第二十九話 同盟崩壊
「黄蓋将軍、これは一体何をやっているのですか?」
まるで決戦前の準備かの様に兵と船を配置し、物資を集めている黄蓋の行動に不信と言うより本当に何を行っているのか理解出来ないと言う疑問から、蔡和が尋ねた。
その質問を聞いて、黄蓋は深々とため息をつく。
「……甘寧、ちっと来い」
黄蓋は甘寧を呼んだが、それは甘寧に用があったと言うより蔡和と蔡仲を近くに呼ぶよりその方が自然だからである。
「お前さん、蔡瑁の仇を討ちに来た間者の割に察しが悪いな」
黄蓋は首を振って言う。
「まあ良い。この黄蓋、いかに人材豊富な曹操軍と言っても武勇においては誰にも引けは取らないと言う自負はある。しかし、春秋の廉頗をもってしてもその齢から戦場から遠ざけられた。この俺とて、その例にもれないとは言い切れないからな。そうなっては、降った後に侮られ、その後の主君の立場さえ危うくする事にもなりかねない。ならば、黄蓋と言う武将、甘寧、呂蒙と言う協力者の上に戦の物資を手土産にして自身の価値を高めねばならんのだ」
「さすがに少し卑屈なのでは?」
甘寧に言われ、それでも黄蓋は首を振る。
「今と言う瞬間だけを見るのであれば、卑屈に見えるだろう。だが、先の、あるいはさらにその先で活きる手土産だ。分からないか?」
黄蓋に言われ、甘寧も首を傾げる。
「とはいえ、これは俺ではなく闞沢の入れ知恵なのだが、この戦が終わり、さらに主が降った後に場合によっては戦犯探しが行われる事もあるだろう。その時にはこの黄蓋が全て引き受けて切り捨てられよう。全ての罪がこの黄蓋と共に消えるのだから、江東の統治、あるいは新たな戦場に向かう事になる呂蒙、甘寧らの為にも慣れ親しんだ武具や糧秣は必要になるだろう、とな」
「……闞沢殿は、高名な軍師なのですか?」
「いや、一介の書生だ」
蔡和は驚いているが、黄蓋は簡単に答える。
「ただ、決戦の準備と言うのは大都督の戦略とは……」
「黄蓋、何をしている」
陣中の巡察と思われる周喩と魯粛、その警護を担う近衛兵数十人の一団が黄蓋らのところへやって来る。
「見てわかりませんかな? 戦の準備を行っているのですが?」
「何故その様な事を行っているかを問うているのだ。私の軍略は守りを固める事と伝えたはず。まるで決戦前の様ではないか」
「無論、大都督の素晴らしい軍略は承知。故に何時敵が来ようとも万全の態勢で守れる準備を行っておるのですが、それすら気に入らず、また棒打ちでも命じますか?」
黄蓋は打擲による刑罰を一切恐れていない振る舞いで、周喩を挑発する様に応える。
つくづく気位の高い爺さんだな、と蔡和などは思ってしまう。
すでに曹操との話はついているのだから、何もせずに大人しくしているだけで戦を終わらせる事は約束されていると言うのに、黄蓋はそれで良しとは思っていない。
または、若くして上り詰めた周喩に対して、特に理由も無くただ反対したいだけなのかもしれない。
猛将と言う人種の中には、妙に幼稚な者がいる事は蔡和も知っている。
荊州に居候している頃の張飛などは、その最たる例だろう。
自身のわがままのみで話し、それが通らなければ癇癪を起こす。
以前の主である劉表は笑って受け入れていたが、蔡瑁などは苦虫を噛み潰していた様な表情で迷惑を被っていたものだ。
黄蓋もそう言う人種である様なところは、多少目に付いた。
まぁ、好きにすれば良いさ。この戦はすでに終わった戦で、数日もすれば荊州に帰れるのだから。
そう思うと、黄蓋と周喩のいがみ合いも冷静に見ていられる蔡和だった。
むしろ曹操への報告事項が多くなる事は、間者としての手柄にもなるのだからどんどんやり合って険悪になって欲しいとさえ思える。
周喩の表情を見る限りでは、この言う事を聞かない老害化している黄蓋は切り捨てたいと思っているのだろうが、黄蓋の言い方はともかく言い分には一理ある。
それもあって、譲れぬところも譲らざると得ないのだろう。
「黄蓋将軍、くれぐれもこれは守りの戦である事を忘れずに。仮に黄蓋将軍が一人で曹操軍百万を打ち倒せる武勇があったとしても、それは地上での話。水上においては個人の武勇は地上ほどの影響を与えず」
「操船の水夫、その連動を支える兵の練度が重要である事は、若造どもに言われるまでもなく分かっている」
魯粛が冷静に説明していたところを、黄蓋が遮って答えた。
「分かっているのであれば、それで構いません」
魯粛は冷たく答える。
普段は飄々とした人物らしいのだが、一度戦となると誰よりも軍規に厳しく、魯粛がいるだけで軍が引き締まると言われているほどである。
そんな人物は軍内、中でも元川賊の面々からは嫌われていそうなものなのだが、魯粛がいる時は配給の質が良くなる場合があると言う側面もあるので、意外な程に歓迎されているところもあった。
周喩はまだ納得していなかったみたいだが、いつまでもその事ばかりを言っていられない事態が起きた。
突如として劉備軍が陣中にやって来たかと思うと、黄蓋が運び込んでいた物資を奪っていこうとしているのである。
「何をしている!」
黄蓋が咎めると、それを関羽が遮る。
「我々はただ我々の仕事をしているだけの事。余計な手出し口出しは無用」
「何が余計だ! 貴様ら、賊にでもなったか!」
黄蓋の怒鳴り声で劉備軍の兵は動きを止めたが、すぐに張飛がやって来て怒鳴る。
「構わん! 続けろ!」
張飛に恫喝され、劉備軍の兵は動き、孫権軍の兵士は何かわからずに動けなくなっていた。
「大都督、ここにいらっしゃいましたか。お騒がせしています」
そこへ遅れて劉備がやって来て、軽く頭を下げる。
それは謝罪などではなく、会釈といったところである。
「劉備殿、これは一体何の騒ぎですか?」
「大都督の軍略はこれより守りを固めるのだとか。それであれば我々の力は必要無いでしょう。我らとていつまでも江夏を空けておく事は不安も大きいので、我らはこれより江夏に帰らせていただきます」
「帰る? この戦の最中? 正気か?」
黄蓋が驚いて劉備に問うが、劉備はさも当然と言う様に頷く。
「曹操が必ずしもこちらを狙ってくると言う確証は無く、また防戦を主とするのであれば我らとて守るべき拠点と、劉琦殿と言う守るべき人物もいますので」
「そちらからの同盟の割に、言い分が一方的にすぎませぬか?」
周喩は劉備を睨む様に言うが、劉備にはまったく悪びれた様子も無い。
「我々はそちらを守る為に尽力しましたが、そちらは我々を守る為に尽力して下さいますか? それが同盟と言うものなのでは?」
「仁君の名が汚れますよ?」
「虚名の汚れなどより、今助けられるべきを助けたいと思いますので」
周喩の皮肉にも劉備は一切動じず、関羽と張飛に物資の搬出を命じる。
「それで、この騒ぎは?」
「こちらからの供出分だけは持ち帰ります。先程も申した様に、我々も守りを固めるとなれば必要になるものですので」
周喩や魯粛に何を言われようと、劉備は眉一つ動かさず、むしろ微笑すら浮かべて応答する。
見た目には幼さすら残す年齢不詳の女なのだが、乱世を渡り歩いてきた強者でもある事を見せつけていた。
「まるで敵前逃亡だな」
「あぁ? 何と言った?」
黄蓋の言葉を聞きつけた張飛が、牙を剥きそうな勢いで睨んでくる。
「敵を前に手立てもなく守りを固める者に言われても、遠吠えに思われるので慎む方が良いでしょう」
関羽も見下す様な事を言うので、今度は黄蓋が牙を剥きそうな表情になる。
何だコレは。とても戦どころでは無いではないか。
見ているしか出来ない蔡和だったが、笑いを堪えるのに必死だった。
蔡仲の方を見ると、同じ様に思っているのか俯いてぷるぷる震えている。
「なるほど、これ以上の会話は必要無いと言う事ですか。残念です。ところで諸葛亮殿はいかがなさるおつもりで?」
「私はまだここで仕事がありますし、我が君が仁君である事を分かっていただく為にも、ここに残ります。すでに我が君の承諾は得ていますので」
体裁を整える為には、それしかない事は蔡和にも分かる。
劉備と言う人物は周りが異常に評価しているだけで、本人はまったく評判とは違って俗物極まりない人物である事を蔡瑁から聞かされていた。
とはいえ、普通の俗物はそれを隠そうとするものなのだが、劉備はそう言うところを一切隠そうとしない。
人が持つ欲の部分を見せる事が上手いと言うか、隠さない事が器の大きさに思われるのか、実際のところは曹操以上の奸物であると言うのが生前の蔡瑁評であった。
些か蔡瑁の個人的感情が含まれ過ぎているかの様な評価ではあるが、少なくともここでのやり取りを見る限りではあながち間違ってはいない様にも見える。
「そう言う事であれば、これ以上引き止める事も出来ません。ですが、何をどう取り繕おうとも不義理は不義理。この戦が終わった後に、改めて責任の所在については話し合いましょう」
周喩の脅し文句にも劉備は笑顔を浮かべ、黄蓋が用意していた物資を奪っていくと本当に二千とはいえ劉備軍は丸ごと陣から去っていった。
「黄蓋将軍も、余計な事に精を出す様な真似を謹んでいただく」
「元より大都督の意向に従う所存だが?」
黄蓋は懲りる事無く挑発する様に言うが、周喩は舌打ちしそうな表情を浮かべるに留まって他の陣への巡察の為に離れていく。
「ふっ、劉備などロクなものではありませんな」
蔡和が笑いながら言うと、黄蓋は頷く。
「全くだ。曹丞相は高く評価しているそうだが、あの様な者、一切信用してはならん。丞相への報告の中にも一文添えておくがいい」
そんな蔡和からの書状が届いた時、曹操はすでに蔡和は切られたものと思っていた事もあって多少驚いた。
「この書状そのものが偽の書状と言う訳では無さそうですが」
曹操は書状を読みながら、程昱に尋ねた。
「その書状にもある通り、闞沢が周喩に疑われる事を避けてすぐに本拠点に戻った事もあって、最低限の情報しか黄蓋将軍らに伝えられなかったのでしょう。丞相はどう見られていますか?」
「いかにも劉備らしい火事場泥棒ではありますが、本当にこの書状に記されている通りの状況であるのならば、この戦の勝利は決まったも同然です。しかし、間者であると分かっているはずの者の前でわざわざこの様な行動を見せつけたのが気にかかります。まるで今すぐに攻め込んで欲しいかの様にも思えますね」
「予定を早めますか?」
それが敵の策である可能性がある中で、程昱はあえて曹操にそんな提案をする。
「期日を定めておいて、あえてそれより早く奇襲をかける。面白い手である事は間違い無いですが、この書状そのものから策の気配を感じますし、もし黄蓋が本当に投降するつもりであった場合、こちらが約束を反故にした事に腹を立てて本気で立ち向かってくる事も考えられます。出来る事ならそんな無駄な損害は出したくないものですね」
曹操は考えた後に急襲する策を却下し、当初の予定通りに決戦を挑む方針を固めたのだった。
同盟?
今回の件は、九割創作である赤壁の戦いにおいて、さらに後付けである劉備軍離脱を扱っていますが、この時は策による行動だったとはいえ事実上これが孫劉同盟の最後となっているとも言えます。
とはいえ、孫劉同盟と言うのは当初こそ同盟と言う形ではありましたが、その後は劉備と孔明がめちゃくちゃ自分たちに都合が良い様に解釈しまくった事もあって、とても同盟とは言えない形になってしまいました。
はっきり言えば劉備と孔明が悪いのですが、演義でもここを最後に劉備と孫権が手を取って戦う事は無くなってしまいます。
ある意味ではこの同盟そのものが奇跡の様なモノだったので、仕方が無い事なのかもしれません。