第十二話 甘露寺での事
そこからの孫権の決断は早かった。
孫権が目配せすると、それを察した呂蒙が立ち上がる。
「座興としては拙いかもしれませんが、この呂蒙、剣舞などを披露したく存じます」
「ほう、子明よ。貴将は舞まで嗜む様になっておったか。誠に、かつての荒くれ者ではなく花も実もある武将に育ったものよのう」
喬公が笑顔でそんな事を言う。
「それも一重に機会を下された主君と、手本とすべき大都督あっての事。聞けば劉備殿もかつての筵売りからここまでは苦難の連続であったとか。私はその苦労と比べると足元にも及ばないとは思いますが、これまで努力を続けてまいりました。是非、お楽しみ下さい」
「この劉備、周りに苦労をかけてばかりでした。呂蒙殿の如く一念発起して自身の成長を努力研鑽する様な機会は無く、その一事ですでに呂蒙殿はこの劉備を上回っていますよ」
劉備は笑顔で呂蒙に言うと、呂蒙はそれに頷いて楽隊を招き入れる。
楽隊に合わせ、呂蒙は剣を抜いて剣舞を披露する。
喬公が口にした通り、呂蒙は元は武勇一辺倒の人物であり、かろうじて最低限の読み書きが出来る程度だったのだが、孫権から読書を勧められてからの成長は著しく、また様々なものに興味を示す様になった。
剣舞に関しても周喩から直接手ほどきがあった訳では無いものの、自身は武人でありながら文化人との交流の多い周喩の副将と言う立場から、こういう機会を目にする場面が多くなり、ふと気が付くと自分でも舞える様になっていたのだった。
が、もちろん真の意図は剣舞に見せて劉備を暗殺する事なのだが、間違いなく劉備はその事に気付いている、と舞っている呂蒙だけでなく、見ている孫権も周喩もそう感じていた。
恐ろしい事に劉備はまったく態度を変える事無く、警戒している様子を露ほども見せない。
それどころか、まるで呂蒙を誘うかの様な妖艶な笑みを浮かべているほどである。
ごく自然な動きで呂蒙は劉備に近付き、舞の動きで隠しながらも剣の射程圏内に捉えようとする。
「実に美しい舞。ですが、剣舞であれば相手がいた方が映えると言うもの。不調法ではありますが、この趙雲が舞の相手を承りましょう」
そう言って劉備の後ろに控えていた趙雲が前に出て、腰に下げていた宝剣を抜き放つ。
曹操から奪い取ったと言われる宝剣、青紅の剣と言われる宝剣だと呂蒙は聞いた事がある。
嫌になるほど、絵になる男だな。
共に演舞を披露しながら呂蒙は思う。
ただ見た目が良いと言う訳ではなく、圧倒的な存在感がある。
劉備自身もそうだが、関羽や張飛、この趙雲や諸葛亮などただそこにいるだけで他者を圧倒するほどの存在感はまさに『華』と評するに相応しいだろう。
例えば孫権軍内で見るのであれば甘寧や凌統も捨てたものではないが、先に名を上げた劉備軍の面々にも劣らない人物と言えるのは、おそらく周喩ただ一人であると呂蒙は思っていた。
それに、非常識なまでの武威。
劉備の前にただ一人現れただけだと言うのに、まるで巨大な城塞が現れたかのような絶望的なまでの武威。
この会見場の周りには警備兵と称して賈華が率いる武装兵が五十人ほどいるが、果たしてそれでも趙雲を討ち取り劉備を切る事が出来るかは不安であった。
だが、やるしかない。ここで劉備を討たなければ、必ず孫権軍にとって大きな災厄になる。
呂蒙にさえそう思わせるほど、極めて不可解で危険な存在であった。
が、それは予想もしなかった形で邪魔される事になった。
「私も混ぜろ!」
突然兵士に扮した尚香が、剣を抜いて呂蒙と趙雲の間に飛び込んできたのである。
「ちょ、おま! 何やってんだ! 子明、そいつを捕まえろ!」
孫権が慌てて命令し、呂蒙は剣舞を中断して飛び込んできた尚香を羽交い締めにする。
「ちょっと、何よ! 面白そうだったじゃない! 私もやりたい!」
「黙れ! 子明、そいつを下がらせろ!」
暴れる尚香を引きずりながら、呂蒙が退出していく。
「劉備殿、趙雲殿、大変失礼いたしました」
「いえ、お気になさらず」
孫権の謝罪を劉備は簡単に受け流し、趙雲も軽く頭を下げると剣を収めて劉備の後ろに控える。
「なんですか、仲謀。確かに子明は成長しましたが、まるで鴻門の会かのような剣舞。そちらの方が礼を失するとは思いませんか」
「それは違います、国太様」
孫権を叱責する呉国太に対し、劉備が口を挟んでくる。
「孫権殿はこの劉備を、まるで高祖の如く迎えて下さりました。その事をこの無学な劉備にも分かる様に、座興として鴻門の会を模したと言う事。先主、孫伯符殿が生前小覇王と称された事にも笑っていたと言う気概をも受け継いでいると言う証でしょう」
「さすが劉備殿、分かっていただけましたか」
孫権はそう言うが、本心でどう思っていようともそう言わざるを得ない。
暗殺に失敗した以上、主導権は劉備の手にあるのだ。
「それにしては男前な樊噲ですこと」
「恐れ入ります」
微笑む呉国太に対し、そう答えたのは趙雲ではなく劉備だった。
「劉備殿は先ほど先主が小覇王と称された事を笑う気概の持ち主とおっしゃられましたが、漢において覇王とはすなわち逆賊と言う事。先主が漢に背く人物であったと思われているのですか?」
周喩の口調も表情も柔らかく穏やかではあるが、孫家の集まるこの場で不用意な発言は許されない。
下手な暗殺の刃より劉備を追い詰める事になるのではないか、と孫権は期待した。
「いえ、孫策殿は真逆の漢を憂う忠臣の中の忠臣だったと思います。自ら小覇王の名を否定しなかったのは、漢を憂う気持ちの表れだったのでしょう。献帝を擁護した直後の曹操や、権勢を極めた袁紹に対する牽制だったのでしょう。『漢が弱くなる様なら、各地で覇王が現れるぞ』と知らしめる為に、孫策殿はその武名に泥を塗る事になったとしても知らしめたのでしょう」
劉備は淡々と言うが、周喩ですらそれに反論する事は出来なかった。
ただでさえ劉備の事を気に入ってきた呉国太や喬公などは、亡き孫策の事を思い出したのか涙まで流している。
「せっかくの目出度い席を湿っぽくしてしまいましたね。申し訳ございません」
劉備がそう言うと、呉国太と喬公は無言で首を振る。
「ところで、先ほど飛び込んできた兵士は? 女性だった様ですが」
「お恥ずかしい事に、我が妹である孫尚香です」
孫権が本当に恥ずかしそうに言う。
「あの方が、私が迎えに来た花嫁と言う事ですか」
劉備はにこやかに言う。
「お気に召されませんでしたか?」
「いえいえ、とんでもない」
心配そうに尋ねる呉国太に、劉備は笑顔で応える。
「先ほどは私を高祖の如く歓待して頂きましたが、その妻までも高祖に倣われたら困ると思っていました。一瞬の事とはいえ、あの女性には政に対する野心など微塵も感じられず、純粋なまでに天真爛漫。私も忘れていた若き日の心を取り戻せそうです」
劉備の言葉に、呉国太も喬公も婿にはこの人物しかいないとなり、縁談の日取りを決める事となった。
「では劉備殿、日取りが決まり次第知らせますので、是非我が邸宅にておくつろぎ下され」
「それは助かります」
喬公の申し出に、劉備は趙雲に相談する事無く即答する。
劉備らが会見場から出て行ったあと、孫権と周喩がその場に残る。
「……劉備を侮っていました。正直に申しますと、諸葛亮以上の弁士などこの世に存在しないと思っていました。が、劉備は破格です。劉備に弁舌の場など持たせるべきではありませんでした。全て私の失策です」
「公瑾の責任では無いだろう。あの怪しげな女モドキにあれほどの弁舌の才があるなど、誰が予想出来ようか。諸葛亮は相手を負かす事にかけては一流だったが、劉備は相手を取り込んでしまうほどだった。考えてみれば幾度となく生死の境をその舌先で生き延びてきた人物だと言う事を失念していた。お互い、あの風貌に騙されたな」
孫権が言う様に、劉備はふらりと徐州に現れたかと思ったらその太守となり、呂布に徐州を奪われた時にも曹操の庇護を受け、後に曹操と敵対して惨敗してからも袁紹の元へ、袁紹から疑われた時にもそれを躱して劉表の元へと流れ着いた。
さらにそこでも蔡瑁から命を狙われながらも生き延びて、劉琦を手懐けている。
考えてみると、この時点で妖術師か何かとしか思えないのだが、目の当たりにしてその不可解さを恐れる曹操の気持ちもよく分かった。
劉備の生存本能は常人とは桁外れに感度が高く、相手の望む答えが無意識に分かるのだろう。
「公瑾、かくなる上は劉備個人ではなく荊州の奪還を考えるべきだろうな」
「御意」
二人が遅れて会見場から出ると、庭園から凄まじい剣撃の音が響いてきた。
何事かと二人が庭園に向かうと、劉備が庭園の岩を切りつけているところだった。
「劉備殿、何かその岩に恨みでも?」
これまでも奇行の目立つ劉備だったが、突然岩を切りつけると言うのは奇行も過ぎると言うより、何か触れてはいけない何かではと不安になる。
「いや、せっかく高祖に例えられたと言うのに、私は何も出来ずただ曹操の横暴を見ているだけで漢の為に何も出来ていないと言う現実が重く、なんとなく憎たらしい岩があったから八つ当たりしてしまいました」
と言うわりにはその斬撃は鋭く、巨岩を両断こそしていないが深々と斬撃の跡を残している。
「それで、気分は晴れましたか?」
「少しは」
周喩の問に、劉備は小首を傾げて応える。
「そうですか。それなら俺もやってみようかな」
孫権は腰に下げた剣を抜く。
まずは荊州。それを手にして、さらに俺も天下を手に出来るのであれば、この様な岩、一太刀に切ってみせようぞ。
孫権は父から譲り受けた宝剣で、巨岩を切りつける。
その剣撃は、劉備の切りつけた斬撃の跡と交差する様に深々と斬撃の跡を残す。
「お見事。その武勇たるや、父譲りなのですね」
「劉備殿は父をご存知で?」
「かつて反董卓連合にてお目にかかりました。連合にてその武勇で勝利を目前まで引き寄せていたと言うのに、袁術の小細工によって連合そのものをダメにされましたから。勝ってたのになぁ」
劉備はかつての事を思い出す様に言う。
「そう言う劉備殿も、趙雲殿に引けを取らない腕前なのでは?」
「ははは、まさか。私なんて趙雲の『ちょ』にも届きませんよ」
「どんな例えですか」
少なくとも、見た目では孫権と劉備は仲良く談笑している様に見えていた。
鴻門の会
ここではそんな事は行われてません。
演義でも趙雲が一瞬にして伏兵を見抜き、「なんのつもりだ、オラァ!」と一喝して賈華と武装兵達を退場させてます。
演義でそれっぽいシーンが出てくるのは、劉備が蜀を攻めている時で、しかも劉備が仕掛ける側です。
やったのは魏延と龐統ですが、この物語の中で劉備の蜀取りの方を詳しく書く事は無いと思いますので、ここでぶっ込んでます。
そんな訳で、今回のやり取りはほぼ本作のみの創作設定で、劉備と呉国太達はこんな会話してません。
が、演義ではほぼ一目惚れ状態で呉国太も喬公も劉備を受け入れてます。
マジで妖術レベルです。




