言の帰還が孫権軍に与えた影響はあまりにも大きく、すぐに文武官が集められた。
単純に大都督を失ったと言う喪失だけでも大きすぎるのだが、それが『周喩』の場合にはそれだけに収まらない。
先代の孫策を主君と定めてから周喩はその片腕として、あくまでも一家臣と言う立ち位置を崩す事無く徹底してきた。
が、周家は本来であれば主家の孫家など簡単に飲み込めるほどの名家であり、文字通りの意味で今の孫権軍の土台を作り上げた人物であった。
もちろん血筋のみではなく、赤壁での大勝利など大都督としての実績もあり、謙虚な人柄で人望も厚かったのは言うまでもない事である。
「後任には魯子敬を、との事でした」
「ワシか?」
呂蒙の言葉に、魯粛が首を傾げて言う。
「何だ? お前には他に魯子敬の心当たりでもあるのか?」
孫権からそんな事を言われ、魯粛は僅かに思案する。
「まさかこういう形で大都督が回ってくるとは思いもしなかったのじゃが、ここで断るのは公瑾の事を考えなくとも野暮と言うものじゃな」
魯粛自身、いずれは大都督になるだろうとは考えていた。
しかしそれは周喩を押しのけて、と言う訳ではなく、自分が大都督になる頃には孫権は皇帝となり、周喩は丞相となっていたはずで、本来であればその空席になった大都督の座に就くはずだったのだ。
「言いたい事は山ほどあるが、それは言っても詮無きことじゃろう。さっそくじゃが大都督として主に二つ提案しておきたい事がある」
「本当に早速だな。何事だ?」
「まず、ワシの後任には厳畯を推す」
唐突な後継者指名に、誰もが驚く。
「……私が?」
「うむ。聞いたぞ? お主、ワシが実際より評価されておるのが気に食わんのじゃろう? その気概やよし! 是非とも口に出した以上の結果を期待したいものじゃ」
魯粛の言葉に、厳畯は何も言えなくなる。
「いかにもお前好みの悪趣味な冗談だが、体調に不安などあるのか?」
「いや、まったく。すこぶる快調じゃぞ?」
孫権の心配に、魯粛は笑って応える。
「ならばその様な事は冗談でも言うでない! 今、この状況がわかっておるのか!」
張昭に怒鳴られるが、魯粛は平然として張昭を見る。
「ワシの言葉を冗談と取るのであれば、それでも構わんがの。じゃが、今ここにおる者の中で自分より先に公瑾がこの世を去ると思っていた者がどれほどおる?」
魯粛の口調はさほど強くは無かったが、この場にいる全員を黙らせる事になった。
周喩は確かに孫権軍の中では最古参とも言うべき一人であり、厳密に言えば家臣では無かったにしても、それこそ先々代の孫堅時代から繋がりがある。
が、実年齢においては中堅の中でも若い方であり、魯粛を始め周喩より年上の家臣の方が多い。
「正直に言えば、ワシ自身が先代や公瑾がワシより先にいなくなるなど考えもしなかった事じゃ。こうなってはワシ自身が本当に天寿を全う出来るかどうかは分からんじゃろう? 故に後任を定めたと言う事じゃ」
「考えたくはないが、考えない訳にはいかないと言うのだな。それは分かった。もう一つは何だ? また悪趣味な事を言うつもりじゃないだろうな」
「公瑾の葬儀じゃが、大々的に行う事にする。誰にも隠さず憚る事無く、全土に知らしめようぞ。周公瑾は死んだ、と」
これも妙と言えば妙な事を、と誰もが思った事である。
孫権が江東の覇者として認められ『呉公』となったとは言え、その地盤は磐石とは言えず、荊州には劉備と言う大きな問題を抱えている上に、北には曹操と言う巨大な敵がいる。
赤壁の殊勲者である周喩の死が知れたら、今度こそ大軍を率いて南下してくるのではないかと言う不安は消えていない。
「戦上手の孟徳が、こんな程度の勝機に喜び勇んで大軍を率いてなど来んわい。むしろ公瑾ほどの才覚が現れ経験を積むまで何ら脅威にならんし、けっきょく地の利は変わらんのじゃからそれなら不安定な西涼やら漢中やらを先に処理するじゃろう。それより、これほど大きな事を隠そうとして他のところから漏れて信用を失う事の方が大問題になるわい。じゃったら、こっちから派手に知らせてやった方がマシじゃ」
何をどうしたところで、周喩ほど目立つ人物を隠しきる事は不可能である。
それを隠そうとした場合、それこそ諸葛亮辺りが喜んでその部分を啄いてくるだろう。
そんな事に気を遣うくらいなら、こちらから大々的に周喩の死を知らしめ、それほどの大駒を失いながらも家臣団に動揺は無く主君の孫権の元一致団結しているところを見せる方が良い。
「趣味の良い話では無かったが、今の子敬の案には俺も賛成だ。どうせなら、義兄が恥ずかしくて死んでいられないほどに盛大に送ってやろうではないか」
孫権の言葉に全員が頷いた時、一人挙手する者がいた。
程普である。
「きっかけを逃してすこぶる今更なのですが、大都督は本当に魯粛で構わないのですか? 我々武官は承知しておりますし、周公瑾の遺言であればそれに異を唱える事はありませんが、諸先生方は魯子敬を大都督とする事に異論はありませんか?」
「異論などあろうはずがない。のう、子布よ」
「黙れぃ」
張昭は魯粛を睨みつけて言ったあとに、程普を見る。
「それはこちらこそ聞きたい。実績においても人望においても、そこのたわけより徳謀殿こそが大都督には適任であるはず。それでも徳謀殿はそこのたわけの下風に立つと言われるのか?」
「無論。私自身、公瑾殿の次は子敬殿が適任であると考えております。師父殿は私の方が実績人望共に上と評して下さいましたが、その程度で埋まる様な才覚の差ではありません」
「徳謀殿がそこまで言って下さるのでしたら、こちらに何の異論がありましょうか」
張昭はそう言うと、程普に頭を下げる。
「子布よ、頭を下げる相手が違うのではないか?」
「徳謀殿、大都督の事、くれぐれもよろしく頼みましたぞ」
張昭はあくまでも魯粛ではなく、程普に向かって頭を下げていた。
大都督となった魯粛の最初の仕事は、周喩の葬儀であった。
周喩の葬儀は、孫権軍の本拠点ではある建業ではなく長らく周喩の活動拠点であった柴桑で行われる事となった
孫権の前では曹操が攻めてくる事は無いと断言した魯粛だったが、実際には曹操が大軍を率いて南下してくる事は十分に考えられる危険であった事は魯粛も十分に分かっていた。
だが、孫権軍の支柱とも言うべき周喩を失ったその場でその事を伝えると、それこそ赤壁開戦前の様に降伏を言い出す事の方が危険だと考えての事だった。
実際に曹操軍の南下の計画はあったようだが、魯粛の予測、と言うより期待通りに西涼の馬騰に動きがあったらしく、曹操の南征計画は無くなったと言う情報が入ってきた。
魯粛と周喩を比べた場合ほとんどの面において周喩が優っている事は魯粛も自覚しているが、商人と言う独自の情報源を持っている面においてのみは、魯粛は周喩を大きく上回っている点である。
また、魯粛の計算外な事はあった。
未亡人となった小喬が、この葬儀に対して非常に協力的だった事である。
当初は故人の性格の様に密やかに慎ましく送ってやりたいと言っていたのだが、持ち前の気の強さや血の気の多さもあってか、最終的には姉妹揃って協力してくれている。
当然ながら盲目の姉には無理をさせられないものの、弔問客に対して顔見せだけでも大きな役割であった。
が、空気を一変させる弔問客が現れた。
劉備軍よりの弔問団が現れたのである。
ほぼ形骸化しているとは言え同盟関係にあるのだから弔問客を送ってくるのは当然であり、主君の妹が嫁いでいるのだから、むしろ訪れない事の方がおかしい様な関係でもある。
しかし、孫権軍内では周喩の死因は直接矢傷を負わせた曹仁より、その後の劉備や諸葛亮の方が大きな原因であるとされて敵視されていた。
とりわけ諸葛亮は孫権軍の武将から忌み嫌われているところなのだが、劉備軍からの弔問の使者と言うのがまさにその諸葛亮だったのである。
孫権軍の武将達が色めき立つのが分かる。
劉備軍の弔問団の先頭を歩く趙雲も緊張感が増した事を察知して、周囲に睨む様な視線を飛ばしている。
「甘寧はいるか?」
魯粛は剣を手にかけようとしている呂蒙に尋ねる。
「そりゃいますよ。けしかけますか?」
「たわけ、酔っておらんじゃろうな」
「甘寧はそこまで非常識じゃないですよ。酔い方が問題なだけで」
「ならば良し。お主もたわけた事をするでないぞ」
魯粛はそう言って呂蒙の動きを封じると、弔問団を迎える為に歩いていく。
「何をしているか! 何より礼節を重んじられた大都督の葬儀で、礼節を汚す様な事をしてくれる訳ではあるまいな。それを良しとするのであれば、キサマらより先に奥方やお子達が先であろうが。弁えよ」
魯粛が一喝すると、色めき立っていた武将達も冷静さを取り戻す。
「失礼した」
魯粛はそう言って頭を下げると、趙雲の横に立って共に祭壇に向かう。
「子龍よ。わざわざ言わんでもわかっておると思うが、ワシは公瑾より血が流れる事を厭わんぞ」
祭壇に向かう途中、魯粛は趙雲に向かって囁く。
「なんじゃったら、今この場で百人でも千人でもけしかけてキサマらを切り捨て亡き者にしてしまった方が、わしらとしては都合が良いのじゃぞ」
「分かっています」
その脅し文句にも動揺する事なく、趙雲は涼しげに応える。
「あえてそれを口にすると言う事は、そちらにその意思が無い事も分かっています。その意思があるのであれば、そんな脅しより先に剣を向けてこられるでしょうし、それを察する事の出来ない軍師殿ではありません」
「……まったく、翼徳であればそちらの落ち度を啄いてやる事も出来たじゃろうに。つくづくやりにくい男じゃ」
魯粛はそう言って小さく笑うと、趙雲の傍から離れて元の立ち位置へ戻る。
先に剣を抜いてくれれば、こちらとしても正当性をもって排除出来たものを。
魯粛は心の中でそう思ったものの、そんな安い挑発で趙雲を釣る事は出来ない事は分かっていた。
今回は前半戦
本来なら葬儀のところまでの予定だったのですが、長くなりそうだったので途中で切ってます。
このタイミングで伝えたかどうかは分かりませんが、魯粛は自身の後任には呂蒙ではなく厳畯をと指名したそうです。
ですが、生粋の文官で馬にも乗れない厳畯は辞退して呂蒙が後任として選ばれる事になったとか。
演義での周喩の葬儀のシーンでは、趙雲に睨まれただけで呉の武将は手も足も出なくなったとされてますが、孫権軍の武将がそこまでヘタレなはずも無いのでここでは採用していません。
演義ではそんな扱いだから、後に髭男爵からめちゃくちゃナメられる事になったのかも。