第十五話 荊州と益州
曹操からの返書は当然劉備陣営にも届いているはずであり、魯粛は孫権から今すぐ劉備の元へ行って南郡と江夏を奪い取ってこいと言う命を受けた。
確実に揉める事になるのは分かりきっていたのだが、孫権から
「思う存分揉めてこい」
と言う、有難いお言葉もあって、魯粛はすぐに劉備の元へと向かった。
もちろん劉備が単身単騎で待ち構えていると言う事は無く、そこには稀代の弁士でもある諸葛亮が傍に控えていた。
今回は関羽や張飛は同席していないものの、劉備と諸葛亮の他には馬謖と趙雲も同席していた。
趙雲、か。この男は余計な事に口を挟んでくる様な事はしないが、考え方によっては関羽や張飛の方がやりやすかったかも知れんのう。
威圧感、と言う事であれば関羽や張飛は趙雲を遥かに上回り、正直に言えば外交の場にいられては息苦しいところがあるが、張飛はともかく関羽などは諸葛亮にすら制御する事が困難な存在であるため、双方にとっての不確定要素になりうる。
必ずしもこちらに有利になるとは言えないまでも、全てをその手中に収めようとする諸葛亮にとっては少しでも不確定要素があるに越したことは無い。
と、いない存在に対して思案し期待しても仕方が無い。
今あるモノを活かしてこその商いってヤツじゃ。
「この度は、荊州刺史就任、おめでとうございます」
魯粛は深々と頭を下げる。
「これで曹操と言う巨大な敵に対しても一歩も退かずに戦えるのう。で、さっそくじゃがワシらが兵を率いてくるので、南郡と江夏を明け渡してもらおうかの」
「お待ち下さい、魯粛殿。これは曹操の策です。わざわざその策に嵌ろうと言うつもりですか?」
諸葛亮が魯粛に尋ねる。
「ふむ、確かにそうかもしれんのう。じゃが、どの様な思惑があろうとも、これは正式な勅令じゃろう? 断るにしても正当な理由が必要じゃ。ましてこの人事は我らが妹君と劉備殿の婚儀を祝っての事。それを反故にするのは、漢王朝への反逆じゃぞ? 孔明、お主は劉備殿を逆賊にしたいのか?」
この程度で諸葛亮をやり込めるとは思っていないが、曹操と戦う上では孫劉同盟は諸葛亮にとっては必須条件である。
孫権軍としては劉備軍との同盟は都合が良いと言うだけで、必須では無い。
その事を前面に出していく事は、間違いなく諸葛亮にとって嫌なはずだ。
「ですが魯粛殿、我が君劉備様が荊州の刺史であり、南郡太守に周喩殿、江夏太守に程普殿と言う事は、我らの指揮下に加わると言う事ですが」
「無論、それで構わないと言う事を、大都督からも主君からも承っておる。劉皇叔、まさか朝廷の意に背くと言う事ではありますまい?」
趙雲は動かぬか。やはり面倒ではあるが、関羽か張飛の方がマシじゃったな。
ここで感情に任せて行動してくれた方が、支配権を諸葛亮の手から奪い取れる好機にもなるのだが、趙雲にはその気配すらない。
この男は、芯からの武人じゃな。関羽や張飛の様に『侠』を芯に置いていない。故にこの場では趙雲は護衛に徹している。
「それでは我々はどこに立脚の地を持てと言うのですか?」
「荊州の刺史なのじゃから、襄陽におられれば良かろう。そもそも荊州は貸し与えていると言う事をお忘れなく。それも気に入らないと言うのであれば、以前から申している通り益州にその地を求めるべきじゃろう。後はそちらでの話し合いであり、こちらから口を出す事では無いと思うのじゃが」
魯粛は当然と言う様に、諸葛亮に言う。
「益州を攻める事は出来ない」
これまで無言だった劉備が発言する。
妙だ、何かあるな。
おしゃべり好きな劉備が終始無言と言うのは異常だ、と魯粛は警戒する。
「ほう、何故に?」
「何故も何も、攻める事は出来ない!」
突然劉備が髪を振り乱して叫ぶ様に言う。
「理由も無く益州は攻められないと言う。その上で我らへ荊州の返済も出来ないと言う。さらに南郡や江夏の太守と言う朝廷からの命にも従えないと言う。具体的な話をしようではないか。一体何なら出来ると言うのじゃ?」
魯粛の問にも、劉備は答えようとしない。
「魯粛殿、それはまさに我が主にとって最大の泣き所なのです」
「ほう、どういう事じゃ?」
「私も再三益州攻略をおすすめしているのですが、仁君である我が君にとって益州を収める劉璋殿は同じ劉姓である同族。荊州の時も同じでした。劉表殿は我が主に荊州を譲ろうとしたのに、同族から奪うをよしとされないのです」
「ほう、さすが劉備殿。素晴らしい人格者じゃ」
魯粛は感心した様に大きく頷く。
「それはつまり、私事によって公事を蔑ろにすると言う訳か」
「魯粛殿、決してその様な……」
諸葛亮が口をはさもうとするのを、魯粛は遮る。
「ワシが荊州をそちらの立脚の地を得るまで貸し与えると、それは周囲の反対を押し切って約束した事。それが仮に口約束であったとしても、ワシは公事として来たし、今後もその為の尽力もするじゃろう。じゃが、その劉備軍は公事より私事を優先し、こちらとの約束をハナから守るつもりは無いと言う。同盟が聞いて呆れますな」
「ではどの様になされば良いと?」
「それを考え為すべきはワシの役割ではあるまい? のう幼常、そう思わぬか?」
書記官としてこの場にいる事を許されている馬謖に、魯粛は話を振ってみる。
馬謖も若いなりに優秀な人物であるが、諸葛亮に心酔しているところが見て取れるので、この状況を面白くないと感じているだろうと魯粛は見ていた。
馬謖は口を開いて一瞬何か言いそうになったのだが、諸葛亮と目が合ってその口を閉じる。
さすがにそう簡単に崩せぬか。
「一体魯粛殿は私達に何を望んでおられるのですか? 我が君に同族を討つと言う非道を行わせようとしているとしか聞こえませんが」
「ワシが言っている事は一貫して一つだけじゃぞ? 借りたモノは返せ、とな。ワシは子供でも知っておる事じゃと思っておったが、それが非難されるほど非道な事とは知らなんだ」
諸葛亮と論戦して論破してやろう、などとは考えず、たとえ無理筋であったとしてもこちらの主張を曲げない事。
これだけを押し込む事で、ようやく諸葛亮との論戦は互角程度だと魯粛は自覚していた。
「のう、諸葛亮よ。劉備殿、趙雲、幼常よ。ワシはそれほどまでに非道を申しておるか? ワシからすると、借りたモノを返せと言った側に対して、アレはダメだコレはイヤだと言って返そうとしない方にこそ非難されるべきところがあると思うのじゃが、違うかのう」
「荊州は元はと言えば亡き劉表殿の治めた土地。それを劉琦殿から我が君劉備様に託された土地。返せと言われる筋合いのモノではないのでは?」
我慢できなくなったのか、諸葛亮が止めるより早く馬謖が魯粛に挑む様に言う。
よし、釣れたな。
論客として考えるのであれば、馬謖の方が諸葛亮より百倍容易い。
「うむ、正しくその通りじゃろう」
魯粛があっさり認めた事に、馬謖は驚いているが諸葛亮は険しい表情をしている。
続く言葉の予想が出来ているのだろうが、馬謖が口火を切ってしまったのだから一段落するまで諸葛亮も見ているしかない。
「その治めてきた劉表殿は、荊州を自身で開墾して来たと言う訳ではなく朝廷に刺史として任じられて荊州を治めてきたのじゃろう? 劉備殿は改めて朝廷に刺史として任じられ、南郡と江夏の太守にそれぞれ周喩と程普に任じられたのじゃ。であれば、朝廷に従う事こそが筋。ワシはそう言って来たが、何か幼常の主張と違うところがあったかのう?」
南郡と江夏さえ押さえてしまえば、荊州の実質支配は可能である。
いかに劉備が刺史であったとしても、そうなってからでは止められない。
「魯粛殿、散々譲歩をお願いしてきた上に厚かましい事この上無いのですが、我が主に同族を討つ事は出来ません。もし公事故にとそれを行ってしまっては、それはもはや劉備玄徳の行いでは無くなります。劉備様の信が陰ってしまっては、それこそ曹操に太刀打ち出来なくなるでしょう。そこを留意していただけないでしょか」
諸葛亮は泣きつく様な形で、魯粛に訴えかけてくる。
やはり幼常では相手にならないと悟ったか。まったく、出てくるのが早いわい。
口調ほど弱っている訳ではない事は、魯粛にも分かっている。場の主導権を奪い返しに来たのだ。
「具体的にどうしろと申すつもりじゃ?」
「……提案はあるのですが、いささか障りがありますので、我が君と趙雲殿には退席して頂いてもよろしいでしょうか」
「ワシは居てもらっても構わんのじゃが、それでは話が進まなそうじゃからのう」
魯粛はそれを認めると、劉備と趙雲はこの場から離れていく。
「例えば益州を我々が攻める事は出来ませんが、それを全面的に支援する事は出来ます。その後に我々が益州に赴任して荊州をお返しすると言うのではどうでしょうか」
「なるほど、直接手を汚す事は他人に任せて、それを見て見ぬフリは出来ると言う事じゃな。むしろその方が非難されそうな非道としか思えぬが」
「あくまでも主君の知らなかった事を、私が独断で行ったまでの事です。それであれば私が処断されれば、事は収まるでしょう」
「軍師殿、それは……」
馬謖が慌てて止めようとするのを、諸葛亮は制する。
「孫権軍との同盟無くして、曹操打倒はありえません、私一人の首であれば安いものでしょう」
確かに妥協点としては悪く無いところではあるが、魯粛はすんなりと受け入れる事が出来なかった。
こちらとしてもソコが落としどころだと考えていたのだが、それを向こうから提案してくるのは少々都合が良すぎる様な気がしてならない。
「全面的に支援と言うのはどの程度の事じゃ?」
「言葉通りの意味です。兵糧や刀槍などの物資の支援から、必要であれば兵も支援致しましょう」
言葉だけなら全面降伏にも聞こえてくるが、諸葛亮がそんな人物ではない事は魯粛も知っている。
「……うむ、一度持ち帰って大都督と相談する事としよう。じゃが、益州の兵は弱卒であったとしても地形を利用されて守れては厄介。それ故にこの事は内密にの。もし益州攻略が失敗した場合、我らとて本気で荊州を取らねばならんからのう」
魯粛の言葉に、諸葛亮は頷く。
「もっとも良いのは返せるウチに返してしまう事なのじゃが、それとは別に一つ。お主ほどの軍師には言うまでもない事じゃろうが、『公』より『私』を優先するのは確かにいかにも玄徳らしい事なのじゃろうが、それではいずれお主でも想像出来ぬほど痛い目に合う事になりかねんぞ」
その言葉に諸葛亮は頷きこそしたが、応える事は無かった。
「名目上はあくまでも南郡、江夏への赴任と言う事にしておるし、それ自体は決して妙な事ではないのじゃから益州深くまで兵を進めるまで気付かれんはずじゃ。まさか諸葛亮もこの情報を益州に流すとは思えんからのう」
魯粛は戻って周喩に報告する。
「あの諸葛亮からそれだけの条件を引き出すとは。副都督、大義でした。益州攻略は我らに任せ、副都督は建業に戻って主君へ報告をお願いします」
周喩は兵を率いて荊州に入ろうとする。
「公瑾、益州攻略じゃぞ?」
「天下二分にしろ三分にしろ、益州は重要となる地。十分に理解していますよ」
周喩は魯粛に向かって笑って応える。
これが孫呉の誇る稀代の名将、周公瑾最期の出兵になる事は敵味方共に誰も想像していなかった。
ただ一人、周喩本人を除いては。
ある意味では演義での見せ場
魯粛の中間管理職イメージは、赤壁の戦いとその後にあると思うのですが、とにかく孔明先生の屁理屈とぶちギレ大都督のキレ散らかしのせいだと思ってます。
特にこの頃は孔明先生からめちゃくちゃ都合のいい言い訳をカマされ、まんまと言いくるめられて大都督からぶちギレられるのを繰り返してます。
魯粛じゃなかったら逃げ出すか引き篭ってますよ。
ですが、それは演義での話。
正史ではけっこう好戦的で、ダメなものはダメ、ヤるならヤるから表へ出ろ!ってな感じです。
でも魯粛が中間管理職イメージから抜け出せないのは、演義のキャラ付けがしっくり来るからなんですよね。
天才に挟まれた可哀想な人って立ち位置で。