第二十三話 『火』と『鎖』
「しかし、いかに水軍に慣れていなくても于禁は名将と呼ぶに足る武将。それが大軍を指揮するとなると、決して油断は出来ません。孔明殿には何か妙案はありますか?」
周瑜が諸葛亮に尋ねる。
ここ数日は投降してきた蔡和と蔡仲に聴かせる為に、周瑜と諸葛亮は天幕の外まで聞こえる様な声で互いを罵り合いながら筆談すると言う器用極まる事を行ってきたが、あまりの白熱ぶりに副将の呂蒙や副都督の程普が時折天幕の中に入って止めようとする事もあった。
その際にも周瑜は、
「誰の許しを得て天幕へ入ったのだ! 速やかに出ろ!」
と一喝して叩き出している。
呂蒙ならまだしも、程普までその様な扱いであった為に、程普本人ではなく黄蓋が激怒して乗り込んでこようとしたらしいが、それは呂蒙や程普だけでなく太史慈や凌統までも加わってなんとか止める事が出来たらしい。
周瑜が徹底的に秘密にしている事もあって、黄蓋を筆頭に武将達の作戦に対する不満が溜まってきているのは分かっているので、ひとまず魯粛が打開策を検討しているとだけ伝えている。
言うまでもなくそんな説明で武将達が納得するはずもないのだが、策の気配を読み取っている程普と呂蒙がそう言う事ならと武将達を抑えている為、今のところはまだ時間を稼げていた。
が、それでもこれと言った打開策は出てこない様に魯粛の眼には見えている。
「それについては……」
答えかけた諸葛亮だったが、周瑜の方を見ると言葉を切ってニヤリと笑う。
「さては大都督も何かしら妙案を持っていますね? 私で答え合わせをしようとしているのでしょう?」
「……バレましたか」
周瑜は苦笑いして素直に答える。
「ではどうでしょう、お互いの掌にその策を書いて見せ合うと言うのは?」
「面白そうですね」
「掌に策を? それで伝わるのか?」
何をやろうとしているのかイマイチ掴めていない魯粛は、不思議そうに二人を見る。
「それは見てのお楽しみと言う事で」
諸葛亮と周瑜は互いに筆を取って背を向ける。
「それでは」
驚く程短い時間で、周瑜が声をかけると二人は向かい合って掌を出す。
『火』
二人の掌には、ただ一字そう書かれていた。
「やはり、考えは同じでしたか」
周瑜は笑いながら頷く。
「お主ら、気持ち悪いくらいに仲良しか」
楽しげに微笑んでいる二人の天才を見て、魯粛はむしろ薄ら寒さを感じていた。
「あとはソレをどうやって有効に活用するかですが……」
「大都督、よろしいですか?」
天幕の外から呂蒙が声をかけてくる。
先日の事があってから、呂蒙は一声かけてから許可を得る様にしている。
「何事だ」
周瑜は表情を改めて、声を少し固めに作って答える。
ほとほと器用なヤツじゃのう。
「それが、蒋幹殿が訪ねてまいられたのですが、いかがいたしましょう?」
「子翼が?」
周瑜が諸葛亮と魯粛に目配せする。
以前言っていた、間者である蔡和と蔡仲を信用させる為の、敢えてバレる間者を送り込んでくると言う曹操軍の策。
「分かった、会おうじゃないか。太史慈に子翼を見張らせよ。余計な動きをさせず、逃げ出さぬ様にな」
「御意」
呂蒙に命じた後、周瑜は天幕の中の二人を見る。
「いよいよ来るべきところまで来た感じですね。向こうがこちらに伝書鳩を飛ばしてきました」
「この伝書鳩には上手に返信を返したいところですが……」
「それなら良い手があるぞ」
魯粛が二人の間に割って入る。
「ワシのところに、ロクな仕事もせずに無駄酒を飲み倒しておる酔っ払いがおる。そやつに一仕事させるとしよう」
「だとすると、間者と戯れている場合では無さそうですね」
周瑜がそう言うと、諸葛亮も頷く。
「大都督の役者としての腕が試されますね」
「……そう言うのは好みでは無いのですが」
周瑜はそう言うと表情を曇らせる。
「何じゃ? 役者も似合っておるぞ?」
「いえ、そう言う訳ではなく。子翼は善良で誠実な人物です。そんな人物を破滅させる事になると思うと、心苦しくて」
「よく顔が出せたものだな」
会うなり周瑜は嫌悪感を隠そうともせず、蒋幹に向かって吐き捨てる様に言う。
「何をいきなり」
「黙れ! 一歩足りとも譲れぬところを百歩譲って、曹操に仕えるのは良しとしよう。だが、私の信頼を裏切り、重要書類を盗み出すなど言語道断! 太史慈! この者を切れ!」
周瑜の言葉に、さすがに太史慈も耳を疑った。
「お待ち下さい、大都督。確かにこの者は罪人である事に違いはありませんが、使者を切るのは戦における信義に反します」
「だからなんだ! こやつは間者! 見つかれば切られても仕方あるまい!」
「大都督、使者として来た者を切る事はいけません。落ち着いて下さい」
太史慈はどこまでも冷静に周瑜に言うが、周瑜は鋭く太史慈を睨む。
「ほう、この大都督が冷静ではない、と」
「そう見られているのですよ」
周瑜の後ろから、諸葛亮が羽扇で口元を隠して冷たく言い放つ。
「大都督、この様な小物によって御身を貶める必要はありません」
露骨に感情剥き出しのところに諸葛亮から皮肉られ、周瑜がキレそうになっていると見た蔡和が周瑜の前に立って言う。
「この者は蔡瑁殿の仇でもあるのだぞ? そやつを見逃すと?」
「大恩ある大都督を貶めたくないのです」
蔡仲が慌てて間に入る。
蔡和と蔡仲は曹操軍の密偵であり、孫権軍に潜り込んで情報を流す役割にある。
蒋幹も同じ陣営と言う事で咄嗟に庇ってしまった蔡和だったが、それで周瑜の疑惑を呼び起こしてしまったのを蔡仲が取り繕う。
「……ならば良い。打擲十回! 刑を執行した後、陣から叩き出せ! 顔も見たくない!」
周瑜はそう吐き捨てると、魯粛を連れて立ち去っていく。
丞相の千里眼、まさに神の如しだ。
棒打ちの刑と言う理不尽な暴力を受けながら、それでも蒋幹は痛みも忘れて曹操の慧眼に敬服していた。
さすがにもう一度周瑜の元を訪ねろと言われた時には、蒋幹も意味が分からなかった。
いかに旧友とは言え、蒋幹は蔡瑁らの密書を周瑜の元から奪い取っている。
それでさらに訪ねてくる者を歓迎するはずもない。
「そうでしょうね。恐らく打擲、場合によっては死罪も有り得るでしょう」
さらりと曹操が言うので、蒋幹も耳を疑った。
「私に死ね、と?」
「挽回の機会を与えると言っているのです」
曹操はやはりさらりと言ってのける。
「貴方は利用されたのです。そのままで良いと思っているのであれば、無理強いはしません。ですが、貴方が行く事によって、先に行った蔡和と蔡仲が動きやすくなるのです。貴方自身の功績にはなりませんが、それでも貴方の働きは活きるのですよ」
遥か離れた赤壁の対岸の陣で、曹操はまるで今、この場を見てきたかの様に前もって蒋幹に指示していたのだ。
そして、その後の事も曹操から助言を受けている。
「蒋幹殿も大胆なお方だ。殺されてもやむ無しと言うところに訪ねてこられるとは」
太史慈がボロボロになった蒋幹を介抱しながら、感心した様に声をかけてきた。
「公瑾があれほどまでに感情に流されるとは。想像を絶する重圧は、あの周公瑾さえも耐えられないほどなのでしょう。太史慈将軍、命運、ここに極まれり。どうですか、このまま私と共に北へ向かいませんか? 将軍の武名は轟き、また私も口利きさせていただきます。沈みゆく船に長居は禁物でしょう」
「……魅力的な申し出ですな」
太史慈はそう呟いたものの、苦笑して首を振る。
「この太史慈、すでに反骨の相有りと知れ渡っております。ここで敗色濃厚と分かっていても、勝ち方に流れたとあってはやはり信用できない者と周りからは言われる事でしょう。我ながら不器用と思わなくもないですが、せめて子供達には肩身の狭い思いはさせたくありません」
人並み外れた凶相と言う事もあって評判を落としている太史慈ではあるが、彼が智勇兼備の名将である事は実績が物語っている。
だが、彼自身が言っている様にここで蒋幹の誘いに乗った場合、曹操は重用するだろうがその周りは恐らく太史慈を軽んじる事だろう。
曹操からは蒋幹に同情する武将は必ず現れるので、その者にはこちらに誘ってみる事を言われていた。
手応えはあったものの、孫権軍に多数いる川賊の誰かであればこちらに引き入れる事は出来ただろうが、太史慈はその評価と違って義理堅かった為に空振りに終わった。
それでも太史慈は丁重に蒋幹を港まで送ると、陣へ戻っていく。
「おおう、そこにおられるのは蒋幹殿ではないか、がっはっは!」
唐突に肩を抱かれて酒臭い息を間近で吐かれ、耳元で大声を出されて蒋幹は驚き不快感を隠さずにその人物の方を見る。
そこにいたのは小太りの髭面、清潔感の欠片も無いみすぼらしい酔っ払いの醜男だった。
誰だ? こんなヤツ知らんぞ?
「おうおうおう、まさかこの吾輩が誰かも分からんと言う事はあるまいて?」
「どなたでしたかな?」
蒋幹は臆する事無く、不快な醜男に言う。
「なんとなんと、荊州、江東にこの『鳳雛』を知らん者がおったとは! しかもそれがあの蒋幹殿だとは嘆かわしい限り!」
酒臭い男は、大袈裟に嘆く。
不愉極まりない男ではあったが、聞き逃せない一言が混ざっていた。
「……鳳雛? 鳳雛と言えば、龐統、士元か?」
「なんじゃ、公瑾の事は懐かしく訪ねてくると言うのに、この龐統の事は顔も見忘れておったとは。嘆かわしい、嘆かわしいなぁ、おい」
龐統は言葉の割に楽しげに笑いながら、酒臭い息を吐きつけてくる。
しかし、幼い頃に数回会った事のある程度の繋がりであり、しかもその頃にはいかにも秀才の風があったにも関わらず、今では醜い酔っ払いとなっていては蒋幹で無くてもそれが龐統であるとはわからなくても仕方のない事である。
「その龐統が、こんなところで飲んだくれているなど、誰が想像出来ようか。そなたであればどこかに士官してその名を響かせていると思っていたのですが」
「がっはっは! この鳳雛に見合う主がどこにいる? 我が身を安売りするくらいなら、主など持たぬ方がマシじゃいな」
龐統は大笑いしながら言う。
「では、そなたの主に相応しい人物がいる。曹操丞相こそ、鳳雛の宿り木に相応しい大樹。この蒋幹が口利きいたそう」
「断る!」
龐統は即答する。
「蒋幹殿を疑っている訳ではないぞ? だが、いかにそなたの口利きと言ってもそれで荀彧はもちろん、程昱や賈詡に並べると言う訳ではあるまいて。それではダメだ。この鳳雛、天下無二、無双の智謀の士。二番手どころか十指にも入らぬ身分など求めておらんわいな」
「それはまた剛毅豪勢な事で」
いかにも龐統らしいと言えなくもないが、それは高望みが過ぎると言うものだ。
「お? その顔は高望みが過ぎるって顔だなぁ、おい。ところがどっこい、この龐統を押し上げる機会がある。お前さん、許攸の事は知っておるよな?」
「その名を知らぬ者など、軍内には一人足りともいませんよ」
「小物に倣う様で癪に障るが、ちょいと真似てみようと思ってのう」
「それはつまり、この戦を勝利に導くと?」
「蒋幹殿が吾輩の策を曹操に伝えてくれてば良い。戦に勝った後に、蒋幹殿が吾輩を推挙してくれれば互いの利となるから、お得じゃろ?」
「その小物の末路も知らぬ訳では無いでしょうに」
「がっはっは! あの末路は実力に見合わぬ功績を挙げてしまったが故の悲劇よな。この龐統にとって、官渡程度の勝利といえど所詮一戦場、一局地での一勝でしかない功績よ。手始めにこの策で勝利を届けようか」
「して、その策とは?」
「曹操が大軍を有しながら南下出来ずにおるのは、水軍がどうこうではなく、単純に兵が船酔いで戦働きが出来ない状態じゃろ? じゃったら、船を鎖で繋いで大きくしてしまうのじゃよ。これ自体はちょっとの工夫と少しばかりの訓練で事足りる。これで船酔いは解決。曹操軍ご自慢の精強な兵を送り込めると言うわけじゃな」
「何を馬鹿な。そんなモノ、火攻めにされてはひとたまりもない。私にすら分かる愚策だ」
「試しに曹操に提案してみると良い。周りの者達は皆が蒋幹殿と同じ反応をするが、曹操だけはその良策は誰の考案だと尋ねてくるはずだがの。そこで吾輩を売り込んでくれれば、蒋幹殿も栄達出来ると言うモノ。悪い話ではないと思うがの」
龐統の話はまったく理解も納得も出来なかったが、それでも『鳳雛』の異名を持つ天下の鬼才はあの周瑜や諸葛亮と比べても遜色無い智謀の持ち主との評判である。
「さて、栄達の前祝いとして、ここの酒代は出してもらえんかのう? お前さんには絶対に損はさせないんじゃから、これくらいは良いじゃろ?」
自分でも騙されているとは思うのだが、それでも蒋幹は龐統の酒代を払い、半信半疑のまま龐統の策を持ち帰ったのである。
最近では
赤壁の戦いに龐統が出てこない事は珍しくなくなりました。
まぁ、ちょっと都合の良い登場の仕方ではありますから。
ただ、この時に提案した『連環の計』は演義での創作で、あくまでも勝利の為の演出に過ぎませんが、よくよく考えて見ると結構龐統のえぐい一面が見られる計略でもあります。
その部分は後ほどまた出てきますので、その時に。
当然ながら、このタイミングで許攸の名前が出てくる作品はありませんし、そもそも蒋幹と龐統が顔見知りかどうかも分からないので、ここだけの創作設定です。
ちなみに許攸は色々問題があって小物臭が凄まじい逸材ですが、決して小物と侮っていい人ではありません。
いや、龐統やら孔明先生やらと比べると小物ではあるのですが。




