第九話 密議
そんな騒動があった為に自宅で謹慎していた魯粛の元を訪ねる者がいた。
周喩である。
「おや、大都督ほどの御方がこんなあばら家に何ぞ用かの?」
「先の事へのお詫びです。貴方が察しの良い方で本当に助かりました」
周喩は笑いながら、頭を下げる。
「はっはっは! お陰でお休みをいただいたわい」
そう言うと魯粛は、周喩を真っ直ぐに見る。
「で、じゃ。あれは一体何じゃったんじゃ? 手掛かりが無さ過ぎて、今でもアレで良かったのか不安なんじゃが」
「良いどころではありません。私の期待以上です。その事の説明とお詫びに来たのですが……」
周喩は言葉を区切って、魯粛の屋敷の中を見回す。
副都督である魯粛は俸禄を十分にもらっているし、元々富豪の家柄であり今でも商人との繋がりが強く、孫権軍の物資調達には辣腕を振るっている。
にも関わらず、魯粛の自宅には驚く程に物が無い。
人が生活する上での最低限すら満足に揃っていないのではないか、と思える様な自室である。
「お飲み物をお持ちしました」
質素な服装の女性が、魯粛と周喩のために飲み物を持ってくる。
「うむ。酒は無かったか?」
「あいにくと切らしておりまして」
「そうか。では、この毛皮を酒に替えると良い」
魯粛は以前孫権から与えられた、貂の毛皮を指差して言う。
「分かりました」
女性は魯粛と周喩に飲み物を渡すと、部屋の隅に丸められた毛皮を持って出て行く。
「座るところも無くてすまんのう。適当にかけてくれ」
そう言うと魯粛は、床に腰を下ろす。
「今の女性は?」
周喩にそれに倣って腰を下ろして尋ねる。
「妻じゃ」
「妻? え? 独身では?」
「いや、誰にも言うとらんだけで、独身ではない」
魯粛は殊更隠しだてしているつもりは無いのだが、自分からそう言う事を言ってこなかった事もあって、案外独身であると思われている。
それどころか、近辺に女性の気配が余りにも無さ過ぎる事から、女性に興味が無いのではないかと人知れず心配されてもいたくらいだ。
「どちらの家柄の方ですか?」
「知らん」
周喩の質問に、魯粛は即答する。
「……はい?」
「よう知らん。その辺で拾ってきたから、詳しい事は知らんのじゃ」
「そんな人を妻に?」
「妙な柵が無くて良いぞ? 母も気に入っておるしのう」
魯粛の親族はその影響力からは考えられないほどに少なく、すでに父は無く、母の親族も徐州には少し残っているらしいのだが、こちらには来ていない。
魯粛には兄弟もいない事から、今では母一人と言う事になる。
それに対して広すぎる屋敷なので、建物を一部取り壊して母や家人達の為に畑にしてしまっているほどだった。
「しかし、ここまで物が無いと苦労しませんか?」
周喩は本当に何も無い部屋を見て尋ねる。
「ワシはほとんどこの家におらんからのう。雨風さえ凌いで寝られれば、ここは十分なのじゃ」
「……それは確かにそうかもしれませんが、先ほども主君からの賜り物を簡単に酒に替えて来る様に言われてましたが、これまでの賜り物も全て物に替えていたのですか?」
「うむ。ワシがここに囲っておっても意味を成さぬ物じゃからのう。主から賜った名誉は確かにワシの中にある。わざわざ物で確認する様なモノではなく、また金は溜め込むモノではなく巡らせるモノじゃからの」
魯粛はそう言うと、小さく笑う。
「いや、せっかく副都督になったと言うのに、いつまでも商人気質が抜けんのう」
「人の本質と言うのは、そう簡単には変わりませんよ。先主や当主を見ていれば、それも分かるでしょう?」
「確かにの」
言葉は悪いが孫策は当主になったにも関わらず一武将の様な、迂闊なほどに気楽な行動が目立ち、それが命を落とす事にも繋がった。
孫権は孫策ほど自由過ぎる行動するわけは無いにしても、やはり孫家の血なのかお祭り好きなところは目に付く。
今は張昭が文字通り腕ずくで止めているものの、細かい問題は山積み状態である。
「お酒をお持ちしました」
「おお、早かったのう」
「ちょうど母上様のところに仕入れがあったみたいで、譲っていただきました」
「それは良い」
魯粛はそう言うと、妻と言っていた女性から酒を受け取る。
「先ほどは挨拶が遅れて申し訳ございません。大都督の周喩と申します」
「大都督がご丁寧に、ありがとうございます。于と申します」
質素な服装の女性はそう言って頭を下げると、そそくさと部屋を出て行く。
「……于? 姓ですか?」
本人に確認する前に出て行ってしまわれたので、周喩は魯粛に尋ねる。
「じゃろうの。詳しい事はワシも知らん」
「……于と言う姓で思い出した、と言う訳でも無いのですが伯符がこの世を去って、もう十年以上も過ぎていたのですね。私には今にも伯符がそこから現れそうに感じているのですが」
「確かにのう。あやつならそれもありそうじゃが、過ぎた事ばかりに目を向けても仕方なかろう。ワシは何度でも言うぞ。お主の天下二分の計は、伯符ありきの軍略であり、仲謀に向いた軍略ではない。例え不安要素を抱える事になったとしても、劉備は利用すべき盾であり、排除するべき敵ではない」
「その事についての説明も必要と思って、今日は訪ねてきました」
「あの場でケンカを吹っ掛けろと言うのも、お主なりの軍略なのじゃろう?」
「はい。私自身は当主でも天下二分は十分に有り得ると思っていますが、貴方の言う劉備を荊州に閉じ込めて盾として使うと言う案には確かに魅力があります。その上で主君のこちらの意図を掴ませたくないと言う言葉に、貴方の呂範と言う人選は面白いと思いました」
だからこそ周喩は、ただ魯粛を隠すと言う孫権の行いでは諸葛亮に勘繰られると考え、敢えて使者には魯粛を立てられない理由を作る事にしたのだ。
「ですが、それだけではありません。貴方には別で働いてもらいたいと思って、無茶振りしてみました」
「ワシに何ぞやれと言うのか?」
「非公式な立場で、劉備の元に行って欲しいのです」
「ほう、婚儀の邪魔でもするか?」
「いえいえ、それは別の大問題になってしまいますので、そこは勘弁して下さい」
周喩は苦笑いして言う。
「貴方の考える劉備を盾として使うと言う考えには、私も魅力を感じます。ですが、それには一つ大きな障害がありますが、それは分かっていますよね?」
「孔明じゃな」
「その通り。劉備自身の戦勘も脅威ですが、そこに関羽、張飛、趙雲などの猛将、さらに荊州の人材までも入手した事を考えれば、荊州の守りはまさに鉄壁です。そこに軍略さえ乗らなければ、間違いなく最強の盾となるでしょう」
「……孔明を暗殺でもするか?」
「出来る事ならそうしたいところですが、それは不可能でしょう。赤壁の時の様に曹操のせいに出来るのであればともかく、今の状況でそんな事をしては同盟も何も無くなってしまう。暗殺など必要ありません。諸葛亮が失脚すれば大大成功、ですが関羽や張飛が諸葛亮に対してわずかでも不信感を持たせる事が出来れば上首尾でしょう。なので、貴方には劉備の元に行って、適当に酒でも飲んできて下さい。酒の肴で私に対する愚痴でもこぼしてもらえれば、それで十分です。関羽や張飛はどうかわかりませんが、諸葛亮はそれに策を感じる事でしょう」
周喩はそう言うと、真っ直ぐに魯粛を見る。
「諸葛亮は紛う事なき天才であり、当代随一の、おそらくは千年後にもそれ以上は現れる事の無いほどの天才です。諸葛亮は自身を管仲、楽毅に例えていた様ですが、彼が師事した先生は諸葛亮と比肩するのは、周の礎を築いた太公望や漢の張良でなければ追いつかないと言われたとか。私一人ではとても手に余るので、私達で揺さぶりをかけようと思ったのですよ」
「……面白いな」
周喩の提案に、魯粛は頷く。
「人の本質はそう簡単に変えられない、と言うヤツじゃな」
「本当に察しが良くて助かります」
周喩の狙いは、まさに諸葛亮にとっての急所となるところだと魯粛も分かった。
諸葛亮自身には、性格以外に欠点も弱点も無い、周喩が評する通りの天才であると魯粛も思う。
軍略において、政略において、策略においてすら優秀であると自負する魯粛ですらまったく勝負にならない事は自覚している。
自分で口にした通り、周喩も諸葛亮には及ばないと思っているようだ。
が、諸葛亮自身に弱点が無くても、どうしようもない問題を抱えている。
諸葛亮に匹敵する人材がいない事である。
戦場であれば、関羽、張飛、趙雲と言う人外とも言うべき武勇を誇る傑物がいる劉備軍だが、軍略を練る軍師は諸葛亮を除くと関羽にその適正があるくらいで、他に適任者がいない。
また関羽に適正はあったとしても、その思考は剛に偏っている為に戦場外で周喩や魯粛らと知恵比べとなると、さすがの関羽でも分が悪いと言えるだろう。
今、孫権の妹と劉備の婚約と言う軍略において大きな策が動き始めると、諸葛亮はそちらに注力せざるを得ない。
そこに魯粛がまったく策意も悪意も敵意も無く関羽や張飛と酒盛りをしていたとしても、諸葛亮の目には間違いなく内部からの切り崩しの策に見える。
逆にそう見えない者には、軍師としての適正は皆無と言えるだろう。
諸葛亮に対して勝利を欲するのであれば、一対一の知略戦ではなく一対多で一つの事に集中させない、集中出来ない状況を作る事こそが重要である。
「実際に策を練り込んできても問題無いと言う事じゃな?」
「もちろん。劉備軍の弱体化は私の天下二分の計の為でもありますし、それがなされなかったとしても諸葛亮の発言力さえ削る事が出来れば、荊州を盾として使えるのですから」
周喩はそう言ったあと、少し笑う。
「何じゃ? 笑う様なところがあったか?」
「いえ、例の武術大会の時に厳畯が主君にこう申したそうです。主君は魯粛と呂範を実際以上に評価している、と」
「ははは、あの堅物らしいのう」
厳畯と言うのは張昭の推挙で孫権軍に参加した文官の一人であり、いかにも張昭が好みそうな真面目で誠実な人物である事は魯粛も知っている。
だからこそ、遊び人にも見えてしまう魯粛や呂範の事を苦々しく思っているのだろう。
「ですが、主君は一笑に付したそうです。今回の事でも迷惑をかけそうですが、それでも貴方なら何とかしてくれると信じています」
「ここへ来て無駄な重圧をかけてくれるのう。その話は呂範にはしたのか?」
「笑ってました。その上で、いつものど派手な格好で劉備への使者に出向いてくれました」
「それもまた、あやつらしいのう。ではワシもちょいと酒でも飲んでこようかのう」
「旨い酒になる事を期待しています」
創作設定回ですのでいくつか説明を
演義と言うより、ドラマ『スリーキングダム』の中で周喩と魯粛の仲が険悪になるシーンがありますが、二人の軍略の違いや演義での周喩の性格から考えると、割と有り得そうなシチュエーションだと思いましたので、私なりにイジってみました。
演義ではともかく、正史では魯粛と周喩の仲は険悪になったりはしてないみたいです。
正史の周喩であれば当然かもしれませんし、問題を起こすなら魯粛の方でしょうし。
魯粛の妻も創作設定です。
当然魯粛に妻はいるのですが、詳しい事は記されていません。
本作の于と言う女性は、例の偽于吉を演じた少女です。
孫策の死に関わっている事から、魯粛が匿う形で屋敷に入れて家の中にいても不自然じゃ無い様に妻として迎えたと言う経緯がありますが、本編では別にいいかなと思って語られてません。
なので、本当に魯粛はこの女性の事についてほとんど知りません。
ちなみに于の側にも親族は無く、天涯孤独の身で魯粛の母とは意気投合していると言う設定ですが、これもさほど重要な設定ではありません。