第五話 魯粛の戦い
さて、仕事を押し付けられたのは良いとして、どうしたもんかのう。
南郡の城を足がかりに、劉備は荊州南部に勢力を拡大させている。
少なくとも孫権軍に対しては不誠実どころの話ではない行動だったのだから、当然非難するべきところである。
が、あの詭弁を得意とする諸葛亮を論破する事が出来るだろうか。
魯粛も赤壁開戦前の、諸葛亮の論戦は見ている。
孫権軍の文官達を次々に論破する事、それ自体はおそらく魯粛も出来たのではないかと自分では思う。
だが、あれほどの速度で滞る事無く論破していく事が出来るかと言われると、自信は無い。
さらに言えば、どこかで感情的になって話を中断してしまう事も考えられるのだが、諸葛亮は瞬時に論客達を論破していった。
まともに論戦しても、ワシには勝目は薄いじゃろうの。さて、どうしたもんか。
正攻法でダメなら搦手と言うのが常道である。
「魯粛殿、私も同行致しますか?」
補佐の諸葛瑾が申し出てくるが、魯粛は少し考えた後に首を振る。
「いや、お主の存在はもう少し隠しておきたい」
「隠すも何も、弟は私が孫権軍に加わっている事を知っていますが」
「ソレではなく、外交の窓口になっておる事をじゃ。お主の弟を悪く言う訳ではないが、あやつは簡単にお主の弱みを突いてワシの頭越しにお主を使って主君になんやかんやと提案してくるじゃろうからの」
「……確かに」
諸葛瑾は否定する事無く、小さく頷く。
「ま、場合によってはお主にも人質になってもらう事にもなりかねんから、損な役割じゃのう」
魯粛は笑いながら言う。
「それは構いませんが、何か手があるのですか?」
「うーむ、有ると言えば有るし、無いと言えば無いんじゃよなー。まぁ、まずは初戦じゃ。様子見の為にもちょいと劉備のところに行ってくるかのう。今ので少しやり方も見えた事じゃしの」
「……今のどこに?」
「はっはっは、まぁ案ずるな」
おそらく、魯粛のやろうとしている事は周喩の軍略ではなく、孫権軍の面々のほぼ全ての者の思っている事とは違ってくるだろう。
だが、周喩の思い描く天下二分の計は現実的には極めて困難である事は、魯粛に分かる事なのだから周喩にも、そして劉備軍の面々も分かっているはずだ。
いかに無茶苦茶な事をやったとしても、劉備軍にとっても孫権軍との同盟は必要であり、天下三分にしか生きる道は残されていない。
弱みは確実に向こうにある。
そうは言っても、そこに対する反論は既に考えてある事だろう。
色々と考えた結果、魯粛は数人の人員と共に酒や食料を持って劉備の元を訪ねた。
軍を率いてきた訳でもなく、いかに形だけとは言え同盟軍からの使者なのだから劉備軍に拒む事は不可能であり迎えるしかない。
魯粛が迎えられたところには劉備と諸葛亮の他、関羽と張飛がいた。
しかもご丁寧に張飛は蛇矛まで持って、劉備の後ろに控えている。
関羽は目を閉じ腕を組んで、どっかりと座って身動き一つしない。
絵になる男じゃのう。公瑾も絵になるが、関羽はまたちょっと違うの。
魯粛は呑気にそんな事を考えるが、わざわざ関羽と張飛を傍に置き、張飛に至っては武器まで構えているのだからまともに会話するつもりはないと分かり易く見せつけてきている。
しかし諸葛亮にしては安い脅しじゃ。いや、これでは露骨で安過ぎるのう。何じゃ? ワシへの脅し以外にこの二人を置く理由があると言う事か?
妙な違和感を覚えながらも、魯粛は劉備の前に行く。
距離の詰め方に張飛が蛇矛を鳴らす。
ふむ、警戒はされておると言う事か。
「此度の戦の戦果、お見事としか言い様がないですな! 特に孔明殿の戦術、軍略たるや、まさに神の如し! 伏龍とはよく言ったものじゃ!」
魯粛の言葉は予想外だったらしく、諸葛亮すら眉を寄せている。
「故にこの魯粛、祝いの品を持ってまいりました。存分にお楽しみ下さい」
魯粛の言葉に張飛と諸葛亮は疑っている表情で、関羽は相変わらず目を閉じたまま険しい表情になっているが、劉備だけはにこやかな表情である。
「祝っていただけるとは、恐れ入ります」
「何だ? 毒でも盛ってるのか?」
張飛があからさまに疑って、そんな事まで言ってくる。
「毒? 盛ってどうするのじゃ? ワシ一人で城を制圧出来るはずも無かろうに。何じゃ、万夫不当とまで言われる張飛様は存外小心者、まるで女子か幼子の様じゃのう。愛い奴じゃな」
「ああん? 馬鹿にしてんのか、テメーは!」
「よせ、翼徳」
目を閉じ腕を組んだまま微動だにしない関羽だが、それでも張飛を言葉で制する。
「魯粛殿は祝いに来たのか、挑発に来たのか」
「飲みに来たと言うのが正直なところじゃ」
関羽の問いに、魯粛ははっきりと応える。
「何しろ今の孫権軍は空気が悪くてのう。酒が飲みたくても気を遣う様な有様での。祝勝会と称して旨い酒を飲みに来たのじゃ。その為の酒も食物も用意しとる。それを運ばせても良いかのう」
「もちろん、喜んで」
関羽や諸葛亮が何か言う前に、劉備がすぐに答えた。
それに合わせて、魯粛も使用人達を使ってテキパキと宴会の準備を整える。
諸葛亮がどう思っていようとも、宴会を始めてしまえば流れは作れる。
しかも劉備は乗り気だし、難しい話よりも酒の魅力の方が張飛には効果的だろう。
ここで気になるのが関羽の存在である。
この関羽と言う男、計り知れんのう。敵としては考えたくないほどに強大な存在じゃが、味方としても扱いづらい危険極まりない存在ではないのか?
あまりに重々しい雰囲気の関羽は、案外魯粛にとってより諸葛亮にとっての方が大きな障壁となっているのではないか、と言う疑念が頭に浮かぶ。
ちょいと啄いてみるか。
奇妙な形で始まった宴は、劉備と魯粛だけは楽しそうなのだが、張飛ですら乗り切れていない雰囲気となっている。
「いや、しかし本当に孔明の軍略は見事と言うしかない! ワシは参謀として尊敬するわい」
魯粛は大笑いしながら言う。
「佞言を弄するか、魯粛殿。貴殿の信用を損なうだけでなく、主である孫権すら評判を落とす事になりかねないが」
「何やら思い違いをされておるな、関羽殿。ワシは本当に本気で諸葛亮孔明と言う天才軍師を尊敬しておるのじゃ。今回の南郡城の攻防には、我ら参謀にとって理想とする様な軍略が散りばめられておる。そんじょそこらの参謀には思いつきもしない、一流どころですら思い付いても実行できない様な、神懸かり的な策謀じゃぞ?」
「ほう、ベタ褒めですな。具体的にどの様なところですか?」
「こんな場に相応しい話題では無さそうですが」
「いや、ワシは語りたい! いかに諸葛亮孔明が優れた軍師であるか、言って聞かせてやりたいのじゃ!」
会話を遮ろうとした諸葛亮を押しのけて、魯粛は関羽に向かって言う。
「私も聞きたい!」
魯粛とはウマが合うのか、劉備も乗り気である。
「そうじゃろう、そうじゃろう。孔明先生は実に素晴らしいのじゃ! まず今回の南郡の城の奪取。コレが既に普通の軍師には実行できない軍略なのじゃ。普通であれば同盟軍が戦っている時、留守になった城を奪うと言う判断は出来んもんじゃ」
「あん? 周喩が言ってたんだろ? 取れるモンなら取ってみろってよ」
張飛が酒を飲みながら、話に参加してくる。
「ちーと違うが、同盟軍が戦っている最中に普通は城を奪うと言う判断は出来んもんじゃよ。同盟軍として参戦すると言うのなら、普通は城を奪うのではなく敵の後方から攻撃して挟撃を狙うか、あるいは敵の退路を断つものじゃ。その退路を断つと言うのを、城の奪取と言う形で行う事はまず出来んモンじゃ」
魯粛の言葉に、関羽が頷いている。
なるほど、関羽は今回の事に納得しとらんかったと言う事か。それで諸葛亮はワシを論破する事によって関羽を納得させる為の材料にしようとしていたのじゃな。
「ワシ程度の参謀であれば、やはり挟撃しようとしたじゃろう。その場合、間違いなく自軍にも被害も出るが、胸を張って共に城に入る事も出来るじゃろ? その後に城を得る話をするじゃろうの」
「あん? それだとテメーらだけが城に入って、俺らは締め出されるっつー事になるんだろ? 周喩の様な卑怯者の考えそうな事だろうが」
「そう! まさにその通り! その言葉に、いかに我ら同盟軍が信用されておらんかが伺えるのう」
魯粛の言葉に、諸葛亮の表情が曇る。
「そこを考えさせる前に、先手で城を取ってしまう。コレは中々出来る事ではないのじゃ。信義も仁義も情義も無く、ただ結果のみを求めた軍略をすぐに実行に移させる事も、誰にでも出来る事ではないのじゃが、それを目の前でやってのけたのが、この孔明殿じゃ。参謀ならば感動せずにはいられんわい」
魯粛の言葉に、諸葛亮は苦笑いの表情を浮かべている。
本来であればその非道を責めるはずであり、最初は魯粛もそうしようと思った。
が、それでは諸葛亮本来の実力を発揮する事の出来る論戦の場に立たされる事になる。
それならば最初からその場に立つ事を拒否するのも一つの手。
「それで、その事に感動したから祝いに来たと? 城を取った事をそのままに?」
関羽が重い瞼を開いて、魯粛を睨む様に言う。
「それについて言及したとして、どうにもならんじゃろう? この軍略は自軍の兵こそが何より大切で、他に血を流す者達の事など毛ほども考えない。どうしても考えてしまうじゃろ? 敵兵にも家族があり、友人も知人もいて、日々の日常がある、と。それと戦っている同盟軍の兵も同様じゃ。が、その者達の血が流されているところを見物しながら城のみを奪取する。ワシ程度の軍師にはそれが枷になるのじゃが、それを振り切れるのじゃから大したものじゃよ」
魯粛は視線を関羽から諸葛亮に移して言う。
もちろん、咎めるつもりで来ているのだ。全てを許してやるつもりなど、欠片も無い。
「つまり、城を譲れと言うのですか?」
「言っても譲るつもりも無いじゃろう? その問答こそ時間の無駄じゃ。ワシ自身はともかく、南郡で戦った者達はもはや劉備軍を同盟軍だなどと考えておらんじゃろうからの。こうして楽しく飲むのは、今日、これが最後になるかもしれんからのう。ワシの感動を直接伝えたかったのじゃ」
魯粛は笑いながら言う。
「次は曹操と楽しく飲む事になるやもしれんし、曹操軍と共にお主らと戦う事になるかもしれんのう」
「何を馬鹿な事を。姦賊に手を貸すと言われるのですか?」
「止むを得んじゃろ? 最初から信用していない者と同盟など出来ん。それを示したのは、孔明、お主自身なのじゃからな。お主はワシらの信を裏切り、城を奪った。真実は違うかもしれんが、ワシら孫権軍にとってはそれが事実なのじゃ」
「では、共に曹操に滅ぼされるだけです」
「それもお主が望んだ事じゃろう? まるでワシらがそちらを騙し裏切った様な事を言わんで欲しいのう」
魯粛はそう言って周りの様子を見る。
諸葛亮は相変わらず苦笑いしているし、張飛はバツの悪そうな顔で酒を飲み、関羽は一度は開いた瞼を閉じてまた動かなくなっている。
ただ、劉備だけは相変わらず楽しそうなままである。
関羽もそうじゃが、劉備こそが異物の中の異物じゃな。この者でもなければ、諸葛亮や関羽と言った傑物は手元に置けんじゃろうの。
「では、どうすれば納得していただけると言うのですか?」
「納得も何も、行動したのはそちらじゃぞ? もし何かを提案し、何かを譲歩する必要があるのであればそれはワシらではなくそちらじゃろうが。もっとも、そのつもりも無いのであれば今日は楽しく飲もうではないか」
「魯粛殿、これは主や軍師殿の意向ではなく、あくまでもこの関羽個人での考えなのだが」
「ふむ、伺おう」
「確かに魯粛殿が言われる様な誤解を招く行動があった事は事実。だが、戦の世であればこその緊急避難的処置でもあった。が、我ら劉備軍は信義、仁義、情義に背く事など無い。先ほど魯粛殿自身が言われた通り、戦場で共に入城するべきところであったが、我らは先に入城し、非難される誤解を招いた。それでどうだろう、ここはひとまずこの城は借り受けたと言う事で譲歩しては貰えないだろうか」
「借り受けたと言われてものう、その期限はいつまでの事じゃ? それに、その権限は関羽殿にあるのか? どうじゃ、孔明。劉備殿も」
「私は良いわよー」
驚く程簡単に劉備は応える。
「……では、新たな立脚の地を得るまでの間、この地をお借りすると言う事でいかがですかな?」
「先ほども言うた通り、提案し譲歩するのはそちらで、ワシはそれを受け取って持ち帰るだけじゃよ。それに今日は楽しく飲みに来た事じゃしな」
「では、孫権殿にもよくお伝え下さい。我ら劉備軍は決して信義に背く様な事は無い、と」
関羽が魯粛に念を押す。
なるほど、諸葛亮の手にすら余るか。劉備軍最強の戦力である事は疑いないところじゃが、必ずしも最悪の敵では無さそうじゃのう。
関羽の強引極まる一案で、諸葛亮は譲歩せざるを得ない状況になった。
まだこちらに有利、とは言えないまでもこれ以上粘った場合には、今はこちらに道理があると認めている関羽も見限って来る事は容易に想像出来るので、魯粛もそれで納得する事にした。
「まんまとしてやられたわね」
魯粛を送った後、劉備はニヤニヤしながら諸葛亮に言う。
「正直に申しますと、完全に読み違えました。魯粛殿はもう少し傲慢で自分の才覚をひけらかす人物と思っていたのですが、まさかあの様に卑屈なフリが出来るとは。てっきり商人としての強みを見せつける様に、多くの元手を出したのだから、我々に城の所有権があるとでも言ってくると思い、それに対する対策ばかり考えていました」
「私もそう思ってたわ」
そう言うと、劉備の表情が変わる。
いつも悪戯っぽい笑顔を浮かべた少女の様な劉備だが、時折見せる妖艶な闇を纏う艶のある美女の様な表情になる。
「おそらく、敵として見た時に強いのは周公瑾でしょう。でも、本当に危険なのは魯子敬の方かもしれないわね」
「何故その様にお考えに?」
「あのやり方は、商人のそれと言うより、もっと闇の側。法外な利息をむしり取ろうとする高利貸しに近いわよ。戦略においても策略においても、魯子敬より孔明の方が数段上でしょうけど、このままだと孔明唯一の弱点を責められて苦しくなってくるかもしれないわね」
「私の唯一の弱点?」
「貴方は一人しかいないって事。今後、孫権軍は表からは周喩が、裏からは魯粛が策を巡らせてくるでしょうけど、それに対抗出来るのは孔明一人。私達が下手に手出し口出ししようものなら、余計に向こうの術中にハマるでしょ? 悔しいけど、さほど時間に余裕は無さそうよ?」
「……ですね。こちらも手を進めて行きましょうか」
大幅アレンジです
演義ではここから魯粛の振り回され人生本番みたいになりますが、本作では新説なので孔明先生に良い様に使われてません。
この後、演義では周喩からも無能扱いされるなど魯粛の可哀想過ぎる中間管理職っぷりが光るところではありますが、正史ではそんな事ありません。
孫権や周喩呂範らは劉備をさっさと追い出せと言っていましたが、魯粛だけは劉備を擁護して荊州に留めていますが、これはあくまでも魯粛の意思であって孔明先生に利用されての事では無いです。
また、演義では本編最後に孔明先生が言った様な事を魯粛は主張しますが、簡単にあしらわれています。
なので、本編では関羽に代弁してもらった形になりましたが、正史でも演義でもここで関羽の介入はありません。
あくまでもここだけの創作設定です。