第十四話 曹操からの返書
封じ込めの目的はともかく、現状を見る限りでは悪手である事は周喩であれば分かるだろうと考え、すぐに声が掛かると思っていた魯粛は自宅待機していたのだが、魯粛の元を尋ねる客が来たのは予想外に長い期間を待たされ年を明けての事となった。
「劉備に逃げられました」
訪ねてきた周喩は、魯粛に苦笑気味にそう言った。
「逃げられた、じゃと? 解放した訳ではなく、逃げられたのか? まだ囲い込むつもりでおったのか?」
魯粛はむしろその事の方が意外だった。
「劉備の信さえ無くせば、荊州は容易く手に入ると思っていたのですが、上手くいかないものです」
「あやつの信を失わせる前に、こちらが破産するわい。あやつは霞の如き存在で、極端な話をするなら実態の無い信であり、曹操の陰の如きもの。曹操が健在であれば劉備の信は揺るがん。公瑾もその程度の事わかっておるじゃろうに」
「その妖の衣を剥ぎ取る事も目的だったのですが、それも叶いませんでした」
周喩が言った様に、劉備は確かに妖仙の様な一面はある。
実態や実情はともかく、戦績だけを見るならば劉備は惨敗続きの敗軍の将であり、劉備を引き入れるとそこが戦火に見舞われ、しかも惨敗していると言う事にもなる。
が、それでも劉備を引き入れる者は次々と現れ、曹操の前に敗れて消えていった。
それにも関わらず劉備は反曹操の旗頭としてその信を一身に集め、漢の再興を期待され続けている。
これは単に曹操の推し進める急進的な改革に対する反発でしかないのだが、あまりにも異常な存在に思えるのもやむを得ない。
周喩の目的も劉備の暗殺などではなく、劉備はそれほど神聖なものでも信用出来る様な者ではなく、ただただ胡散臭いだけの者であると知らしめたかったのだろう。
「とは言え、逃した大魚の大きさをいつまでも論じていても仕方なかろう。これからいかにするつもりじゃ?」
「それを相談に来ました。ただし前提として、ご主君は荊州をお望みです」
「む? 厄介な前提条件が付いたものじゃのう」
荊州と言う地盤は流浪の劉備がようやく手に入れた立脚の地である。
その知恵袋である諸葛亮も、何が何でも荊州を手放すまいと考えているだろう。
孫権が荊州に固執するのも、その地盤あってこそ強大な曹操に対抗出来るからこそである。
だが、魯粛としては荊州に魅力がある事は認めるし手に入れるべきとも考えているが、劉備を排除してと言う前提は組むべきではないと考えている。
劉備と言う分かりやすい曹操に対する防波堤は、今は手放すべきではない。
「劉備が、と言うより諸葛亮が荊州を手放す事は無いじゃろうな。それでも荊州を手に入れようと考えるのであれば、やはり益州じゃろう。さっさと劉備に益州を取らせ、その協力の見返りとして荊州の返還を迫るのが妥当じゃろうが、おそらく上手くいかんじゃろうな。いっその事、劉備を正式に荊州主として認める様に曹操に地位を要求してはどうじゃ? この際劉備を荊州に完全に閉じ込め、こちらから益州を奪うのじゃ。劉備は義弟なのじゃから、その後に正式に益州を劉備の任地にしてしまって、それから荊州を支配すれば良いのでは?」
周喩はその提案に、考え込む。
回りくどい手である事は魯粛も認めるところではあるが、その方法であれば劉備にとって断りづらい手であるはずだった。
そしてこの方法であれば、あの超人揃いの劉備軍と軍事衝突せずに済む。
益州の劉璋は父親の劉焉ほどの野心家ではなく、家臣にも呆れられるほどの能無しであると聞く。
「私の意図した策とは違いますが、良策ですね。さすが副都督。相談に来た甲斐はありました。少し手を加えれば面白い事になりそうですね」
「のう、公瑾よ。お主、体調はどうじゃ?」
「はい?」
突然の魯粛の質問に、意図がつかめないと言った感じで周喩は首を傾げる。
「この通りですが?」
「ならば良いのじゃが、もし体調が悪い様なら無理はするでないぞ? 劉備不在の荊州で感じた事じゃが、諸葛亮の代わりがおらん様に、周公瑾の代わりもおらんのじゃぞ?」
「代わりなどいなくても、別の軍略で動ける魯子敬がいます。劉備軍には無い強みですね」
「冗談を言っておる場合では無いじゃろうに」
魯粛はそう言うが、周喩は笑って答えようとしなかった。
後日謹慎を解かれた魯粛が出仕すると、先日周喩と話していた策の事だった。
顧雍も同じ様な策を考えていたらしく、その使者として華歆を曹操への使者として送ったと言う。
魯粛の謹慎が解かれたのは、その返書が孫権の元へ届けられた為だった。
「それで、孟徳は何と言うて来ておるのじゃ?」
返書を見る孫権が非常に複雑な表情のまま何も言わないので、魯粛の方から孫権に尋ねる。
「確か曹操ってのは父上と同年代と言う事だったから、六十近くになるはずだよな?」
「そのはずじゃが、今更年齢なんぞどうでも良かろうに」
「……妖怪は劉備だけでは無いらしいぞ」
孫権は返書を周喩に渡す。
周喩は一通り目を通すと、険しい表情を浮かべてその書状を張昭に渡す。
張昭の後は顧雍に、そして最後に魯粛の元へと回ってきた。
その書状には、まず劉備との血縁関係についての祝辞が述べられ、義弟の劉備が荊州の刺史となるのであれば義兄にも相応しい地位が必要であろうとの事から、孫権は正式に江東の覇者と認められて『呉公』となった。
さらに劉備を荊州刺史として、周喩を南郡の太守、程普を江夏の太守に任じると命じられていた。
「……南郡と江夏の太守、じゃと? 玄徳を刺史としておきながらか?」
「曹操め、『呉公』だとか大層な名を与えた割に、劉備の軍門に降れと言って来やがった!」
「いえ、これはそんな浅いモノではありません。曹操はこう言っているのです。荊州の主を決めるのであれば、血を流せ、と」
周喩に言われて、魯粛もその事に気付いた。
曹操はすでに孫劉同盟が形骸化している事に気付いている。
双方が荊州を望んでいる事も。
だからこそ、劉備に荊州の刺史と言う長の立場を、周喩と程普と言う孫権軍の重要人物に荊州の要となる南郡と、劉琦の収めた江夏を与える。
名の劉備と実の孫権。果たして荊州の主は如何に。
曹操は双方に地位を与えながら、そう言って来ているのである。
「ですが、これは劉備にとっても急所。いかに諸葛亮が天下随一の軍師であったとしても、朝廷の、漢の皇帝自らの命には逆らえないのです。曹操の誘いですよ。自分と戦いたかったら、まず目の前の敵を排除して見せろと言っているのです」
すみません
ただいま年に数回来る絶不調中で、想定の半分になりました。
本当に申し訳ありません。
次回はちゃんとしたいと思います。