第十一話 孫尚香の結婚
「お兄ちゃん! お義母ちゃん! 私が結婚するって本当?」
義母である呉国太が来た時と同様の大騒ぎで、孫権の妹である孫尚香が飛び込んできた。
いかにも孫家の血筋らしい自由な行動力の持ち主で、今は亡き孫策や孫翊に似た制御不能な困ったところがある。
もし男に生まれていたら、孫翊と同じ様に孫策の後継として期待されていた一人になっていたかも知れない。
「おお、よく知ってるな」
と孫権は言うが、尚香の目は孫権に向けられず呉国太の方を向いたままだった。
「お義母ちゃんは知ってたの?」
「つい先日知らされました。安心なさい、尚香。この義母が劉備に会って、この眼で確かめてきます」
「え? お義母ちゃんじゃ無くて、私が直接見れば早くない?」
「それだと問題になりそうだから、義母上が会ってくると言ってるんだ」
孫権の言葉に、尚香は膨れっ面で睨みつけてくる。
「にしても、おかしくない? なんで当人の私が誰よりもその事を知らないの? 普通は当事者が一番詳しいんじゃないの?」
「なぁ、妹よ」
孫権が尚香の肩を掴む。
「人生と言うのは長い。これまでも、これからも色んな経験をしていく事だろう。そんな中で一度くらい自分が知らない内に結婚の話が進む事もあるだろう」
「ねぇよ」
孫権は淡々と説得しようとするが、尚香は一言で切り捨てる。
「大体私が結婚って、そんな話早くない?」
「早くない。むしろ遅い。だいぶ遅い」
「お義姉ちゃん達も同じくらいだったはずだけど」
「そう、同じくらいだから、早くないだろ? むしろ遅い。だいぶ遅い」
「うるせぇ。二回言うな」
尚香の表情は、まるで敵を見る様な顔付きである。
「だいたいよぉ、劉備ってどんなヤツなんよ。私、名前しか知らんのだけど」
「名前知ってれば十分じゃないか。義姉上なんて、公瑾の名前すら知らなかったらしいし」
「それ会った時の話じゃん! その時には結婚の話は無かったんでしょ?」
「いや、兄上は相手の名前も知らない内に結婚を申し込んだらしいぞ」
「それは、まぁ、あのお兄ちゃんなら、うん、まぁ……」
「だろ? だったらお前もそんな事があっても不思議じゃないだろ?」
「ねぇよ」
尊敬する義姉の二喬を出しても、尚香を説得する事は出来なかった。
「姫君、ここは……」
「うるせぇ、黙れ」
穏便に済ませようとした張昭だったが、ひと睨みで黙らされる。
「で、お義母ちゃん。劉備とはいつ会うつもり? 私も一緒に行きたい!」
「ダメだろ、それは」
「あぁ? 私の結婚相手だろうがよい。私が会ったらダメな理由でもあんのかよ。あ?」
孫権に対しても、尚香は睨みを効かせている。
「あえて直前まで隠すと言うのは、面白いと思いますよ」
周喩がにこやかに言うと、尚香はこれまでの様に即噛み付くと言う事は無く、その言葉に耳を傾けている。
「妹君が劉備殿を知らない様に、劉備殿も妹君の事を知らないはずです。だとすれば、こちらからわざわざ劉備殿に情報を与える必要は無いでしょう」
「……ふむ、一理あるかも」
周喩の言葉には耳を傾ける様で、孫権や張昭は不満げだった。
「でも、敵情視察なら良いんじゃない? ほら、お義母ちゃんが劉備に会うのに、私が隠れてこっそり見る分には良いんじゃないの? どうよ、コレ? ん?」
「ここは譲歩するところですかね」
顧雍が囁くのに、周喩も苦笑を浮かべて頷く。
「っしゃ! ほら、どうよ、お兄ちゃん! 良いよね? 私がこっそりついて行っても!」
「ダメだ」
「何でよ! 公瑾も、おいちゃんもこう言ってるじゃん!」
おいちゃん、と言うのは顧雍の事である。
張紘との繋がりで顧雍とも面識のある尚香は、顧雍の事をおいちゃんと呼んでいる。
が、これは顧雍だけでなく、文官のほとんどの者を『おいちゃん』と呼んでいるのだが。
「お前がこっそり出来る訳ないだろう! 絶対飛び出してくる」
「こっそりしてるから!」
「今、ここに飛び込んで来たじゃないか」
「それはそれ。コレはコレでしょ」
「コレもそれも根は一緒だ。お前、想像してみろよ。あの兄上がこっそり関羽とか張飛とか見てるだけと言って、それで済むと思うか?」
「思う」
「思ってないだろ? 前に兄上は呂布が袁術のところに来た時には飛び込んでいった事もあったと聴いてるが、お前も同じ事するだろ?」
「私は伯符兄とは違うわ!」
そう断言して拳を振り上げる姿は、まさに今は亡き小覇王を思わせる不安しか無かった。
「公瑾、ここは何とか手を打ってもらえませんか?」
呉国太が周喩に尋ねる。
「そうですね。会見場所の警備をしない訳にはいきませんから、その警備の兵に紛れ込ませる事は出来ると思いますが……」
「さっすがお義兄様! さすおにですわ!」
「それはやめて下さい」
興奮して飛びかかってきそうな尚香を、周喩は早めに制する。
そう言うところは孫策で手馴れていると言える。
「公瑾、劉備との会見場所はどこが良いと思いますか?」
「ここではダメなのですか?」
張昭は提案したのだが、呉国太と尚香から睨まれ隅に追いやられる。
「……何故だ?」
「師父殿の場合、多分日頃の行いも大いに関係あると思われます」
ヘコむ張昭に、顧雍が笑いながら容赦の無い事を言う。
「では甘露寺はどうでしょうか。場も静かなところで、警備の兵も少数で済みます。ここからも近いですし、いかがでしょう?」
「さすおにですわ!」
「今のは言いたかっただけですよね?」
「さすおにですわ!」
尚香は目を丸くして言う。
「では公瑾、その様に手配して下さい。ですが、警備などはあまり物々しくせず、婿殿に対して非礼の無い様に。孫家の者は礼儀も知らないと馬鹿にされます故」
「御意。手配は呂蒙に命じ、劉備殿へは呂範に知らせてもらう事にします。決して無礼を働かない様に厳命しておきますので、ご安心下さい」
「うっひょー! 私も準備しなきゃ!」
「こっそりだぞ!」
「うっひょー!」
尚香は飛び跳ねながら、出て行ってしまう。
「公瑾」
「分かっています」
孫権が確認するかの様に周瑜を呼ぶが、周瑜は遮る様に頷く。
呉国太や喬公には聞かせる訳にはいかない策謀の話である。
時と場合によっては劉備を暗殺する事も、孫権や周瑜の選択肢の中には含まれていた。
甘露寺の警備責任者は呂蒙だったが、その呂蒙は賈華と言う武将を抜擢した。
周瑜もよく知らない人物ではあったのだが、賈華は呂蒙とは鄧当の元にいた頃から一緒に腕を競った仲であるらしい。
が、決して川賊と言う訳ではないので淩統とは対して繋がりは無いと言う。
「どーもー。今日はお世話になりまーす」
甘露寺に到着した劉備は、警備する者達に気軽に挨拶している。
その身辺警護を務めるのは趙雲一人。
花婿としてやって来ているのだから兵団を引き連れる訳にはいかないのは分かるが、その警護を趙雲が務めるとなると暗殺はまず出来そうにないと判断するしか無かった。
どこまで事実かは分からないが、趙雲はその身一つで長坂の惨劇から曹操の大軍を突き破って赤子であった劉禅を救い出したと言われている。
とても人間業では無いのだが、少なくとも劉禅も趙雲も生きているのだから、大軍を突っ切ったかどうかはともかく長坂から生き延びたのは事実である。
また荊州でも趙範の罠に掛かってからも、その武勇のみを頼りに生き延びたとも言われている人物であった。
人の噂に尾ひれが付くことは仕方が無いにしても、完全な事実無根からこれほど大きな噂になる事は無い訳ではないが非常に稀である。
「警備にぬかりはありません。安心して下さい」
賈華は劉備に頭を下げるが、趙雲は一切の油断無く軽く手を添える程度だとしても、剣の柄から手を放そうとはしない。
劉備と趙雲は、呂蒙に伴われて会見の場に案内される。
そこには孫権と周瑜などの他には、呉国太と喬公も同席していた。
「初めまして。劉備と申します」
外の警備の者達に対する気軽さとは違い、きっちりとした礼を見せて呉国太や喬公に挨拶する。
「こ、これは荊州から遠路はるばる……」
喬公は何とかして言葉を絞り出すが、それ以上の言葉が出てこないでいた。
もっとも劉備の見た目を知らなければ、こうなるだろうとは周瑜も孫権も思っていた。
「りゅ、劉備殿は仙女か何かですかな?」
呉国太が驚きを隠そうともせず、劉備に尋ねる。
「いえ。若き日に仙道へ誘われた事はありましたが、私にはその道が正しい道とは思えず辞退して今に至っております」
劉備はそう答えるとごく自然に、空いた上座に腰を下ろす。
本来劉備の為に用意された席ではあるのだが、勧められる前に着席したとしても誰もそれを失礼や非礼と思わせないほどに自然な動きで、誰も疑問にすら思わなかった。
「仙道は人の道から外れ、人の世の苦しみも他人事の様に過ごす様に思えました。私はその道では無く共に苦しむ事になったとしても、人の世にあってより良くしていきたいと願いましたので」
それが本心からの言葉かは分からないものの、これによって劉備は一気に喬公と呉国太の心を掴んだ。
喬公も呉国太も中原から離れたところの出身であり、南部ならではの迷信深さがあった事も一因である。
劉備がその事を知っていたとは思えないのだが、本能的にそういうところを嗅ぎ取り即座に行動する事が出来るのは英傑の証であり、曹操が恐れるのもこういうところだろうと周瑜も実感する。
また仙人であれば見た目には女性に見えたとしても、その性別などは自在に変化出来る術もある。
と言われている事もあって、呉国太や喬公はこれ以上劉備の見た目や性別に関しての興味より、劉備と言う人物に対する興味の方が大きくなって、劉備を質問攻めにしていた。
これまで劉備に対して嫌悪感はあったとしても、敵意は薄かった孫権なのだが、この非常識なまるで妖術か仙術かの様な非常識な人心掌握術を目の当たりにした時には、得体の知れない恐怖を感じた。
こいつは自由にしてはいけない。首輪をつけてもなお油断ならない獣だ、と。
「劉備殿は若かりし頃には筵を織って生活していたと。やはりご両親から継いでの事ですか?」
「いえ。父は私が物心ついた時には既に亡く、母を助ける為と思い私の一存で行っておりました。母はあまりそれを良く思っておりませんでしたが、それを止める様な事もありませんでした。母には思うところもあったのでしょうが、私の孝の道を認めて譲ってくれたのでしょう」
その答えに、呉国太は満足そうに頷く。
この時、孫権の心は決まった。
色々悩みましたが
けっきょく尚香に落ち着きました。
色々考えたのですが、演義準拠の妄想嘘っぱち三国志なので、一番イメージしやすい一般化している名前にしました。
正史ではどんな性格の人なのかは把握しづらいところですが、あの法正が手を焼いたと言われるほどの人だったみたいです。
演義でも割とやりたい放題なところが見られますので、こんな女版孫策になってしまいましたが、孫尚香ってこんな感じじゃないですかね?
賈華に関してもほぼ創作設定です。
もっとも、演義の架空武将なので詳しい事は分からない(分かりようがない)人なので、好きに弄ってます。
合肥はこの物語ではまだ起きてないので、宋謙も健在です。
合肥に関してはかなりアレンジ予定、と言うよりアレンジしないとどうしようもないところなので、お待ち下さい。
あと、甘露寺は大正剣戟浪漫活劇の恋柱とは関係無く、演義ではそこで劉備と呉国太達が顔合わせしてます。
後編でも創作設定満載で、『あの石』も出てくる予定です。