第二十六話 苦肉の策
翌日、周瑜は前線で軍議を開いた。
「ここまでの戦を見て、曹操軍の水軍は指揮官であった蔡瑁を失い決め手を失っている。今の都督は于禁が勤めているが、于禁が実戦に通用する軍に鍛えるにも確実に時間がかかる。時間がかかれば曹操軍は大軍を維持する事が困難になるのだ。ならば我らは守るだけで良い。主に頼み、三ヶ月分の物資を送ってもらう様に頼んでいる。これで我らの勝利は確実だ」
「何を戯けた事を!」
周瑜の勝利宣言の直後、黄蓋が怒鳴る。
最近この光景良く見るな。
周瑜の傍らに立って、魯粛はそう思う。
「時をかければ万全なのはむしろ敵ではないか! 戦において攻める機会を伺う事無く守りのみを考え、物資を求めるなど言語道断! その様な弱腰では三ヶ月どころか三年分の物資でも敵を倒す事叶わぬであろう!」
黄蓋は怒りに身を任せた様に、感情剥き出しになって周瑜に向かって叫ぶ。
「先々代よりの功臣とは言え、言葉が過ぎるぞ黄蓋! それが大都督に対する物言いか!」
一方の周瑜も普段では見られないくらいに感情剥き出しで、黄蓋に言う。
「敵を打ち破る事も出来ず、何が大都督か! このまま貴様が大都督の座に居座り続けるならば、孫家は滅ぶ! 今必要なのは三ヶ月分の物資ではなく、貴様から兵権を取り上げる事だ!」
「聞き捨てならぬ! いかな功臣とは言え、主から宝剣を携わった私を愚弄するのは、主を愚弄するも同じ! 誰か! その老骨の首を跳ねよ!」
「お待ち下さい、大都督! 将軍の口が過ぎたとは言え、戦の最中において将軍を斬首は戦力の低下にほかなりません」
珍しく甘寧が周瑜を諌める。
「黙れ! 川賊如きがこの私より戦の機微が分かると言うか! この周喩、戦の天才であった先主を支えてきた軍師であり、孫家の大都督である! 貴様はそれでも私より優れていると申すか!」
「大都督、甘寧はいたずらに兵力を失うべきでは無いと申しており、それには私も同意です。ここは斬首ではなく打擲の刑に処す事では済みませぬか?」
基本的に流れを見守る事が多い程普が、珍しく減刑を願い出てくる。
「ならば打擲百回だ!」
「お待ち下さい、大都督! 黄蓋将軍はご高齢なれば、百打擲はもちろん、十回でも命に関わります!」
今度は副将の呂蒙が、周喩に訴えかける。
「ならば、打擲十回だ!」
「ふん! 打擲など百回でも千回でも打つが良いわ! 戦に必勝の信念を持たぬ者の打つ鞭など、この黄蓋、何の痛痒も感じはせぬ!」
「よろしい! ならば打擲千回だ!」
「大都督! 挑発に乗ってはなりません! 将軍も無益な挑発はお辞め下さい!」
せっかく減刑が通ったところに黄蓋が余計な事を言った為、呂蒙が慌てて間に入る。
「諸葛亮殿! 黙って見ていたとあっては、同盟に傷が付きます!」
「そうは言われましても、これは孫権軍の問題であって劉備軍の軍師である私が口を出す問題では無いでしょう? これほどまでに狭量なお方に口を出すのもはばかられますので」
呂蒙は諸葛亮に助けを求めたが、余計な一言を付け加えた事によって、諸葛亮は周喩にも黄蓋にも睨まれる。
「ですが大都督、どれほどの猛将豪将であったとしても、さすがに首だけで仕事をする事は出来ません。減刑の件、一考の余地ありと思われますが」
諸葛亮からも一言、周喩に申し出が出る。
「もう良い! 打擲三十回! これ以上の減刑を望むのであれば、その者も共に打擲を受けよ! これにて軍議を終える! 直ちに刑場にて刑を執行せよ! 一打擲足りとも遠慮は無用なり!」
周喩が解散を宣言して自身の天幕に引き上げ、それに魯粛と諸葛亮も続こうとした時、もう一人こちらへやってくる者がいた。
見るからに武将では無い、この前線にいなかった人物である。
「大都督にお話があるのですが」
若い文官の男が、立ちはだかる魯粛に向かって言う。
「何の用じゃ? 戦の最中に大都督に用があると言われ、はいどうぞとはいかんじゃろう。何者じゃ、お前は」
「主より、張紘先生の伝言を持ってまいりました闞沢と申します」
「ほう、張紘先生のな。ワシから伝えておこう。何と申されておったのじゃ?」
「それより、何なのですか今の軍議は。今更私如きが口にするまでもなく曹操は難敵の中の難敵。全員一致団結して戦うべき相手だと言うのに、それぞれが感情的に自己主張し合っているだけで軍議の体すらなしていない! 魯粛殿、参謀として貴方も資質を問われますよ」
闞沢は真っ直ぐに魯粛を見て、一歩も譲らない覚悟を見せる。
「ほう、言ってくれるではないか。中々の胆力じゃのう。文官にしておくのが惜しいくらいじゃ」
「張紘先生の書状は大都督に直接お渡しいたします。よろしいですか、参謀殿」
闞沢が強引に魯粛を押しのけて通ろうとするが、魯粛に遮られる。
「まだ何か?」
闞沢は魯粛を恐れる事無く睨むが、魯粛とて尋常では無い強心臓の持ち主である。
文官であっても張昭並みの圧力が無ければ、恐れる事も怯む事も無い。
だが、この闞沢は使える。
こちらの意図が、正しく黄蓋達に伝わっているかどうかの確信が欲しかった。
魯粛は僅かに体の位置をずらし、闞沢の向きをわずかに変える。
その上で、胸の前で僅かに指を向ける。
「言ったじゃろう? 大都督にすぐに会わせられんとな」
言いながら魯粛は目線を下げて、闞沢に指差す方向を確認させる。
そこには甘寧と蔡和と蔡仲がいた。
もちろん闞沢にはそれだけでは何の事か分からない。
「間者の事も考えんといかんからのう」
魯粛の言葉で、ようやく闞沢も気付いた。
「張紘先生からの伝言と言うのが書状であれば、それはワシが責任持って大都督に渡しておこう。お主は先ほどと同じ事を黄蓋に問うて、真意を探ってくるが良い」
「……では、そうする事にしましょう」
ふむ、張紘先生が寄越しただけはあって、察しは良いのう。これは思いのほか頼りになりそうじゃ。
魯粛は闞沢から書状を受け取ると、周喩と諸葛亮のいる天幕に入った。
「先ほどの者は何と?」
さっそく周喩が食いついてくる。
「そうじゃのう。張紘先生からお小言が届いたのと、真面目に仕事しろと言う事じゃな」
魯粛はそう言うと、闞沢から受け取った書状を周喩に渡す。
すぐに周喩はその書状に目を通すが、苦笑いを浮かべる。
「お小言ですか?」
嬉しそうに諸葛亮が書状を覗き込もうとする。
「お小言です」
周喩は苦笑いを浮かべたままだが、それでも書状を諸葛亮から隠そうとしている。
「どうやら余計な心配をさせてしまったみたいで、お目付け役を送り込まれました」
周喩は諸葛亮を躱しながら、書状を魯粛に渡す。
「えー、何で私には秘密なんですかー?」
「機密事項だからです」
「それでなくとも孔明は信用無いからのう。日頃の行いを見つめ返すがよかろう」
「もっともなご意見ですが、魯粛殿には言われたく無いですねー」
諸葛亮を押しのけて、魯粛は書状を見る。
そこには張紘の心配が書かれていた。
どうやら周喩は戦が始まってからの戦況報告は、『我が方有利』としか告げていなかったらしい。
孫権は周喩が有利と言うのであれば任せようと言っているが、危急存亡を賭けた一戦でそれ以上の報告が無い事に文官達は戦々恐々で、詳細を調べてこいと闞沢を派遣したと記されていた。
また、周喩がそれ以上の報告をしてこないのも、有利でありながら決定打に欠ける事からとも考えられるので、若いと言ってもキレ者である闞沢は役に立てるだろうと推挙もされていた。
「で、その書状を持ってきたはずの人物はどこに消えました?」
「ぶっ叩かれたオジさんのお見舞いじゃ」
「なるほど、書状を見る前から有効活用されている訳ですね」
その闞沢は、三十回もの打擲を受けて横になっている黄蓋の元を訪ねていた。
呂蒙は高齢を理由に打擲の回数を十回と提案していたが、常人であったとしても打擲十回は確実に重傷であり命を落とす事も有り得る。
三十回と言う回数は、よほど強靭な肉体と精神を持ち合わせていなければ生きていられない回数なのである。
普通であれば途中で意識を失い、無抵抗な状態で制裁棒を受ける事になるので、もし生きながらえたとしても間違いなく再起不能になる深刻な状態になる。
だが、黄蓋は自身の足で立つ事は出来ないほどに憔悴しているとは言え、意識を失う事も無く筋肉の鎧によって命に関わるどころか後遺症に悩まされる様な事も無さそうなのは、さすがとしか言い様がない。
その黄蓋をここまで運んできたのは、甘寧と呂蒙であった。
凌統や蒋欽も来ようとしたのだが、太史慈と程普からこれ以上は必要ないと止められ、前線指揮に戻されたと言う。
「文官如きが何の用じゃ。叩かれた者を笑いに来たか」
黄蓋は闞沢を睨み、喘ぎながらとはいえそれでもはっきりと言葉を口にする。
それだけでも強靭な体と精神力は大したものだ。
「前線の状態があまりにも悪いので魯粛殿に一言物申したのですが、その魯粛殿に追い返されてしまいました。『黄蓋将軍に同じ事を言って、真意を探れ』と」
その一言で全てを察した呂蒙が、人差し指を口に当て甘寧の方を見る。
甘寧も呂蒙の意図を読み取ったらしく、指を二本立てた後に親指で天幕の外を指し示す。
「真意も何も、今回の事にかけては大都督の横暴と言わざるを得ません。確かに黄蓋将軍の口が過ぎたのは事実ですが、それにしては重過ぎる罰。将軍、もはやこれ以上は……、いえ、俺はもう一度大都督に抗議してきます」
呂蒙はそう言うと、黄蓋の天幕から出て行く。
「これは蔡和殿と蔡仲殿、黄蓋将軍のお見舞いに参られたのですか?」
呂蒙が天幕の外で蔡和と蔡仲を捕まえたらしい。
「何かの策が動いているのですね?」
闞沢が黄蓋の近くに走り寄って、小声で尋ねる。
「うむ、甘寧。お主も話を合わせてくれ」
「器用な事は出来ませんが、俺に出来る事でしたら」
錦帆賊の甘寧と言えば誰もが恐れる凶賊の名なのだが、戦闘中の異常な高揚の中や酔っている時で無ければ甘寧は決して狂人などではなく、理知的で物腰柔らかい人物である。
どちらが本性なのかは分からないものの、ここでは理知的な方であるらしい。
「では、俺は大都督のところへ抗議に行きます。将軍へのお見舞いもよろしいですが、あまり長居されませんように」
呂蒙が離れたのを聞いて、黄蓋は闞沢に小声で言う。
「あの者らはまず間違いなく間者だが、公瑾があえて泳がせておる。策の為に曹操の元へ潜り込みたいのだが、少し手を貸してくれ」
「分かりました」
黄蓋の提案に、闞沢は短く答える。
「先主、伯符は偉大だった。しかし、あの周公瑾がここまで凡庸かつ狭量であったとは。もはや孫家は終わりだ。明日にでも曹操に討ち滅ぼされようぞ」
黄蓋は天幕の外に向けて嘆き始める。
「将軍、かくなる上は主を救う事を考えるべきかと」
闞沢も同じように天幕の外に向けて話す。
「あの様子ですと、この戦に勝目は薄いと言わざるを得ません。また、仮に勝利出来たとしても大都督はさらに傲慢になる事でしょう。あの大都督から主を救うには、取引するしかありません」
「取引?」
「参謀の魯粛は先日将軍に曹操への寝返りを提案されたとか。将軍には不名誉ですが、将軍の武名は中原にも轟いております。将軍が曹操へ降ってその元で孫権様をお救いする事が出来るかもしれません」
「孫家を捨てろと?」
甘寧は尋ねた後、天幕の入口付近に移動する。
闞沢には分からなかったが、何か人の気配を感じたのかもしれない。
「甘寧将軍とて、あの場では大都督に恥をかかされたでしょう? 甘寧将軍の武勇、人材豊富な曹操軍の中でも屈指の実力であるはず。主を救うと言う一事、必ずしも戦に勝つ事だけが方法では無いと私は考えております」
「誰だ!」
甘寧は狙いすました様に、天幕の入口で聞き耳を立てていた蔡和と蔡仲を捕らえた。
「今の会話を聞かれたか! 甘寧、そ奴らを切れ! 外の者達に漏らす訳にはいかん!」
「お待ち下さい将軍! 我ら、将軍のお力になれるかと」
「力になるだと? 我らを公瑾に売ろうとしておるのだろうが、そうはいかん」
「違います! 先ほどの案、曹操軍に降ると言うのであれば我らもお力になりましょうと申しておるのです」
殺されると言う恐怖からか、ここが好機を見たからか、蔡和はついに自らが間者である事を明かした。
「我らが書状を一筆書き添えれば、必ず丞相もお喜びになられましょう。孫権殿の立場を守ると言うのであれば、何の縁故も持たない将軍の単独行動より、我らの書状が必要になるはず。何でしたら我らが同行いたしましょう」
蔡仲も名乗りを上げる。
確かに黄蓋が単独で向かっても唐突に過ぎるし、何より今は一人で行動出来る状態では無い。
「その必要はない」
それでも闞沢はその申し出を拒否した。
自ら間者である事をバラした者達を、そのまま敵陣営に返してやるほど馬鹿な真似は出来ない。
「書状をしたためた後には、私が自ら曹操の元へ赴き、将軍達の事と孫権様の事をお伝えして、必ず色好い返事を持ち帰りましょう。ここで降られたお二人の姿が見えなくなっては、大都督に露見する恐れがありますので」
突然の闞沢の申し出に、黄蓋も驚く。
「良いのか? 首尾よく行けば良し。しかし、命の危険は十分に有り得るのだぞ?」
「無論の事。将軍ら武官と同じく、我ら文官とて必要とあらば命を懸ける覚悟は持っております。ただ仕事場が違うと言うだけの話。あまり文官だからと見くびらないでいただきたい」
闞沢はそう言うと、蔡和と蔡仲を見る。
「いかに独善的で狭量である事が分かったとはいえ、周喩、魯粛、諸葛亮はそれぞれ優れた智謀の士。事は一刻を争う。お二人には今、この場で書状をしたためていただき、私はその足で曹操の元に向かいましょう。露見してからでは遅いのですから」
こうして、戦の命運を左右する大博打の賽は投げられたのである。
闞沢の凄いところ
苦肉の策の件は演義による創作なのですが、ここで活躍する闞沢さん、チラッと見ただけで周喩の策を看破してしまう恐ろしい才能の持ち主として登場します。
その上、命をかけて曹操軍に潜入する事を買って出るほどの気骨の持ち主。
正史には無い行動なのですが、では正史ではどうだったかと言うと、これほど異常な見せ場があった訳では無いものの、地味ながら非常に優秀であった事は間違い無い様で、陳寿も高評価しています。
ただ、本作では演義のようにチラッと見ただけで看破するほどでは無い、と言うより、登場人物全員が全容を知らないと言う状況で行動していますので、ぽっと出でそれに食い込んで行けるほどに優秀な人物です。
また、実年齢が分からない事もあって、本作ではかなり若手として書いています。
具体的には陸遜と同年代くらいかな?