第十六話 周喩の旅
「襄陽の劉備を攻める」
周喩の言葉に、副将の呂蒙や程普も耳を疑った。
「大都督、攻めるのは益州、成都の劉璋なのですよね?」
「いえ、これから攻めるのは襄陽の劉備です」
「大都督、理由をお聞かせいただけますか?」
混乱する呂蒙ではなく、冷静沈着な程普が周喩に尋ねる。
今回の出征には黄蓋も参加を強く希望していたのだが、赤壁での戦いの怪我の回復に時間がかかった事もあり、今は落ちた体力の回復を優先させている。
と言えば聞こえは良いのだが、久しぶりの戦に参加出来るとなったら言う事を聞かないのは目に見えていたので、呂蒙が理由をつけて留守番を命じたのであった。
もちろん言葉は選んでいるので黄蓋は真意には気付いていないはずだが、もし気付かれていた場合には面倒な事になりそうなので、そこは魯粛に任せようと言う事は呂蒙と程普の間で話し合われていた。
「劉備には先頃妹君が嫁入りしたばかり。そこに攻め込むとなれば、それ相応の理由が必要になりますが」
「大義、とは言えないまでも今のままで益州に攻め入る事は出来ません。最大の理由は後方支援を約束した劉備が信用出来ないと言う事です」
周喩の言葉に大半は頷く。
孫権軍にとって、劉備による南郡城強奪から始まる荊州乗っ取りに関する不信感は根深く、それに対する謝罪も無いどころか自らが荊州の支配者であると言う劉備の態度には不信感どころではない。
「もしこのまま攻め込んだ場合、まず間違い無く劉璋の伏兵にあって私達は苦戦を強いられる事でしょう。頼みの綱となる支援物資も、おそらく敵襲にあったなどと適当な理由を付けて送らない。そうして立ち往生して全滅を待つだけとなったところで劉備はあたかも救世主であるかの様に助けに来る。これによって、我々は劉備の下風に立たされる事になります」
この周喩の言葉には根拠となるものは無かった。
が、説得力はあった。
劉備と諸葛亮であればその程度の小細工はやってくる、と言うのは全員が容易に想像出来る。
「益州に攻め入るには、まず後顧の憂いを断つ必要があります。主家の祖先に当たる孫子も言っています。『守りに不安があるのであれば、攻め入るべきではない』と」
「異論ありません!」
呂蒙は今すぐにでも攻め込みたいと、態度で示している。
「襄陽は守りに適した城。荊州軍に本気で守りに徹されれば、さすがに苦戦を免れません」
「その通りです。ですので、狙いは短期決戦。必ずしも劉備を討つ必要はありません。劉備が屈すればそれで戦は終わりです。そのお膳立ては副都督が済ませてくれています」
「魯粛が?」
周喩の言葉は絶対であり、劉備軍と戦うのは望むところと言う呂蒙ですら、そこには疑問を持った。
魯粛は偏屈で剛直なところは見て取れるが、それでも柔軟な思考の出来る人物ではある。
しかしそれは自身の戦略に添う場合にのみ、と言う前提が付く。
今回の周喩の行動は明らかに魯粛の戦略とは違い、むしろこれによって魯粛の戦略である天下三分は完全に崩壊する事になる。
「魯粛……あ、いや、副都督は天下三分を考えていたはず。劉備を攻めるお膳立てをわざわざ?」
「ははは、副都督が進んでそう言う事をやったわけではありません。もしそれを企んで行動していたのであれば、間違い無く諸葛亮は気付いて対策されるでしょう。それを意図していないからこそ、最高の状態を作り出せたのです」
「それは?」
呂蒙ではなく、程普が周喩に尋ねる。
益州を攻めようとする周喩の率いる軍は大軍ではあるが、それでも守りに適する襄陽を攻め落とすのは容易ではないはずだが、周喩が勝利を確信しているかの様に言うのが不思議だったのだろう。
「まったく特別な事ではなく、むしろ常識的な事なので見落としやすいのですが、今回の出征は劉備側からの依頼でもあります。当然我々の進軍を確認する為にも荊州の端で益州に攻め入るのを見送る必要があります。劉備軍は威光を見せつけようと関羽や張飛に兵を率いさせて来るでしょう。結果として襄陽は手薄。今から我々が攻め込んだ時、出張っている関羽らの軍が戻るまでに戦を終わらせます」
周喩の提案した速攻の奇襲に、将軍達の士気が一気に高まる。
「さすがは大都督とも言うべき慧眼ではありますが、いささか賭けの部分は否めないのでは?」
周囲が湧き上がる中、程普だけは冷静さを失わず周喩に尋ねる。
「劉備を信じて益州を攻めるのは、それ以上の賭けです。それであれば私は勝算の高い方に賭ける事にします。魯粛殿の卓越した手腕は疑い様がない事ですが、それでも口約束だけを信じて益州深くまで攻め込むのは賭けどころか無謀です」
「……いかにも、その通り」
最終的には程普も折れて、進軍する方向を益州を目指す西ではなく荊州北部である襄陽を目指して北に進路を変更した。
そしてまさに襄陽攻略を始めようとしたその時、襄陽の城壁にずらりと劉備軍の旗が掲げられた。
「大都督、わざわざの御足労、恐れ入ります。ですが、攻撃目標は益州であったはず。挨拶のためとは言え遠回りが過ぎるのではありませんか?」
城壁の上から弓兵に構えさせた上で、諸葛亮が周喩に向かって言う。
「今であれば、これからでも益州へ攻め込む事も出来ましょう。これ以上、時と兵士の体力を無駄にするべきではありません」
諸葛亮の言葉に呼応するかの様に、荊州で得た猛将の黄忠と魏延の部隊がすでに布陣を済ませている事を見せつける様に旗を掲げて姿を現し、城門が開かれるとそこには趙雲が待ち構えていた。
「大都督、ここまで戦力を誇示するのは返って奴らの戦力が少ない事の現れなのでは? 今、全力で襄陽を攻めれば多少の犠牲は出ても攻め落とす事は可能かと思われます」
呂蒙はそう提案してくるが、おそらくその読みは正しいと周喩も思う。
だからこそ戦を避ける為に諸葛亮が『そちらの動きは全てお見通し』と、わかりやすく見せつけてきたのだろう。
正面に突破力と実績のある趙雲を置いた事もそうだろう。
戦えば被害が出るだけで無く、そのまま貫いて首を取られる恐れがあるとこちらに思わせる。
しかし、本当に諸葛亮の思惑通りに事が運ぶだろうか。
戦略ではともかく、戦術、さらに言えば戦場ではこちらの思惑通りに事が運ぶとは限らない。
このまま開戦に踏み切った場合、まず間違いなく趙雲が突撃してきて、それに合わせて左右から黄忠と魏延も攻撃してくる。
こちらはそれに対して防戦せざるを得ず、被害を被った上に立て直しの為に後退。次に攻勢を掛ける時には向こうは完全に守りに入って硬直したところを、戻ってきた関羽と張飛にこちらの後背を襲わせ、退却に追い込むのが諸葛亮の戦術だろう。
では、防戦しなければどうなる? 趙雲の突撃に合わせてこちらも左右の軍を一気に城内目指して突撃させる。
趙雲、黄忠、魏延に対しての備えを全て捨てて城内に雪崩込ませる。
どちらの首が落ちるのが先か、競争する事になると言うのは果たして諸葛亮は考えているだろうか。
周喩はそう考えたのだが、それを命じる事は出来なかった。
突撃を命じようとした周喩だったが、その口からは言葉ではなく大量の血が吐き出されたのである。
それでもなお周喩は襄陽の城を睨んだが、そのまま昏倒して落馬したのであった。
呂蒙は急ぎ本陣に兵を退き、幕舎に従医を呼ぶ。
が、従医は周喩の状態を見ると言葉も発せず、ただ首を振るだけだった。
「医師殿、どういうおつもりかな?」
それを見て呂蒙は剣を手に掛けるが、医師はそれに恐れる素振りも無く言う。
「大都督の鎧を脱がせて見れば分かる事です」
医師に言われた通りに、呂蒙達は周喩の鎧を脱がせる。
鎧の下には必要以上に強く厚く結び付けられた帯が目に入り、これでは食事はもちろん言葉を発する事も呼吸する事すら厳しいのではないかと感じられた。
少しでも楽にした方が良いと思いその帯を緩めようとしたのだが、僅かに緩めただけでその白い帯は見る見る内に赤黒く変色していく。
脇腹の傷が開いているのだ。
「もはや、手遅れです」
「申し訳ありません。こんな中途半端なところで」
意識を取り戻した周喩が、苦笑いして呟く。
「大都督!」
「申し訳ありませんね、私が賭けを外してしまったばかりに迷惑を掛ける事になりました」
周喩はいつも通りの穏やかな口調で言うが、この時この場に集まった全員が周喩と言う人物の凄まじさを知る事となった。
このきつ過ぎる帯は、何も今初めて巻きつけられたものではなく、当然鎧を身に付ける前からこの状態で巻かれていたのだが、参加した人物達、中でも周喩に近しい呂蒙や程普ですらその事に気付かなかった。
ここまできつく巻いていると言う事は、周喩は脇腹の傷口が開く前兆がある事、あるいは開いていると言う自覚があったからこそなのだが、それさえも誰にも疑問を持たせないほどのいつも通りの周喩であったであった。
この傷を最初に診た医者は周喩に『感情を抑えろ、怒るなどもってのほか』と言っていた事を、呂蒙は思い出していた。
いつも穏やかで感情的になる事の無い周喩であれば、その傷の完治もさほど難しくないだろうと、呂蒙はこの時までまったく傷の事など考えてもいなかった。
目に見えるところでは周喩はまったく普段と変わらなかったが、内面ではその傷口が開くほどの激情を押さえ込んでいたのである。
「……諸葛亮ですか? 劉備と諸葛亮の首を取れば、大都督の怒りは収まりますか?」
「収まりません」
周喩以上に怒りをにじませる呂蒙に、周喩は笑って応える。
「その二人を憎んでも恨んでもいません。私が我慢ならない怒りを覚えているのは、私自身の無能故の事。私がもう少しだけでも優秀であれば、こんな事にはならなかったのにと言う、私の独りよがりのせいです」
口調や表情は穏やかながら、溢れ出る血のせいで周喩の顔色から血の気が失われていくのが分かる。
「大都督の後任には魯粛を就ける様にと、主君に伝えて下さい。これまでの軍略も全て忘れて、魯粛の軍略に従う様に、と。ここで力尽きるのは我ながら情けないとは思うのですが、魯粛がいるからこそ、私はここで倒れる事が出来るのです」
そう言うと周喩は大きく息を吐いて、ゆっくり目を閉じる。
「大都督!」
「……いずれ敗れる時が来るのは分かっていましたが、いざ敗れてみるとけっこう悔しいものですね」
悲鳴に近い声を上げる呂蒙に対し、周喩は柔らかくどこか楽しそうに呟く。
「……天は何故、私と孔明を同じ時に産ませたのでしょうか。敗れた相手が孔明であった事は私としても納得出来る相手なのですが、孔明がいなければもしかするとこの悔しさを味合わなくても済んだのかも知れません」
言葉だけであれば恨み言にも取れるのだが、それを伝える周喩の口調の穏やかさと晴れ晴れとして表情からは、先に本人が言った通り、劉備や諸葛亮に対する恨みなどまったく感じさせる事は無かった。
周喩公瑾、享年三十六歳。
孫呉が誇る不世出の天才は、あまりにも早くこの世を去っていった。
演義ならではのセリフ
今回もほぼ創作設定で話が進んでいますので、演義では少し違った戦が繰り広げられてます。
結果としては、いつもの様に散々孔明先生に馬鹿にされて、周喩は血を吐いて絶命する事になるわけですが、その時に言ったセリフをちょっとだけアレンジしてます。
この周喩の最期の言葉はいかにも演義の周喩に相応しい、噛ませ感アリアリなセリフではあるのですが、多分こう思った人たちは少なくないだろうな、とも思います。
具体的には司馬懿とか王朗とかは、この時の周喩と同じかそれ以上にそう思った事でしょう。
当然ながら、正史の完璧超人である周喩はこんな噛ませなセリフは言っていません。
ホント、周喩と曹仁辺りは演義と正史では別人です。
正史ではほとんど名前しか無いほぼ演義のオリキャラな華雄や李儒に匹敵するレベルで、別人です。