第三十三話 勝利の裏で
孫権軍は未曾有の大勝利に沸き上がっていた。
戦の天才と言われた孫策は無から有を作る戦であった為に、殆どの場合で自分達より大軍と戦って勝利してきたが、今回は規模が違う。
まず数十万もの大軍を用意出来る勢力と言う時点で限られてくる。
これほどの大軍を用意出来る勢力は、かつての董卓、袁術、袁紹くらいなものであった。
そして、相手はそれらの大軍と戦い、漢における最大勢力とまで言われた袁家の二人を討ち滅ぼしたもう一人の戦の天才、曹操なのである。
戦の勝利に対して沸くなとは言えないが、大軍を有する戦の天才に対して、これ以上は望めないほどの完勝を収めたのだから、歓喜の嵐が吹き荒れるのは止めようがなかった。
一方で前線を外れた魯粛や文官達は、勝利した武将達と違ってここからが多忙を極めた。
「おかしゅうないか? ワシャ武官じゃぞ? 立場で言うなら参謀長じゃぞ? 何で文官仕事に追われる事になっとるのじゃ?」
あまりの多忙に、魯粛は愚痴る。
「助かってます。何分、貴方ほど手際の良いお方はいらっしゃいませんので」
顧雍が苦笑いしながら言う。
「構わんから、こき使ってやれい。こやつの使いどころなど、こういう時だけなのだからな」
一方の張昭は感謝の意を伝える顧雍と違って、小間使い扱いである。
圧勝だったのだが、戦後処理が必要無いと言う事など有り得ない。
恩賞やら報償などはもちろん、被害が皆無と言う事も無いのでその補填なども試算する必要がある。
さらに捕虜の処遇などの問題も加わってくる上に、曹操軍から奪い取った物資類の配分など、戦場から離れたところだからと言っても、文官達には文官達なりの戦の苦労はあった。
武官である魯粛がここに放り込まれているのは、商人との繋がりと言う強みがあっての事でもある。
「伯言、ちょっとこっちに来て手伝え」
魯粛はたまたま見かけた陸遜に声をかける。
「はい?」
「伯言、そっちには近寄るな。不良がウツるぞ」
呂範が笑いながら陸遜を魯粛から遠ざける。
「ん? 何でお主もこっちにおる? 赤壁の戦勝組では無いのか?」
魯粛はふと気になった。
呂範も程普の下について戦に参加していたのだが、基本的には諸事雑務を担当していて、周喩と諸葛亮の策によって前線の空気が異常に悪くなった事を報告していたのも呂範である。
「それは、そちらと同じ理由からですよ、参謀殿」
今では軍の中枢とも言うべき川賊出身の者達にはこういう仕事は任せられない事もあり、現場で細かく数字を見てきた呂範などの存在は戦後でも重宝されていた。
「せっかくの大勝利。盛大に祝ってやらないと、川賊に限らず血の気の多い連中は満足せんでしょうからな」
虞翻はそんな事を言いながら仕事をしている。
特に川賊出身者の事を嫌っていると言う事は無いが、虞翻は言葉を飾る事を嫌う上に協調性にも多少問題を抱えている事もあって、言葉で毛嫌いされる事の多い人物である。
「そうじゃのぅ。ついでに言えば、武官と文官も出来る限り同席せんで済む様にせんとのう」
魯粛がそんな事を言うのも、武官の中には制御不能の凶暴さを内包する甘寧と言う困った酔っ払いが存在するのだが、この虞翻の酒癖の悪さも中々なものなのだ。
「で、伯言はなんでこんなところをうとちょろしておるのだ?」
張昭が陸遜に尋ねる。
「はい、実は山越の活動が活発化していて、少々手を焼いているとの報告があったので、その報せを持ってきました」
陸遜はその書状を魯粛に渡そうとしていたのだが、張昭に奪い取られる。
「軍事の事ならワシじゃないのか?」
「お主じゃアテにならんからだろうが」
「爺様じゃ戦も出来んじゃろうに」
「誰が爺様じゃい!」
一瞬の気の緩みを生んだ隙を突いて、魯粛は張昭の手から書状をひったくる。
そこには陸遜が言う様に山越賊の動きが活発になってきたと言う報告が書かれていたが、事態はそれどころではなく緊迫したものだった。
これまで山越の一部に顔が利くと言う事で祖郎に任せてきたのだが、その祖郎が病に倒れたと言う。
また曹操軍南下の情報も伝わってきた事もあり、これまで敵対していた勢力だけでく友好的であった部族ですら敵対してきたらしく、その抗戦によって祖郎の補佐を務めていた蘇飛までもが重傷を負ったと報告してきた。
「おおっと、思った以上に深刻じゃぞ?」
現時点では朱治を中心として、赤壁大戦前に孫権軍に参戦した顧雍や陸績に並ぶ名門の一族である朱桓や張温といった面々が食い止めているところだった。
「子敬、お主行ってこい。どうせ暇だろ?」
「ここにおる以上、暇ではないわい。それに、戦勝組が戻って来ればすぐに公瑾から呼び出しがかかるじゃろうから、ワシは待機の意味も込みで手伝っておるのじゃ。爺様こそ、自慢の鉄拳で暴れてくれば良かろうに」
「文官の儂が出る幕でもなかろうに、このたわけが」
「そう言う事なら、俺が行ってこようか?」
ふらりと現れた孫権が二人の間に入って尋ねる。
「お前は大人しくしてろ」
魯粛と張昭は、同時に孫権に向かって言う。
「子敬と子布、戦勝組が戻ってくるぞ。出迎えてやろうではないか」
孫権は笑いながら二人に向かって言う。
参謀であった魯粛や呂範も厳密には戦勝組ではあるのだが、ここで言う戦勝組は対岸に渡って曹操軍と戦った者達を指している。
祝勝会の準備も整っているのだが、文官を代表して張昭が出迎えているのにもワケがあった。
相変わらず武官は文官を下に見る傾向があり、これだけの大勝利であれば武官の増長はさらに増していく事は目に見えている。
そうさせない為の一手としての張昭である。
下手な武将より物理的圧力のある張昭がいれば、少なくとも目の前で文官を下に見る発言は出来なくなるほどであり、張昭本人の意思とは無関係に祝勝会が行われる時には必ず参加する羽目になっていた。
「大都督、ご苦労であった」
孫権自らが周喩を出迎える。
「長らく結果を出す事も出来ず、かろうじて勝利する事が出来ました。ご主君にそう言っていただけるのは、非才の身に余る光栄にございます」
周喩は丁寧に言うと、預かっていた宝剣を孫権に返す。
「此度の勝利は尽力してくれた武将の献身あっての事。私などより諸将に対して労いをお願いしたく存じます」
「うむ、全て大都督の言う様に取り図ろう」
こうして祝勝会は和やかに行われる運びとなったのだが、少数で敵拠点を陥落させた凌統と甘寧、水軍を焼き払う活躍を見せた徐盛や潘璋、敵軍の退路を絶って曹操軍に大打撃を与えた蒋欽、陳武、呂蒙らが戻ってくる頃には和やかどころではない盛り上がりになっていた。
「おう、丁奉。生きてたか!」
呂蒙が少年とも言うべき年齢の若い武将を見かけて、声をかける。
「そりゃ生きてますよ。ここで稼いでおかないと、家族が飢えますからね」
丁奉は笑いながら答える。
「相変わらず細いな、丁奉。ちゃんと食ってるか?」
凌統もそれを見つけて近付いて来る。
「ちゃんと食ってます! 今後も戦場で武勲を立てて行きます!」
「お前、特に何もしてないだろ?」
蒋欽が丁奉の頭を軽く小突く。
「してますよ! 陳武将軍の元で、石投げたりしました! めっちゃ得意ッスから、スゲー命中率良いッスよ! あ、陳武将軍が悔しがってましたよ。凌統将軍に先を越されたって」
「丁奉、余計な事ばかり言ってないで、諸先輩方に酌をして回ってなさい。あと、正しい言葉使いも覚えなさい。と言うより、覚えろ」
陳武が丁奉をあしらう様に言う。
孫権軍は曹操軍ほどに人材が豊富と言う訳ではないが、父であった孫堅と同世代の曹操と違って、すでに孫堅、孫策、孫権と三代目である事もあってそれぞれに仕えた将軍達がいる関係から、世代交代とも言うべき若い武将達の台頭が目立っていた。
孫権が曹操や劉備と比べてかなり若いと言う事もあるが、丁奉や陸遜といった若手が育ってきている事は孫権軍にとって悪く無い傾向と言える。
そんな中で、もっとも遅く戻ってきた殊勲者がいた。
黄蓋である。
一人では立って歩く事も出来ないほどの重傷でありながら、黄蓋は誇らしげな表情を浮かべて戻ってきた。
「義公のヤツがモタモタしていたから、遅くなってしまったな」
「自分の足で歩けない割には、口は達者に動くな。この調子なら引退せずに済むんじゃないか?」
「がっはっは! この黄蓋、まだまだやれるわい! ひよっこどもには負けんぞ!」
黄蓋は苦肉の策によって受けた打擲の傷も癒えない身で先鋒として戦場に立ち、燃え盛る曹操軍の船の上で大立ち回りを演じ、満身創痍になりながらも于禁にこそ逃げられたものの曹操軍の兵士や武将達を多数切って捨て、孫権軍の士気を大きく高めた。
が、無理が祟って荒れる船から落水してしまい、後詰めの韓当によって救出されなければそのまま長江に沈んでいたかも知れなかった。
そんな九死に一生を得た黄蓋だが、その割には妙に元気なのはそれだけ気力が充実し、気持ちが昂ぶっているのだろう。
そんな中に、劉備軍から曹操を取り逃したと言う報告が入ってきたのである。
「あの状態から取り逃しただと? 劉備軍は雁首並べて居眠りでもしていたのか?」
「黄蓋将軍、血管ブチ切れますよ」
露骨に怒る黄蓋を落ち着かせる様に潘璋は言うのだが、逆に黄蓋から睨まれる事になった。
「まったく、肝心なところで役に立たないのはいかにも劉備軍らしいですね。ですが、案ずるには及びません。曹操が大軍を立て直したとしても、何度でも跳ね除けてやりましょう」
周喩が柔らかく言うと、武将達は歓声を上げる。
「皆は勝利の余韻と酒を心行くまで楽しんでいて欲しい。魯粛、ご主君、師父殿、よろしいか?」
「俺も?」
「ワシも?」
「二人共です」
孫権と魯粛は祝勝会から動きたくなさそうな反応だったが、事の重大さは笑って済ませられる様なものではない事は二人共分かっていた。
「劉備はどう考えていると大都督は考えている?」
場所を移して、張昭は周喩に尋ねる。
「劉備にとって曹操は天敵であり、曹操が生きている限り敵として戦い続ける事でしょう。ですが、現状で言うのならば曹操を討ってしまうと、その報復を防ぐ事が出来ません。劉備軍にとっていかに最大の難敵と言っても、今は曹操に生きていてもらわなければならないと言うだけの事でしょう」
「……つまり大都督が曹操を我らではなく劉備に討たせようとしたのも、同じ理由と言う事か」
孫権が尋ねると、周喩は素直に頷く。
「曹操は超一流の軍略家であり戦術家です。それ故に苦戦もさせられましたが、噛み合いもしました。それが報復と言う目的の戦であれば、損害を気にせず大軍をただ前に進めて来ると言う戦術で来るでしょう。そうなっては、我々に勝目はありませんでした」
周喩はそう答えたが、魯粛はあえて周喩が隠した答えがある事を察した。
曹操を生かした事は周喩が言った通りであると、魯粛も思う。
そして曹操はこれから立て直しにかかる必要があり、すぐに再度南下と言う訳にはいかない。
劉備はその間に、確固たる足場を固めるつもりなのだ。
魯粛としては劉備を曹操に対する盾として使い、両雄が食い潰しあっている間に力を溜めるべきだと考えていたが、周喩がそれを隠したとなると、周喩はもはや劉備軍を同盟軍としては見ず倒すべき敵と見ているのだろう。
「ですが、一度事実確認をしておく必要があります。私と魯粛で劉備の元を訪ねて真意を問いただす事にしましょう」
周喩の言葉に、孫権と張昭は頷いた。
まとめて出てきました。
朱桓と張温は名前だけですが、すでに孫権軍に参加しています。
まぁ、前にちょこっとだけ触れられてますが、張温と言うのはかつて孫堅や董卓の上司であった人も同姓同名のお方がいますが、ここで出てきた張温は別人で呉の名門の生まれの人です。
ちなみに山越と戦っていたかは不明で、ここだけの創作設定です。
祖郎や蘇飛もいつの間にかいなくなっている人達なのでここで名前を出していますが、この方達が山越と戦っていたかは不明です。
丁奉はちゃんと赤壁にも参加していたみたいで、魏の張郃、蜀の趙雲並に長ーく現役の将軍として呉の為に戦っています。
作中で触れた通り、投石が得意だったらしいですが、それによってどんな戦果を挙げてきたのかは不明です。
けど、日本の戦国時代でも投石は普通に行われていた事や、その後の丁奉の地位から考えてもかなり良い仕事をしたのでしょう。