第八話 婿候補
周喩の容態が安定し軍に復帰したのだが、すぐに軍事行動とはいかなかった。
まったく予想外なところから、孫家を揺るがす様な問題が湧き上がっていた。
その事を知らない魯粛は、受け取った報告を周喩のところに持ってきたのだが、その時には周喩と主である孫権だけでなく張昭や顧雍といった孫権軍の首脳陣が集まっていた。
「……何じゃ? 重要案件の様じゃのう」
「これは副都督、ちょうど呼びに行こうとしていたところです」
「……帰った方が良いかのう」
「ちょうど呼びに行こうとしていたところです」
周喩と顧雍が笑顔で言うので、魯粛も謎の会議に参加する事になった。
「で、これは何の集まりじゃ?」
「先日の武術大会の件は知っておるだろう?」
張昭が尋ねる。
「うむ、凌統が優勝したそうじゃのう。盛り上がったみたいで何よりじゃ」
魯粛は聞いた事を伝えたのだが、何故か孫権と張昭の表情は曇ったままである。
口うるさい張昭はともかく、お祭り好きで自分が主催した武術大会が盛況に終わったのであれば孫権は得意顔のはずなのだが、その表情は険しい。
「何じゃ? 凌統が勝ったらダメじゃったか?」
「いえ、そこではないんですよ」
周喩が苦笑いしながら言う。
「その武術大会に妹君が出場した事も知ってますか?」
「うむ、出場した武将達はさぞかし困った事じゃろうな。何じゃ、そこから苦情が来とるのか?」
「苦情は当たっていますが、出ているのはそこからではありません」
周喩は苦笑しているが、その表情より深刻に困っている様な印象を受ける。
「で、どこからの苦情じゃ?」
「呉国太様からだ」
「……難儀じゃのう」
張昭の言葉に、魯粛もようやく事態を理解した。
呉国太と言うのは、孫権達にとっては生母の妹であり厳密に言えば叔母に当たるのだが、孫堅の第二夫人でもある事から血の繋がりは無くとも実母の様に接している人物である。
実際にその家族仲は良く、実母をすぐに亡くした妹にとっても母として尊敬している人物であり、呉国太の方も実の娘の様に育ててきた。
が、それ故に呉国太には『弓腰姫』の異名が気に入らないらしく、やはり女らしさを追求してほしいと思っているらしい。
本来であれば呉国太としては娘には大喬を手本にして欲しいと思っていたようだが、孫堅の血がそうさせなかったのか、血の気の多い小喬の方を手本としてしまった事も問題らしい。
「今までも呉国太様は我慢されていた様だが、武術大会は許容範囲を超えていたらしくてな。妹君を嫁に出すともうされてな」
「まぁ、年齢的にも別に嫁入りはおかしい話では無いじゃろう」
「そこで、どこに嫁に出すかを考えていたところなんです。副都督の様に人脈が広く、切れ者の意見は非常にありがたいところなのです」
顧雍がニコニコ笑いながら、魯粛にとんでもない重荷を投げつけてくる。
「呉国太様に認められる家柄で、妹君を受け入れてくれる度量の持ち主と言う条件なのですが、これが中々難しくて」
「陸遜はどうじゃ? 家柄も能力も将来性も十分じゃろ?」
「陸遜は先主がご自身の娘を与えてますので」
軽口であったとは言え孫策自身が口にした事であった為、陸遜には孫策の娘が嫁いでいる。
そこに陸遜にとっては第一夫人の叔母が第二夫人として嫁ぐと言うのは、まず間違いなく呉国太から反対される。
「と言うわけで、皆で頭を抱えているわけです」
「難題じゃな」
周喩の言葉に、魯粛も大きく頷く。
せめてどちらか、と言うよりあの『弓腰姫』を妻とする度量の持ち主と言うだけでも稀有な人物なのだからそれだけで良しとして欲しい。
とは全員思っている事だが、その程度で呉国太を説得出来るはずがない事は全員が分かっている。
「で、副都督は呼ばれる前から何しに来たんだ?」
孫権が突然現れた魯粛に尋ねる。
「うむ、この状況下で報告するのは気が引けるのじゃが、悪い報せは嫌でも届くモノでのう。劉備が荊州の南部も制圧したそうじゃ。ついでに訃報も二つ。劉琦が病によって命を落としたそうじゃ。あと劉備夫人が亡くなったらしい。こちらも心労が祟ってのようじゃのう」
「……劉備、夫人?」
孫権は不思議そうに首を傾げるが、張昭も同じ様な表情になっている。
まあ、そうなるよな。
魯粛も同じ思いである。
劉備の見た目だけで言えばどう考えても女性であり、夫人を娶る側ではなく夫人として嫁ぐ側になるはずなのだが、不思議な事に夫人を娶っただけでなく息子もいる。
長坂での惨劇によって正妻以外の妻や趙雲が奇跡的に救い出した息子の一人以外の全てを失ったのだが、その苦難を共に乗り越えた正妻を失ったと言う報告だった。
「……劉備ってあれで男だったのか?」
「らしいぞ。本人は笑って何も言わんが、関羽と張飛も詳しい事をしゃべろうとはせんからワシも確認はできとらんが、正妻であった甘夫人の子であるかは知らんが、今いる子は劉備が『産んだ』子ではなく『産ませた』子である事は間違い無いそうじゃ」
「……劉備殿はいかがですか?」
周喩がぽつりと呟く。
「何がじゃ?」
「いえ、妹君の嫁ぎ先です」
周喩の言葉は、知恵者ばかりが集まっているにも関わらずこの場に居合わせた者達ですら理解するのに時間がかかった。
「は? 公瑾、正気か?」
魯粛が尋ねると。周喩は大真面目に頷く。
「もちろん。例えば軍略で言うのであれば、荊州を手中に収めた劉備と争うのは被害が大きくなります。妹君との婚儀がなれば、ご主君は劉備は義弟。今後曹操との戦いを見据えた場合には悪い話ではありません」
「確かに。それは計り知れぬ利点には違いない。違いないが……」
張昭は言葉を濁す。
「呉国太様が納得されますか……」
張昭の言葉には魯粛も頷く。
実際の劉備の胡散臭さもそうだが、見た目はともかく実年齢は五十を過ぎている。
一方の孫権の妹はまだ二十代も前半であり、年の差は三十近くもある。
姉の子であり自身は子を授からなかった呉国太は、この娘の事を溺愛していた。
「……義母には知られない様にする必要があるな」
孫権も眉を寄せて呟く。
「変に隠しだてするのは、事を面倒にするのでは?」
「いや、公瑾はまだあの義母の事を甘く考えている。キレ方が師父並みかそれ以上だ」
孫権は難しそうな表情で考え込む。
「ただ、劉備との婚姻の件は天下の情勢下から見ても良策だ。婚姻さえ決まってしまえば、義母も文句は言わないだろう。……多分」
「ではワシが行くか?」
基本的に劉備との窓口になっているのは魯粛である事から名乗り出るが、孫権は即答しなかった。
「いや、子敬では露骨が過ぎる。劉備軍との面識がありながら、あまり接点の無かった者が良い。出来れば真意を探られたくないからな」
こういう辺りは、孫策には無かった孫権ならではの目であると、魯粛は感心する。
「そう言う事であれば、呂範辺りが適任かのう。一応赤壁には参戦していたし、その時に劉備軍の面々とは顔も合わせておる。孔明から舌戦でやり込められたメンツでもないからのう」
魯粛がそう言った時、一瞬だが周喩と目が合い、周喩は自身の脇腹を指差した。
何じゃ? 何かの策の合図?
一瞬の事でしかなかったので見間違いの可能性もあるが、魯粛の勘が周喩には何らかの策があると告げていた。
「しかし、劉備を身内に出来るのであれば一つ問題が片付くと言うモノじゃのう」
適当な話題を広げて周喩の真意を探ろうと、魯粛は切り出す。
今この場で何かの手を打つと言うのであれば、それは単に妹君の婚姻の話ではなく天下国家の大略であろうと魯粛は読んだのである。
が、今この場には主君の孫権と師父である張昭、文官の長である顧雍と武官の長である周喩と魯粛と言うメンツであり、秘密の話をしたとしても漏れ出る様な者達ではないはずなのだが、周喩はそれでも他の者には分からない様に合図を送ってきた。
何かあるのじゃろう。面白そうじゃから、乗ってみるか。
「いや、劉備は身内にすると言うのではなく、妹君の夫としてこの建業に閉じ込めておく。劉備の生殺与奪さえ握っておけば荊州を奪い返す事も容易いでしょう」
どうやら正解だったらしく、周喩がらしくもないくらいに物騒な事を言い出す。
ふむ、いかにも公瑾らしからぬ物言い。ここは否定せよと言うのじゃな?
「何をたわけた事を。それこそ無用の争いを建業に招くと言うものではないか。大都督は建業を火の海にするおつもりか?」
「副都督こそ、随分と及び腰になっているのではありませんか? 確かに曹操軍は強大であり協力者がいればそれは心強いでしょう。しかし、その協力者が背後から刺す様な人物ではむしろいない方がマシです。劉備は信用するに能わず。孫劉同盟など幻想にすぎず、副都督は甘い夢など見ずに現実を受け入れらた方が良い」
周喩はらしくない物言いの上に、芝居がかったほど冷たい目を魯粛に向ける。
脇腹を指していたよな? 確か怪我をしていたはず。怒らせる事は厳禁との事らしいが、その割には売り言葉を連ねるのう。怒らせよと言う事か?
「公瑾、いい加減伯符の亡霊を追うのは止めよ。その軍略は伯符あってこその軍略であり、仲謀のソレではない。お主が一人で酔っているならワシとて止めんが、独りよがりに主君を付き合わせると言うのであればその狂気には付き合えんぞ」
「子敬、言葉が過ぎるぞ」
周喩が口を開く前に、孫権が魯粛を咎める。
「何と言われようと、今の公瑾の軍略は大都督のモノではなく、先主への想いに引き摺られた妄執じゃ。それでは仲謀の良さが殺されるだけでなく、間違いなくその才を潰される事となる。ワシはそんな事に主君の命運を捧げるつもりなど毛頭ないぞ」
「……ならば副都督の任を解く。上意に従うつもりの無い者など、軍に必要無い」
「望むところじゃ!」
周喩の言葉に、魯粛は持っていた木簡を足元に叩き付けて言う。
「おいおい、そう言う大事を主君抜きで決めるな」
今にも掴み合いになりそうな周喩と魯粛だったが、張昭が間に割って入る前に孫権が声をかける。
「副都督に大きな問題があった事は事実だが、大都督も独断が過ぎるぞ?」
「失礼いたしました」
周喩はすぐに孫権に頭を下げる。
「子敬、貴様は自宅で謹慎を命じる。それまで副都督代理は呂蒙に委ねる事とする」
「好きにせい。いっその事、解任してはどうじゃ?」
「そうだな、お前の頭が冷えないのであればそれも考えるとしよう」
孫権にそう言われ、魯粛はそのまま自宅へと帰っていく。
その様子を見ていた者が皆無と言うはずもなく、すぐに『軍内部で何かあった』と言う噂は広まる事となった。
実は演義のみの架空の存在
呉国太様なのですが、正史にはその存在は無く演義にのみ登場する架空の人物です。
今後の事を考えると出さない訳にはいかない人ですのが、演義では妹さんの母ですが本編では叔母になってますし、実際に登場するのはあとちょっと先になります。
呉国太もそうなんですが、実は妹君こと孫夫人の方も存在自体は正史でも確認出来るのですが、すんげーワガママ気質でめんどくさい人だった事以外はよくわかっていないみたいです。
ちなみに『弓腰姫』の異名も演義ではなく、吉川英治三国志でついたモノらしいです。
めちゃくちゃ一般化しているので、てっきり演義由来のモノだと思ってました。
さて、そろそろ妹さんの名前を尚香にするか演義で登場する名前なのに一般化されなかった仁にするか、はたまた蒼天航路の字面がめちゃくちゃカッコイイ燁夏にするか決めないと。