第二十五話 真意を探れ
「子明、少し良いか?」
「副都督? 俺に何か?」
珍しく程普に呼び止められて、呂蒙は足を止めて首を傾げる。
程普は副都督と言う立場もあって、軍内での完全な行動の自由が許されている。
と言う建前なのだが、実際には首脳部であるはずの程普は作戦の立案などには関わらず、前線の維持などほぼ現場仕事を行っていた。
よく言えば程普にはそれだけの人望と実績があるのだから兵をまとめる事に向いていると取れるのだが、周瑜や魯粛にとって年上の首脳は扱いにくい為に遠ざけられているとも見られている。
一方の呂蒙は元々武将畑出身の荒くれ者だったが、参謀としての才能が開花した事もあって周瑜の副将として期待されていると言う評価ではあるが、この戦が始まってからは程普と行動する事の方が多く、周瑜と言うより程普の副将として動く事になっていた。
二人に周瑜から直接説明された訳ではないが、それでもこれが圧倒的不利なこの戦における策の一環である事は理解していた。
「先の……」
「とぉおおおくぼぉおおおおおおおお!」
謎の雄叫びを上げて、黄蓋が殴りかかってきたのかと身構えるほどの勢いが走ってきた。
「公覆(黄蓋の字)、声が大きい。私は確かにこの軍内において最年長ではあるが、まだ耳は達者だ」
「そんな悠長な話はしとらんわい! 何じゃ、あやつらの態度は! 徳謀(程普の字)、おのれは副都督だろう! たかが参謀如き、蹴散らしてやればよかろうに!」
「叫ばなくとも、聞こえている。まぁ、そう熱くなるな」
異常に加熱している黄蓋に対し、程普はどこまでも冷静である。
「黄蓋将軍、少し落ち着かれた方が……」
「黙れ、小童! 公瑾の腰巾着如きがしゃしゃり出てくるな!」
「分かった分かった。私の天幕で愚痴くらい聞いてやろう。それで良いな?」
「では、俺はこれで」
「何を言う。子明も付き合うが良い」
呂蒙が立ち去ろうとするのを、程普が引き止める。
「はい?」
「私が公覆の愚痴を聞いた後、私の愚痴を聞いてもらわねば困る」
程普でも冗談を言うんだ、と呂蒙は妙なところで感心する。
「お、甘寧ではないか! お前も文句の一つも言いたいだろう?」
黄蓋は程普の天幕へ移動している時に見かけた甘寧に、気軽に声をかける。
「え? 面白そうなお誘いですが、俺は子守りの任務がありますから」
「そうだったな」
甘寧の言葉に、黄蓋は頷く。
子守り、と言っても実際に子供の世話をしている訳ではなく、甘寧は間者の疑いが強い蔡和と蔡仲の世話役と言う名の監視役を勤めている。
今はその二人は見えるところにはいないものの、甘寧がここにいると言う事は近くにいるのだろう。
役目がある甘寧を連れ回すほど黄蓋は強引でも傲慢でも無かったらしく、黄蓋と呂蒙と程普は天幕に入る。
周瑜達ほど密談している訳ではないが、逆に周瑜達が露骨に密談している事もあって注目はあちらに集まっている為、実は程普と呂蒙は時々現状把握も兼ねて密談している事はあった。
今回はそれに黄蓋が加わった形である。
「何にしてもだ! 子敬のあの態度は何だと言いたい! 徳謀、あんな若造に良い様にさせておくのか?」
「確かに、あの言動はちとおかしい。子明はどう思った?」
程普に尋ねられ、呂蒙は少し考え込む。
「徳謀、子明は確かに賢くはなったが、さすがにお前と比べられはせんだろう」
黄蓋がそう言うのは呂蒙を過小評価しての事ではなく、黄蓋にとって呂蒙は武将として鍛えていた頃の印象が強い為に、まだ参謀としては新米に思えているのだ。
しかし程普は参謀としての呂蒙の実力を認めている事もあって、尋ねていた。
「確かに魯粛は横暴で傲慢、傲岸不遜が服を着て歩いている様な不届き者で、今更不敬な言葉の一つや二つを気にする様な事も無いかも知れませんが……」
「おお、子明は良く分かっているな」
失礼極まりない呂蒙の魯粛評だったが、黄蓋は納得して大きく頷いている。
「とは言え、あんな俺様最強を地で行く魯粛ですが、案外法に関しては厳格で、自分の好みや都合だけで軍規や軍法を好き勝手に書き換える様な事は好みません。どちらかといえば、厳しく法を守らせようとするくらいです。そう考えると、先ほど黄蓋将軍に言った暴言も妙なところがあるんです」
「あるどころか、暴言全てが正気の沙汰とは思えんほど妙だが?」
「まぁ、言ってしまえば魯粛の言動のほとんどが妙なんですが、例えばあの場面で出てくる言葉は大都督と相談して罰するとか、自身が大都督代理であると主張するなら黄蓋将軍に対して打擲の罰か、悪くすれば斬首を宣告するはずで、曹操に寝返る様に薦めるのは有り得ないんです」
「うむ、確かに有り得ない発言ではあった」
程普も冷静に頷く。
「あれは黄蓋将軍に寝返りを薦めたと言う訳ではなく、何らかの策で動いてもらう布石だったのではないかと俺は感じましたけど」
「あの若造にそれほどの深謀があるか?」
黄蓋は懐疑的な態度のままである。
「俺は参謀としての魯粛を尊敬してますから」
呂蒙は自信満々に言うが、先ほどの人物評を聞く限りでは本気で尊敬しているとは思えないかもしれない。
実は本気で尊敬しているからこそ、そんな人物評が出来るほどに魯粛の事を理解していると言う事は、余程の知者であり呂蒙を知る者で無ければ分からないだろう。
「寝返りを薦めるのが策だと? どんな策だと言うのだ?」
「そこまでは……」
「いや、子明の言、恐らく核心を捉えている」
程普は頷きながら言う。
「大都督が倒れたのは天幕を出てからと聞いた。曹操軍の大軍に勝利するには何が必要だと思う?」
「無論、必勝の信念と兵の精強さよ!」
「そう言う武将的な話は置くとして、戦術の話をしている」
黄蓋が拳を振り上げて語るのを、程普は一蹴する。
「曹操はいかにして袁紹を破った?」
「……火、ですか? ですが、風向きが……、そうか! そう言う事か!」
呂蒙が手を打って言う。
「何だ? 何を分かったんだ?」
黄蓋は不思議そうに尋ねる。
「魯粛の真意です。いくら非常識が過ぎるとは言え、あの暴言は有り得ません」
「子明も中々に暴言が止まらなくなってきているぞ」
「本当のところでは、お前も魯粛にムカついてるだろ? ずっと呼び捨てだし」
熱の入れ様がちょっと違うところを向いている呂蒙に、程普と黄蓋が言う。
元はといえば、魯粛から馬鹿にされない為と言う動機で孫権から学問を薦められた事からも、魯粛を尊敬している事は事実ではあるが心のどこかではムカツキが残っているのかもしれない。
「ま、まぁ、俺の事はさておき、これを見てください」
呂蒙は卓の上に地図を広げる。
程普の天幕とは言え、軍略の話をする際に地図は必要不可欠であり、基本的に出した地図をしまうのは下位の呂蒙の仕事になるので、どこにしまってあるのかは分かっていた。
「正攻法でどうにかなるような物量では無い事もあって、大都督達は火を使って曹操の船団を焼き払う事を考えていたはず。ですが、今火攻めを行っても風向きから焼かれるのは風下の我ら。ではいかにして曹操の船団を焼き払うかと言うと……」
「最奥にて火を放つと言うわけか!」
さすがに軍略の話となれば、黄蓋も理解が早い。
「ふん、若造め。戦を弁えておるではないか!」
黄蓋は獰猛な笑みを見せる。
「しかし、それは公瑾らしからぬ手だな」
「徹底的に実利のみを見た、恐らく魯粛独断の策でしょう。だからこそ大都督の天幕の前で聞こえる様に言ったと考えるのが妥当では?」
程普の言葉に呂蒙は率直な感想を伝えると、その言葉を待っていたとばかりに程普は大きく頷く。
「公覆よ、これが仲謀を支える世代の才覚だ」
「うむ、仲謀の元には良く人が集まり、仲謀は良く人を育て用いておる。大王文台、先主伯符も頼もしく思っておる事だろう」
これまで感情的だった黄蓋さえも、満足そうに頷く。
「そこでこの役割と言うのも、若造め。中々に味なマネをしてくれる」
この役割は仮に全てを理想的にこなしたとしても、生きて帰る事は不可能だろう。
なにしろ敵地の最奥で火を放った後、帰るべきところは炎の先なのだ。
さらにその場は敵の退路に当たる為、逃げようとする敵が大挙して押し寄せてくる事になる。
「だからこそ、この黄蓋の役割であろう。先のある者に任せられる事では無い。しかし、最期を飾る武勲としてこれほどの大任は無い」
「ですが黄蓋将軍、これはあくまでも仮説。大都督や魯粛の真意である確証はありません。少なくとも先走った行動は控えて下さい」
「うむ、それは承知。だが、その仮説が真意であると掴むにはどうすればいい? まさか直接伝えてくると言う事は無いだろう。まして失敗は許されない状況だ。大都督や参謀達がどういう合図を送ってくれば確信を得られる?」
相変わらず感情的ではあるが、黄蓋の目は冷徹な光を発している。
「……子明、どう思う?」
「この戦、この風向き、曹操の大軍などを鑑みるに、曹操軍の総攻撃は近いと思われます。おそらく大都督らもそれは感じ取っているはず。もし大都督が長期戦に構え冬を待てば曹操が撤退すると言った場合には、魯粛の策を用いると言う事でしょう」
「ほう、それは何故だ?」
程普と黄蓋が呂蒙に尋ねる。
「黄蓋将軍に反論させる為です。武勲実績十分で武勇と戦勘に優れた黄蓋将軍であれば、それがいかに悪手であるかが分かるはず。しかも今の戦術に不満を持っているのですから、当然大都督に反論する事でしょう。それによって将軍に罰を与え、いかにも軍が分断されていると見せる。蔡和と蔡仲は喜んで曹操に報告するでしょうし、先の魯粛の言もあって黄蓋将軍が曹操に寝返ってもおかしくない状況を作る。おそらくこの流れになるかと」
「苦肉の策、か。面白い!」
「だが、良いのか公覆。この策は確かに神算鬼謀とも言うべき恐るべき策ではあるが、相手の曹操もまた規格外の化物だ。もし疑われた場合にはその場で切られてもおかしくない。また成功したとしても、生きて帰る事は叶わぬのだぞ?」
「ふっはっは! 何を戯けた事を! この黄蓋、その事を恐れるほどに若くないわい。むしろやり遂げて先に逝った文台、伯符に自慢してくれようぞ! この黄蓋、曹操軍百万を焼き払ってやったとな!」
水軍はその半分以下なのだが、と呂蒙は思ったのだが意気揚々として表情を輝かせている黄蓋には言い出せなかった。
魯粛と呂蒙の師弟関係
演義ではどちらも超脇役で、この二人が並んでいるところすらほとんどありませんが、呂蒙は魯粛の事を尊敬していたのは間違いありません。
なので、本編みたいに暴言吐きまくりであったと言う事もありません。
振り回される中間管理職でお馴染みの魯粛も将帥としては超一流で、文官の面々からはかなり嫌われていたみたいですが軍規に厳しく、川賊が主力を担う孫権軍が軍隊として機能していたのは魯粛の指揮能力の高さによるところも大きかったみたいです。
なので、呂蒙や黄蓋が魯粛に対して暴言を吐いたと言うのは本作の創作設定です。
正史ではすこぶる態度が悪い魯粛が暴言を吐いた可能性は否定出来ません。