第三十一話 風が吹く
曹操軍でも、その夜は士気が高まっていた。
この日の夜が出撃予定であった事は前もって伝えられていたのだが、死んだと思われていた曹操がその姿を現し、全軍を率いると宣言した為である。
「この曹操、いかなる汚名も恐れず戦ってきたのは、一日でも早く乱世を終わらせる事を目的としてきたため。故に奸雄よ、戦好きよと言われてきたがそれもこの戦までだろう。孫権、劉備は治世を阻み乱世を望む逆賊であり、泰平の世を望む我らにこそ大義がある。この一戦は、まさに我らの大義を示し乱れた世を正す戦である!」
見た目には冴えない曹操ではあるが、その声はよく通り、兵の士気を存分に高めた。
そして、ついに曹操軍が動く。
北風が吹く長江で、連環の計によって繋がった船団の一列目が帆を貼り、風を受ける。
それによって一列目は前に出ようとするのだが、それだけで全てを引っ張る事は出来ていない。
「揺れの度合いはどうだ?」
曹操が于禁に確認する。
「現状では想定内です」
「よし、では二列目と両翼も帆を張る事にしよう」
「では、前線にて指揮をとります」
そう言うと于禁は前列の船に移動しようとした。
「丞相、黄蓋の船が近付いて来ているようです」
程昱が前線からの報告を受けて、曹操に知らせる。
「ほう、思っていたより早いな。船足はどうだ?」
「全速力の様です」
「書状では孫権軍の物資なども降伏の手土産にすると言う事だったが、物見で分かるほどの全速は荷を積んでいて簡単に出せると思いますか?」
「……奇襲、ですな?」
「まず間違いなく。では、夜道に目印も無い長江を急ぐ黄蓋の為にも明かりを灯してやるとしようか。于禁、一列目に火を放って切り離しを。それと両翼の警戒を強めよ。黄蓋が奇襲であるならば、必ず両翼からも来る」
「両翼から? 孫権軍にそれほどの兵が?」
于禁は不思議そうにするが、曹操は大きく頷く。
「奇襲の小勢だが、必ず両翼からも来る。劉備との同盟があろうと無かろうと、この兵力差を覆すには火しかない。が、この風向きでは黄蓋の奇襲で火をかけても焼かれるのは向こう。ならばこちらの両翼後方から火をかければ丸ごと焼き払えると考えているはずだ」
于禁と程昱は、曹操の言葉に驚かされる。
この異常な戦術眼こそが、曹操の真骨頂とも言えるだろう。
そんな奇抜とさえ言える曹操だからこそ、正統派のキレ者である『王佐の才』荀彧や、狂気さえ帯びた『完全な博徒』であった郭嘉といった異才でも無ければ支える事すら出来なかったとも言える。
程昱も自分の能力に自信があり、荀彧や郭嘉と比べても劣っているとは思わない。
だが、優っているとは言えない事も分かっていた。
だからこそ、この戦で有無を言わさぬ手柄を立てたいと言う焦りはあったかもしれない。
この時の程昱の役割は血の気に逸る猛将達の抑え役であり、その中には曹操も含まれているのである。
程昱もほんの一瞬前までは自覚していたのだが、曹操のあまりにも見事な戦術眼に感服して、その意識が薄れていたのはやむを得ない。
しかし、これほどまでに勝ち筋が見えた戦でそれを諌める事が出来る軍師など、決して多くは無い。
そう、それこそ狂気じみた博才を持った郭嘉ほどで無ければ、この状態からオリると言う選択肢は頭の中に浮かんでこないものであり、それを程昱の落ち度と言うのも酷な話ではある。
于禁が曹操の命令を実行すべく前線へ赴き、一列目に火を放って切り離した時、両翼からも小勢の奇襲部隊を発見したと言う報告が入った。
「丞相の千里眼、まさに神の如しですな」
曹操に媚びると言う事ではなく、程昱は本心からそう思っていたし、勝利も確信していた。
それは程昱だけではなく、曹操軍全体がそう思っていた事だろう。
「流した一列目とはつかず離れずの距離を保ちながら追っていくが良い」
曹操も我ながら会心の出来であると、この時には思っていた。
風が吹くまでは。
「黄蓋将軍! 目の前に炎の壁が現れました!」
先行する黄蓋は、兵にそう言われた時には何を言っているのか理解出来なかった。
戦場では恐怖の余り幻覚に悩まされる兵士はさほど珍しい訳でもなく、死の覚悟を決めた者であってもいざその時になって怖気付くと言うのも人として分からない話ではない。
この時の報告もその類のものだろう、と黄蓋は思ったのだが自分の目で見て報告は正しかった事を知った。
確かに前方に炎の壁が出現していて、しかもそれはこちらに近付いて来ていた。
「黄蓋将軍、いかがいたしますか?」
もちろん回避、と言おうとした黄蓋だったが、その指示を出す直前に曹操の真意に気付いた。
曹操がこちらを一切信用せず、最初から黄蓋の投降など偽りであると見抜いたからこその炎の壁だが、狙いはそれだけではない。
黄蓋がこの炎の壁を避けた場合、この炎の壁の後から続く曹操水軍の本隊も素通りさせる事になる。
その場合、無傷の曹操軍本隊と周喩率いる孫権軍本隊が正面衝突になるか、あるいは周喩も回避した場合にはお互いの戦力が無傷で渡河を果たす事になる。
孫権軍数万が渡河したところで曹操軍の赤壁本陣を落とす事が出来る程度だが、曹操軍数十万が無傷で渡河した場合にはもはや防ぎようが無い。
せめて炎の壁だけでもここで止めておかなくては、曹操水軍の足さえ止める事が出来なくなる。
「あの炎の壁は、連環の船の一列目だろう。無人の船が風を受けて流されているだけだろうから、船を着けて帆を落とせばそれだけで航行不能になるだろう。この黄蓋一人で良い。炎の壁の中心の一隻に船を着けよ」
戦う事すら出来ないのは無念の極みだったが、全滅する事が見えていて手を打たない訳にはいかない。
「この様な些事に将軍が命を懸けるべきではありません。ここは俺に任せて下さい」
黄蓋率いる死兵の中に、そう言ってくる者がいた。
「潘璋か! お主はまだ若い。まだまだ主の為に働けるだろうに」
「俺は出世払いの酒代のツケが多いですからね。ここで一発デカいのを当てとかないと、今後のツケが効かなくなりますよ」
潘璋と言う若い武将は、それでも笑いながら応えた。
コレといった実績も無く金も無かった潘璋だが、大の酒好きでいずれ出世払いで返すと豪語しながら酒を飲んでいた人物である。
本来なら叩きのめされるところなのだが、孫権がその性格を妙に気に入った事もあって一度小勢の反乱の鎮圧を命じた事があったが、その期待に見事応えた事もあって以前の酒代を払う事は出来た。
が、新たな酒代が必要になったらしく、この黄蓋の船に乗ってきたと言うである。
「要は真ん中の船を動かなくすれば良いのでしょう? それなら若くて動ける俺の方が将軍より適任のはず」
「たわけ! まだまだお主らに遅れは取らんわ!」
黄蓋は譲ろうとしなかったが、潘璋も折れない。
「将軍、士気の事も考えて下さい。いかに重要な役割であったとしても、将軍が戦いもせずに長江に沈んだとなっては無駄死にもいいところでしょう。本当に命を懸けるべきは、あの炎の壁に対してではなく、その後続の曹操軍本隊に突撃して敵軍を挫く事を考えて下さい。その為にも、ここは無名の俺が行くべきところです。違いますか?」
普段は粗暴な酒好きの潘璋に理詰めで説得され、黄蓋は言葉に詰まる。
「……誰の入れ知恵だ?」
「大都督です」
潘璋は悪びれる事無く、あっさりと言う。
「黄蓋将軍はこの戦を死に場所と捉えて命を軽く扱いかねないので、気をつけろを言われました」
「……公瑾め、やってくれるな。分かった」
黄蓋が潘璋に命じようとした、まさにその時だった。
突如として風が逆巻き、波が荒れ、吹き荒ぶ北風が南風へと変化したのである。
突然の風向きの変化と荒れる波は、経験豊富な孫権の水軍の兵士ですら数名が船から落ちるほどであり、黄蓋は潘璋も身を低くして振り落とされない様にするのが精一杯だった。
押し寄せる炎の壁も風に煽られ炎を踊らせ船も波に振り回されているが、それぞれが繋がっている事もあって沈没する事は無かった。
「これぞ好機! 炎の壁となっているあの一列目、帆が焼け落ちる前にこちらから押し込み、風に乗せてやれば曹操水軍を焼き払えるぞ!」
黄蓋は荒れる船の上で、叫ぶ。
「天は我らに勝てと言っておる! 今、この時、こここそがこの戦最大の分岐点だ! 皆、炎を恐れるな! 風は我らを押し、炎は敵方を飲み込みたがっているぞ!」
黄蓋の指揮によって、黄蓋の乗る船は炎の壁となった連環の船一列目に寄せる。
元々枯れ草や枯れ木などを敷き詰め、所々に油壺や乾燥させた堆肥なども乗せていた事もあって、船を焼く炎の勢いは凄まじく、その熱だけでも身を焼かれるほどだったが、黄蓋の率いる一隊はまったくそれらをものともせず、数名が燃え盛る船に乗り込み、連なる船を繋ぐ鎖を破壊する。
それによって転覆する船も出てきたが、炎に包まれた船は風を受けて逆走し、曹操水軍本隊に向かって流れ始めた。
曹操の水軍は突如として変わった風向きや、前触れ無く荒立った波に戸惑い混乱の局地にあった。
そこへ、自らが放った炎の船が向かってくるのである。
この時于禁は、一列目切り離しの指揮を取っていた事もあって最前列にいた。
しかし名将于禁をしても、これほど不測の波風に対応出来るはずもなく、荒れ狂う波に翻弄される船から振り落とされない様にする事で精一杯だった。
「于禁将軍! 炎がこちらに迫ってきます!」
かろうじて姿勢を保つ事が出来ていた武将の一人が、慌てて于禁に報告に来た。
「……風か!」
一列目は無人の船団であり、ただ風と波に乗せた大きな筏の様なものである。
風向きと波が変われば、当然流される先も変わってくる。
炎を避けようにも連環によって固定された船が急に旋回出来る訳でも、後退する事が出来るはずもない。
「おのれ! 何なのだ、この風は! この様な天の気まぐれで敗れねばならんのか!」
悪態をついたところで事態が好転する事が無いのは于禁も分かっていたが、それでも叫ばずにはいられない理不尽さだった。
「せめて離岸する前であれば……! いや、言っても仕方が無い。せめて丞相の船だけでも切り離して撤退してもらう。そなた、急ぎ撤退を進言せよ! 俺はここで船の切り離しを指揮する!」
「御意!」
「待て、名は何と言う?」
「文聘と」
「文聘? 荊州の武将か! これは有難い! 我ら北方の将より船に慣れているだろう。丞相の元へ向かう途中、船の切り離しを呼びかけながら行ってくれ!」
「はっ!」
文聘は于禁に背を向けて走り出そうとしたその時、炎に包まれた船の脇を矢の様に抜けてくる小舟があり、そこから放たれた矢によって肩を射られて落水してしまった。
「曹操軍のカカシども! 覚悟せよ!」
「黄蓋か!」
風に乗って突き進んでくる小舟は、そのまま曹操軍の船にぶち当たり、そのまま黄蓋は乗船してくる。
「ふん、于禁か! 行きがけの駄賃として首をもらっておくか。焼けて誰かわからなくなる前にな!」
「将軍! 丞相への伝令、確かに承りました!」
落水したとはいえ文聘は命に別状は無かったらしく、荒れ狂う波とそれに翻弄される船を器用に躱しながら後方へ向かっていった。
「老骨の匹夫を相手にするほど、この于禁は暇ではない」
炎を掻い潜って走り込んでくる黄蓋に対し、于禁は剣を抜き放つと黄蓋の鉄鞭を受け止める。
すかさず于禁は黄蓋の鎧を押す様に蹴り、自身もそれで後方に飛ぶ。
その間合いを作った意味を、于禁の側近達はすぐに気付く。
側近達は片膝をついた状態で弓矢を構え、一斉に黄蓋に向かって矢を放つ。
それによって黄蓋を討ち取るには至らなかったものの、黄蓋の足を止める事には成功した。
于禁はすぐに他の部隊へと指示を出そうとしたのだが、その時には先に放った一列目の船が曹操軍の本隊に届き、その炎の脅威を振りまき始めた。
さらに両翼からの奇襲部隊によって火矢を放たれ、もはや立て直しも効かないほどの混乱に陥ったのである。
スペシャルゲスト
今回のスペシャルゲストとして、潘璋と文聘に出張ってもらいましたが、一応この二人も赤壁の戦いにチョイ役ではありますが参戦しています。
と言っても、この二人の本来の見せ場はここではなく、魯粛伝の中では本来の見せ場は出てこない為にココで出てきてもらいました。
かなり陰の薄い武将で、THE脇役といった二人ですが正史での評価は非常に高いです。
演義での出番の無さのせいでほぼモブ化してますが、潘璋とか良いキャラしてますよ。
本編でもちょっと触れましたが、金無いクセに酒好きで出世払いを約束して飲み倒していたとか、いかにも荒くれ感がありますし。
演義ではただの噛ませですが。