第七話 袁術軍から抜ける
惨敗としか言い様がない結果しか生み出さなかった連合だが、結成当初は想像もしていなかった事態を生み出す事は出来ていた。
本来であれば袁紹や袁術は全責任を取る必要があるところを、袁紹は董卓を打ち破り、窮地に立たされた董卓は都を焼き皇帝を誘拐して逃げたと伝えた。
しかも自分達は特に何もしていないと言うのに焼き捨てられた都を復興させる為に、董卓を追わずに難民と化した都の住民を救う為に追撃は行うことが出来なかったとした。
民には信用しやすい話であり、真実とはかけ離れているとは言え事実として捉えた場合には合致しているところもあるので、完全に全てが嘘っぱちとは言えない。
そんな事もあって袁紹と袁術の名声は高まったとも言えるのだが、諸侯からの信頼は大暴落であり、乱世の様相はさらに深まり、いよいよ漢の命脈は尽きたと言った方が良いだろう。
そんな中、魯粛はまだ袁術軍から離れる事が出来ずにいた。
連合の時にきっかけを失ってから、ここぞと言うところが無い。
最悪の場合には突然姿を消すと言う事も考えたが、以前劉曄に話した通りそれでは魯家の信用まで失う事になる。
今後の事を考えると、こんな小さい事で信用を失うのは避けておきたい。
その一方で、魯粛が祖母の事を心配して独断で連合から離れようとした事は張炯が言いふらした事もあって、袁術軍の中での信用はガタ落ちである。
もっとも、こちらについては好都合とも言えたので、特に訂正する事もしていない。
そんな事もあって育成枠として期待されていた魯粛だったが、袁術軍は名門によって構成されている為、その傘下に加わりたいと願う者は多い事もあって、今でも末席のままだった。
「ふっふっふ、下手を打ちましたねぇ。これでも坊ちゃんの事は評価していたのですよ?」
袁術軍の中でも比較的親しかったと思われる紀霊も、袁術軍内での出世の道が閉ざされた魯粛を見下して近づかなくなっていた。
そんな中、魯粛も想像していなかった事態が起きた。
連合を離れて長沙に戻るはずだった孫堅が、途中で劉表とモメて交戦となって、そこで討ち死にしたのである。
主を失った孫堅軍は、長男の孫策を新たな主君と定めたのだが、主を亡くした衝撃は大きく連合での戦いと劉表との戦いで主力となる精鋭達も多く失っていた事もあって、袁術を頼って来たのである。
「む? 孫策の元にいなくてもいいのか?」
袁術軍では孫策を迎える為の宴が行われていたが、末席の魯粛はそれに参加する事を許されずに雑用に追われていた。
そこで、同じように宴に参加していないらしくうろついていた周瑜を見つけた。
「厳密に言えば、私はまだ孫策の臣下では無いので行動の自由は許されているんですが、今日みたいなある程度の官位を持っていないと参加出来ない宴には近付けないんです」
「ほう、そりゃ難儀な事じゃ。公瑾より出来るモノなぞ、この軍におるはずも無かろうに」
「それより、そちらは? こんなところで雑用なんかしてないで、宴に行かないといけないのでは? 今なら孫策にも顔通しができますよ」
「あいにくとワシもそんな大層なところへは行けなくてのう。そろそろこんな所を離れて曹操の元へ行こうかと考えておる」
「曹操に?」
「うむ、連合の際に繋ぎは出来ておるからの。少なくともこの袁術の元におっても先は無い。それは孫策も同じ事じゃろうから、早めに伝えておいた方が良いぞ」
「それなら、いっそ孫策に仕えないか? 君なら大歓迎です」
「それも悪くないが、袁術のお膝元で目立つ事をするべきではない。あらぬ疑いをかけられて、孫策共々飼い殺しにされるぞ」
「……確かにありえますね」
「近々ワシはこの袁術軍を去る事を考えておるのだが、その後で孫策に会わせてもらえるかの?」
「では、ご家族は私が保護しておきましょうか? 袁家には及ばないにしても、周家もまた名門ではありますからそれによって信を失う事は無いでしょう」
「うむ、良い考えじゃ。それで行こう」
今の魯粛であれば袁術軍内でも信用を失っており、また出世の見込みが無い事も自他共に分かっている状態で、さらに誰からも必要とされていないと言う事もあって簡単に離反出来ると思っていた。
事実、魯粛が祖母の元へ帰ると申し出た時にはあっさりと認められたので、同じく袁術軍では先の見込みがなくなった者達などに声をかけて袁術軍を離れる事になった。
しかし、そんな魯粛の離脱を危険視する者がいた。
魯粛を評価していた李豊である。
李豊は魯粛の事を高く評価していた為に連合にも参加させていたのだが、その才能が他の勢力に流れるくらいなら消しておいた方がいいと進言したのだった。
いかに豪商とは言え、魯家の商売がなければ袁術軍が困ると言う事も無い。
だが、この時には反対意見が多かった。
これは人道的見地からと言う訳ではなく、単にそこまでする必要が無いと言う判断である。
李豊は危険視していたが、この時の魯粛は単なる腰抜けの商人でしかなく、そんな労力を誰も引き受けたがらなかったと言うだけだった。
これが張勲や紀霊などであれば話は終わりだったのだが、言い出したのが細かいうるさ型の李豊と言う事もあって、それなら自分の私兵だけで十分と言って魯粛に追っ手を差し向けてきた。
「面倒な事じゃのう。ワシなんぞ追ったところで、袁術に対する評価なぞ変わらんじゃろうに」
追っ手が差し向けられた事を知って、魯粛は大きくため息をつく。
「どうします? 数はおそらく多くはないでしょうが、長江を渡る前には補足されるでしょう」
周瑜は魯粛に尋ねる。
「もちろん、迎え撃つ。完膚なきまでに叩きのめす」
「え? それだと、袁術軍の全面攻勢を呼びませんか? そうなると、さすがに私も匿うのが難しくなるかと思いますけど」
「そんな事にはならんよ。李豊は本気でワシを危険視していると言う訳ではあるまい? 張勲らを出し抜ける様な出世頭でもなく、紀霊の様な武勇も無い。それでも点数を稼ぎたいからワシを追っているだけじゃ」
「でも、ここで追っ手を叩きのめしたら、君の危険性を見せる事になるのでは?」
「なるじゃろうな。少なくとも李豊には。じゃが、袁術は動かんよ」
魯粛は笑いながら答える。
「ワシを討つなり捉えるなりすれば、李豊の手柄にもなるじゃろう。じゃが、失敗した場合、それを素直に袁術に報告すると思うか? 李豊が細かく口うるさいのは、何も規律を守っている訳ではない。アレは自分の地位を確認しているだけじゃ。手柄を立てれば袁術に対してワシの危険性を大々的に吹聴するじゃろうが、失敗した場合には何も報告する事はせんよ。仮に問い詰められても、逃げられたと言うだけ。無理に逃げるより、ここで叩きのめした方が安全に長江を渡れると言うものじゃ」
魯粛はそう言うと数人呼ぶと、二三言話して走らせる。
「今のは?」
「援軍じゃよ」
魯粛はニヤリと笑う。
「援軍?」
「うむ。公瑾にも心当たりが無いのであれば、李豊如きに察する事など出来はせんから安心じゃの」
魯粛はそう言うが、この場で足を止めて迎撃の準備には入らず、前進を続けた。
袁術軍の中でも李豊の軍は、とにかく細かい事にまで気を配る。
と言えば聞こえはいいかも知れないが、無意味な規則と無駄としか言い様がない確認事項や報告事項が多過ぎる為、まったく速攻に向かない軍である。
その割に緻密な作戦行動が取れるのかと言えばそうでもなく、魯粛の目には何の為の規則なのか分からないのが李豊の軍であった。
そんな李豊の軍は、少数であってもそこまでの速度は無い。
李豊本人が率いているのでなければもう少し早いかもしれないが、それでも異常な報告義務が無くなる訳ではないのだから、劇的に早くなる訳でもない。
しかしそれでも向こうの方が足は早いと言うのは魯粛にも分かっていた。
向こうは確実に騎馬で追ってくるからである。
まして魯粛も全力で逃げている訳ではなく、散歩よりは早いと言う程度の行軍であり、追いつかれるのは時間の問題であった。
「お、良い場所に来たのう」
魯粛は多少入り組んだ地形に差し掛かったところで足を止めて、周囲を見回す。
崖と言うほどではないにしても山間の通路で、左右には小高い山が壁のように立っていた。
「いかにも伏兵がありますよ、と言う地形ですね」
「うむ。当然李豊は伏兵があると分かっていても突っ込んでくる。全軍ではないじゃろうから、残りは援軍に任せる事にしようかの」
魯粛はそう言うと、さっそく迎撃の準備にかかる。
魯粛に付き従う者は千人近くにまで膨れ上がっているのに対し、袁術軍の追っ手は二千。しかも全てが騎馬だと言う。
真正面からぶつかった場合には、想像を絶する豪傑集団でもなければ勝利は難しい。
魯粛は半数近くを断崖の上に配置して、残る半数で袁術軍の迎撃の為に備える。
配置としては問題ないのだが、袁術軍を迎撃する為に大きな問題があった。
「物資はあるのですか?」
当然その問題に気付いていた周瑜が尋ねる。
そう、それが問題だった。
逃亡中の身で、多くの物資を持ち運ぶ事は困難である。
それでも食料や生活必需品の類は必要になるので、荷車などにまとめて乗せて運んでいたのだが、その中に最低限の刀槍はあっても鎧や弓矢などは入っていない。
袁術の追っ手が来たと知ってから多少は備えたものの、十分に戦えると言えるほどではなかった。
「なぁに、心配はいらん。李豊なら最低限あれば十分じゃよ」
魯粛は余裕たっぷりに言うと、自ら剣を手に最前線に立つ。
「公瑾は下がっておれ。何かあっては困る」
「それは心配いりません。これでも連合で戦って来たんですから」
「いや、公瑾は次に必要になる。ここでかすり傷であっても怪我をされると困る」
「次?」
「力押しだけでは何事も上手くいかんからのう」
魯粛はそう言うと一列目には槍を持たせるが、二列目にはすぐに出れる様に指示は出したが武器は持たせていない。
そうこうしているウチに、李豊の騎馬隊が追いついてきた。
「魯粛! 袁術閣下を裏切る事など許さんぞ!」
「許しなどいらんじゃろう。ワシはもう気ままな商人。袁術のところに戻るつもりはない」
魯粛は堂々と答える。
「降れ、魯粛! これ以上無駄な問答をするつもりはない! 降らぬと言うのであれば、討ち取るのみ!」
「出来ない事は言わん方が良い。程度が知れると言うものじゃ」
「ほざくな、小童めが!」
李豊が突撃の号令をかける。
それに呼応して騎馬隊の一隊が突撃して来る。
「一隊か。慎重な事じゃ」
魯粛はすぐに合図を送ると、左右の崖に配した伏兵が一斉に声を上げて、木を打ち鳴らし、石を投げつける。
突然の轟音に馬が驚き、騎馬隊の突撃が止められるのを確認した魯粛は、自ら飛び出していく。
それに続いて一列目の武装した者達も突撃する。
魯粛が先頭の騎馬の兵士を切り倒して馬を奪うと、一列目の槍を持った者達に混乱している騎馬隊に攻撃を命じた。
そこで倒した騎馬兵の武器を、徒手だった二列目の兵士が奪っていき、李豊の騎馬隊の一隊を全滅させた頃には魯粛達の武装も整っていた。
「次じゃ!」
李豊がさらなる騎兵を繰り出してくる前に、魯粛の方が仕掛ける。
魯粛の声に応える様に、崖の上の伏兵は音や石による攻撃だけでなく、火のついた木々を李豊に向けて投げつける。
火を使う事は考えていたのだが、煙によって伏兵をばらす事になるので、先に別の攻撃を見せて時間を稼ぐ必要があったのだ。
また、時間的に余裕が無い事から貴重な油なども使って、急いで火を点ける事も出来た。
この程度の火で騎兵の全てを焼き払う事など出来ないが、魯粛の目的はそれではない。
とにかく今すぐに戦う事の出来ない状況を作る事だけが目的だった。
火によって驚く馬を御す事は、そう簡単な事ではない。
それが一頭や二頭であればともかく、狭い道で先頭の一隊の馬が暴れだしたと言うのであれば、一度兵を引いて立て直すしかない。
李豊がそう判断して断崖から兵を引き始めた時、後方からも混乱の声が聞こえてきた。
「さすが、いいところで来てくれたものじゃ」
魯粛はすぐに撤退の指示を出して、伏兵に向いた道から進んで長江へと向かっていった。
この物語は
歴史研究資料などではなく、私が好き勝手妄想しているだけのなんちゃって三国志ですので、フィクション全開です。
魯粛が袁術軍を抜ける際に、追っ手を武勇によって蹴散らした事は正史にもありますが、こんな事では無かったと思われます。
また、魯粛が袁術軍を抜ける歳に周瑜は同行したりしてません。
と言うより、周瑜が袁術軍にいません。
いかにも孫策とは一心同体と言う雰囲気のある周瑜ですが、正史ではこの頃の周瑜は孫策の元ではなく実家の方にいたみたいです。
作中でも言っている通り、この頃の周瑜は孫策の家臣と言う訳ではないので別行動でも何ら不思議はありません。