第二十八話 決戦を前に
夜分遅くに闞沢は戻り、その足で周喩の天幕を訪ねてきた。
「お待ちしていました。首尾はいかがですか?」
天幕の中には周喩だけではなく魯粛や、珍しい事に呂蒙と程普も集まっていた。
これは偶然と言う訳ではなく、闞沢の方から程普に宛てて先に使者を送っていたのである。
自身もすぐに戻ってくるのだから必要無いかとも考えたが、闞沢が戻ってきたその足で周喩の天幕を訪ねていくのはあまりにも不自然だった事もあって、先に程普に知らせたのである。
また、夜に戻ってきた事も出来るだけ蔡和と蔡仲には知られたくなかったためでもあった。
蔡和と蔡仲は一応投降した者として扱われているものの、甘寧と言う見張り付きの立場であり、夜間の行動には明文化されていないにしても実際には制限をかけられている。
とはいえ、表面的には曹操に投降する事を画策していると言う事になっているので、蔡和と蔡仲の感覚では闞沢は当然周喩の事は避けるだろうと言う先入観もあって警戒が緩んでいる事を察していた。
こうして間者の目を気にせずに闞沢は周喩の天幕を訪ねる事が出来たのだが、呂蒙や程普はいかにして誤魔化したのだろうと気になるところではあった。
首尾の話を周喩から振られた事もあって、闞沢は一瞬呂蒙や程普の方に目を向けるが、二人共それに対して頷いて見せた。
「まず一つ確認させて下さい。全て策なのですよね?」
「全て、とは?」
「言葉通りの意味です。前線の状態の悪さも、黄蓋将軍への酷い対応も、投降をそそのかした事も全てです」
「闞沢殿、貴方が味方で良かった。心からそう思えます」
周喩は穏やかに微笑む。
「未曾有の大軍と言うだけでも我々にとって未体験の敵であったのですが、曹孟徳と言う稀代の傑物は私の想像を遥かに超えた真の傑物でした。主君に宛てた通り、我が方有利である事は事実なのですが決定打に欠けた状態が続き、結果天候を掴まれてこちらの不利を招いてしまいました。全てはこの周喩の不徳と無能が招いた事。皆には迷惑をかけた事を謝罪致します」
周喩が素直に頭を下げた事で、闞沢は驚き慌てて首を振る。
「い、いえいえいえ、とんでもない! 大都督にしても参謀殿にしても、見た事も無いほどに高圧的であり、あまりにも戦の前と違っていましたので、独断で越権極まりない行動をしてしまいました」
「大都督はともかく、子敬は前から大体あんな感じでは?」
「お、言うのぅ、子明君。ワシは謙虚誠実を常としておると自負しとるぞ?」
「大都督の副将を務めるに足る洞察力と、参謀の模範とすべき生き方が分かったところで、曹操陣営より持ち帰った情報を聞こうか」
程普がやんわりと魯粛と呂蒙をやり過ごして、闞沢に報告を促す。
「曹操は黄蓋将軍の投降を受け入れる事は約束しました。ですが、私の言葉を完全に信じている、とは言えず、こちらの行動が策である可能性を残していると見るべきではあります。しかし、完全に看破したわけでもなくこちらに投降の意思があるのは認めていると言ったところです」
「なるほど、理想的とはいかないにしても失敗ではない、といったところですね」
周喩の言葉に、闞沢は素直に頷く。
自身の功績を過剰に報告しようとせず、客観に徹した闞沢の報告は戦略を練る上では非常に有難かった。
「曹操はこちらにも予定があると言って、期日を決めてきました。おそらくはそれがあちらの攻勢に出る日かと」
闞沢が言った日は、まさに諸葛亮が風を吹かせると指定した日だった。
「嫌でもその日が開戦の日と言う訳ですね。これで方針は決まりました。闞沢殿は、そのまま主君の元へ戻っていただきこちらの事を全て包み隠さず報告して下さい。次に会うのは、私からの戦勝報告になりそうですね」
「そう期待しています。後もう一つ、曹操から間者の排除の許可は得ていますので存分に」
「はっはっは! 良い仕事じゃのう、闞沢。戦の前の景気付けには丁度いい生贄じゃな」
魯粛は笑うが、そこまで行くといよいよ後戻りは出来ない。
闞沢などはそう思うのだが、周喩や魯粛は最初からそう言う選択肢を頭の中に入れていないのだろう。
闞沢を主の元へ戻らせると決めた後、いよいよ戦に向けての軍議が行われる事になった。
と言っても、細かい事を話す様な事は無く、総攻撃の為の準備の確認程度であった。
「魯粛殿には一つ、やってもらいたい仕事があります」
「ワシを名指しか。何じゃ?」
「劉備軍の尻を叩いて下さい。水上戦はこちらが決めますから、曹操軍の退路を塞いで本領を発揮する事を期待している、とかそんな感じで」
「うむ、劉備との繋ぎを作ったのはワシじゃからのう。ワシなりの責任は取っておくし、奴らにも仕事をさせてやるのは悪い事では無いからのう」
「諸葛亮は?」
程普が何かと首を突っ込んでくる客人を気にする。
「あやつは怪し過ぎる儀式の前じゃと張り切っておったから、気にせんでも良いじゃろう。ワシはすぐにでも劉備のところに行ってこよう。関羽と趙雲はともかく、劉備と張飛と孔明は明け方まで遊んでおるから、おそらく起きているはずじゃ。戦の事は全面的に公瑾に任せるからの」
「では私も明日からの準備に備えるとします」
そう言って魯粛と程普は周喩の天幕から出て行く。
「それじゃ俺も……」
「待って下さい。呂蒙、君には特別な任務があります」
「特別な? 俺にですか?」
呂蒙は首を傾げたが、周喩の表情が僅か前までと比べ物にならないほど険しくなっていた。
「諸葛亮が風を起こすと妄言を吐きました。その日、風が吹かなければ軍規に則って切り捨てて下さい」
「……切って構わないのですか?」
「構いません。それに関しては本人の許可も得ています」
「御意。ではその様に」
「まだ続きがあります」
任を受けたと思った呂蒙が動こうとしたのを、周喩が引き止める。
「もし風が吹いた場合でも、諸葛亮を切り捨てて下さい」
「……は?」
さすがにそれには二つ返事とはいかず、呂蒙は思わず聞き返していた。
「風が吹かなかった場合には軍規に則って、と言う話でしたが、風が吹いた場合には同盟した劉備軍の軍師を一方的に切る事になります。それはいくらなんでも……」
「これは先主の遺言にも関わる事です」
呂蒙の言い分はもっともである事は、周喩も分かっている。
だが、それでも譲れないものがあった。
江東の地は中原から離れている事もあって、儒教の教えの広まり方が薄く、土着宗教の方が力を持っている。
それだけに迷信深く、先主孫策はその事を危険視していた。
主家より土着宗教を信じ、君命や法令より地域独自の決まり事に重きを置く事を良しとしなかった孫策は、自身の命と引き換えに怪しげな妖術を否定し、主家に尽くす事を江東の民に植え付けた。
が、諸葛亮が本当に怪しげな儀式によって風を起こした場合、孫策が命懸けで否定した土着宗教や妖術信仰が蘇り、主家への忠誠が薄れてしまうのである。
「その大罪たるや、風を起こせなかった場合より遥かに重く、深刻です。全責任は私が背負いますから、構わず切り捨てて下さい」
尊敬する周喩に言われても、呂蒙はすぐに返事する事は出来なかった。
「……御意」
それでも呂蒙はその汚れ役を引き受けた。
「ただし、こちらの動きを察して諸葛亮が逃げた場合には深追いは必要ありません。もし本当に諸葛亮が妖術を使えると言うのであれば、その術によってその身を守る事でしょう。それが出来ないと言う事は、妖術に見せた詐術である証です。また、深追いした場合には最悪だと関羽、張飛、趙雲の三人を貴方一人で相手にしなければならないかもしれません。そんな馬鹿げた事で貴方を失う訳には行きませんから、逃げた事を確認した後には呂蒙も戦に参戦して下さい。おそらく水上戦は終わっていますから、敗走する曹操軍への追撃になっているでしょう」
「大都督、一つよろしいでしょうか」
呂蒙が周喩に質問する。
「何でしょう?」
「俺で良いのですか? もちろん俺も武勇には多少なりとも自信がありますが、例えば甘寧などの方が俺より上ですし、魯粛であれば武勇も俺より上であり、何より臨機応変においては俺など足元にも及びません。俺の方に任を与えた意味はありますか?」
「私の思い描く天下二分の計と、魯粛殿の考える天下三分の計の違いです。魯粛殿は先ほどの説明を聞いた上でも、おそらく自説の天下三分の計を曲げる事は無いでしょう。その場合、魯粛にはどれほど危険であったとしても、それを理解し納得した上でさえ諸葛亮を切る事は出来ません。その点、貴方の描いた天下二分の計は私のそれと極めて近い。それでいけば、諸葛亮を切り捨てて劉備軍と険悪になったとしても、その後の展望は大きく変わる事は無いでしょうから」
「分かりました。大都督の期待に応えられる様に尽力致します」
「これは秘中の秘。実行のその時まで伏せておいて下さい」
そんな密談の存在を知らない魯粛は、劉備軍の陣営を訪ねていた。
魯粛の予想通り夜分遅くに劉備の陣営を訪ねても、劉備らはまだ寝静まってはいなかった。
魯粛の予想と違ったのは、いつも規則正しい生活をしている関羽もその場にいた事である。
「珍しい者がおるのう」
「どう考えてもこの時間の来客の方が珍しいはずだが、孫権軍の参謀殿が何の用かな?」
魯粛に驚かれた関羽が、逆に魯粛に尋ねるのだが言い分としては関羽の方が正しいだろう。
「大都督から脅されたんじゃよ。お主らに仕事をさせろとな」
「ああん? 下働きでもしろってか?」
張飛が凄んできたのだが、それを関羽が止める。
「……決戦が近いと言う事か?」
「さすが、天下の名将ともなれば機を見るに敏じゃな。まさにその通り。期日に関してはそこのたわけに聞くと良い」
魯粛は諸葛亮を指差して言う。
「私? その辺の事は大都督からは何も聞いてませんよー?」
「お主が指定したじゃろうが。風を吹かせると。その日じゃよ」
「風? 何の話?」
劉備が食いついてくる。
「このたわけはこの季節に東南の風を吹かせると、大都督の前で大言を吐いたのじゃ。もし失敗した場合には首を賭けると申してのう。大都督はそれを全面的に信頼してその日を決戦の日と定めたのじゃ。その信頼を裏切る様な事があれば、当然その首で償ってもらうのじゃが、劉備軍としてはどうじゃ? 後からモメたくないからのう」
「うん、それは孔明の首で謝罪だね」
劉備はにこやかに答える。
「ええ? 我が君、そんなあっさり?」
「だって自分で言ったんでしょ? それじゃしゃーないって」
「軍師である以上、自分の言葉の責任は自分で取るべきだ。それほどに軍師の言葉は重い」
関羽も厳しい表情で諸葛亮に言う。
「うそーん。張飛殿は私の味方してくれるんですよね?」
「失敗しなきゃ良いだろ?」
諸葛亮は張飛に縋る様に言うが、張飛はにべもなく答える。
「うむ、満場一致じゃな。その上で劉備軍には仕事がしやすい様に、一芝居打ってもらう必要がある」
「え? お芝居? えー、私、上手に出来るかなー?」
劉備が凄く楽しそうにくねくねしている。
「何、難しい事でも名演を期待しているわけでもない。ただ、仕事し易いところに移動する口実を見せるだけじゃよ」
「詳しく聞かせてもらおう」
はしゃごうとする劉備の頭を掴んで、関羽が魯粛を促した。
孔明を切れ
演義におけるブチギレ大都督周喩の器の小ささを見せつける素敵なエピソードですが、そのまま使っては周喩があまりにも小物になってしまいますので、アレンジしてます。
このアレンジはかなり早い段階で考えていたので、出すべきか迷っていた于吉っちゃんと孫策の件も第一章でぶち込みました。
当然ですが、孔明先生がイキリまくって勝手に
「風吹かせるぜ!」
とか言い始めた訳ではなく、本作の孔明先生には先生なりの考えがあっての行動ですが、それは今後多分明かされると思います。
ただ、劉備三兄弟と同様に、ちょっと気持ち悪いくらいの絆の強さを持っていた孫策と周喩ですので、孫策の死を汚す様な孔明の言動は、周喩にとっても看過できないモノだったと言う事で、こんな極端な行動に出た、と言うのが本作における動機になってます。
決してただ孔明が気に食わなかったと言う訳ではありません。