第二十二話 騙し合い
蔡瑁と張允が処刑された事は、ほどなくして孫権軍にも伝わってきた。
「どうしたのじゃ? 望んだ結果じゃろう?」
本来であれば吉報であるはずだったが、何故か周瑜の表情が冴えない事が気になって魯粛は尋ねた。
「見事に離間の計が功を奏して、大きな危険が一つ去ったじゃろうに」
魯粛の言葉に、周瑜は曖昧に頷く。
周瑜にしても諸葛亮や魯粛にしても、本来であれば蔡瑁や張允など恐れる必要も無い小人なのだが、今の状況では極めて可能性は低いにしても、実は蔡瑁達であれば孫権軍に必勝の戦術があった。
もし蔡瑁達が自身の危険を顧みず、しかも荊州水軍を残滅させてもいいと全軍を投入して被害度外視で単純に船をひたすら前進させると言う、戦術以前の戦法を取られると実は手の打ち様が無いのである。
が、普通は思いつかないし、思いついても実行出来ない。
曹操の代理として全軍を統括している曹仁は、猛将と智将の特性を持つ稀有な名将である事は誰しもが認めるところだが、そんな人物であれば戦の際に出来るだけ味方の被害を抑えようと考えるのは当然の前提である。
その前提の真逆の戦術なので曹仁からは出てこない策だが、蔡瑁や張允であれば逆に思い付く可能性がある。
曹仁と比べると凡将に過ぎないが、それだけに大都督と言う地位の責任が取れず、いずれ死罪に追い込まれる事は予想出来た。
その時、どうせ死ぬのであれば何もかもぶち壊してやると言う開き直りから、この誰にとっても迷惑な戦術を思い付くかもしれないのだ。
これは命じられた場合には、何とかして生き延びようと考える為に上手くいかないのだが、自分達で開き直って思いついた場合には完遂出来る恐れがある。
その前に排除する事が出来たのは、孫権軍に取って大きな懸念の一つが解決された事になった。
はずなのだが、その結果を誰よりも求めていたはずの周瑜の表情は、自身の策を成功させたと言う様な表情ではない。
「孔明も呼ぶか?」
魯粛の提案に、周瑜は即答を避けた。
実情はともかく、今の周瑜と諸葛亮は仲違いしている事になっているので、仲良く今後の相談と言うのもどうかと思ったのだろう。
「……そうですね、ちょっと意見を聞きたいところです」
だが、そんな事より今の問題が優先されると判断した周瑜は、魯粛にそう答えた。
「まあ、あやつの事じゃ。喜び勇んで、飛び跳ねてくるじゃろう」
魯粛は少しでも雰囲気を良くしようと軽口を叩いてみたが、これで良くなるはずもない事くらい分かっている。
「大都督、諸葛亮殿が参られていますが」
天幕の外から、副将の呂蒙がそう伝えてくる。
「諸葛亮が?」
「先日の侘びを入れに来たと」
その言葉に、魯粛と周瑜は顔を見合わせる。
諸葛亮がそんな殊勝な者であるなどとは考えられないので、諸葛亮自身も何かしらこちらに伝えたい事があるのだろう。
「ふっ、殊勝な事だな。よかろう、会ってやろうではないか」
周瑜は殊更尊大な態度を取って、呂蒙にそう伝えた。
「大都督、先日は酒が入っていたとは言え大変な失礼をいたしました」
「それを詫びる程度の冷静さは失っていなかったらしい。その言葉を信じて、先日の非礼は不問に処すとしよう。呂蒙、下がっていい」
周瑜は呂蒙を下がらせると、諸葛亮に頭を下げる。
「こちらもそちらに甘えて尊大な態度を取っている事、お許し下さい」
「いえいえ、お気になさらずに。それより、蔡瑁と張允が処刑されたとの事。大都督の策、お見事としか申せません」
「祝辞は有り難くいただきますが、その事を本気で祝っている様な表情ではありませんね」
周瑜の言葉通り、諸葛亮もらしくないほどに表情が険しい。
「この戦、前提から見直す必要が出てきたのではないかと思いまして」
周瑜の方から諸葛亮に切り出す。
「前提から?」
尋ねたのは魯粛だった。
「最初の奇襲によって曹操は長江に沈んだと、向こうは言って来ました。が、その後の行動からそれはこちらを惑わす虚報であろうと警戒してきましたが、あまりにもこちらの策に対する対応が遅く、場当たり的に過ぎ、さらにこちらの予想を超える様な行動も無い。とても曹操を相手にしていると言う手応えが無いのです」
「大都督、危険です。それこそ曹操の術中」
これまで見せてきた人を小馬鹿にした様な態度ではなく、真剣な表情と口調で諸葛亮が言う。
「私は一度だけですが、曹操の本気の戦を実際に体験した事があります。私の策が上手くいって、戦場は膠着すると思ったのですが、翌日に曹操はまったくの無策で対抗してきました。私も意図を掴めず、確かに感じていた手応えが霧散した事をはっきりと覚えています。あの頃の私は、それが曹操の策の前兆である事を読み取る事が出来なかった。その為に、結果として敗れるのを早める事になりました。今の状況は、まさにあの時と同じです。曹操が動き出したのです。その気配を完全に消している事こそ、曹操が動き出した何よりの証」
「じゃがのう、孔明よ。蔡瑁と張允無くして水軍はまともに動かせんじゃろう。後任は于禁との事じゃが、いかな于禁といえども一朝一夕で水軍を自在に操る事は出来んと思うのじゃが?」
「……ええ、私もそこは同感です。ですが、こちらが何か見落としている事を曹操は見抜いているからこそ、こちらの意図した通りに事が運ぶ様にしていると思われるのです」
らしくないほどに真剣に熱意を持って警戒を口にする諸葛亮だが、むしろこちらの方が本来の彼なのだろう。
「于禁将軍とは顔を合わせた事もありますが、当代屈指の名将である事は疑いようもありません。早ければ二年で蔡瑁の水軍に追いつき、五年もあれば蔡瑁や張允などものの数ではない程に強力な水軍となるでしょう。が、どれほどの名将と言えど、この戦の間に蔡瑁の水軍と比べるのは酷と言う程度の水軍しか率いる事は出来ないでしょう」
周瑜の言葉に、魯粛も諸葛亮も頷く。
「ふむ、では次に打ってくる手も、こちらの予想通りかもしれんのう。具体的にはどういう手を打ってくると思う?」
「こちらの反応を探る為に間者を送り込んでくるでしょうね」
魯粛の質問に、周瑜が答える。
「間者? また蒋幹でも送り込んでくるつもりか?」
「さすがにそれは無いでしょう。状況から言えば、蔡瑁や張允の身内、あるいはそれを名乗る者が来るでしょうね」
「……蒋幹殿と言う手も面白いですね」
諸葛亮が呟く。
「さすがに続けて子翼(蒋幹の字)と言うのは露骨に過ぎるでしょう」
「いえ、間者に蒋幹殿を使うのではなく、間者に蒋幹殿を『こいつは間者だ!』と言わせてこちらの信用を得ようとするのは、悪く無い手だと思われますので」
「ふむ、確かにそれはありそうじゃのう」
「……つまり、ここで話した事がそのまま行われる様なら、逆に曹操はこちらの手の内を完全に把握していると言う事ですね」
「そうなれば、あちらの予想を超えるくらいにこちらも仲違いしておかなければなりませんね」
そう言うところは、ちょっと楽しそうな諸葛亮である。
それから数日後、蔡瑁の甥を名乗る蔡和と蔡仲が曹操軍を抜け出して、孫権軍に身を寄せたいと言ってやって来たのだ。
「こうなってくると、どっちがどっちを騙そうとしとるのか分からんのう。ワシも含めてお主と孔明に遊ばれておるのかと思うわい」
「私も踊らせているのか、踊らされているのか分からなくなってます。ところで今日は孔明殿は?」
「見かけとらんが、あやつの事じゃ。勝手にしゃしゃり出てくるから、心配無かろう」
「……ですね」
周瑜と魯粛は天幕を出て、蔡瑁の甥と言う者達に会いに行く。
「蔡瑁の甥と申したか?」
周瑜は甘寧と太史慈に囲まれ、生きた心地のしていない様に見える二人の武将に声をかける。
呂蒙も面白い事をするモノじゃのう。
特に呂蒙には話していないのだが、それでも呂蒙なりにこの二人が間者である事を疑っているのだろう。
私は疑っていますと言うのを言葉ではなく態度で示した訳だが、それこそ特殊な胆力の持ち主でも無い限り太史慈と甘寧に挟まれては生きた心地がしないのは仕方が無い。
「そうです、大都督!」
比べる相手が相手と言うのもあるが、ようやく安心できる人物として周瑜と言う極上の人物が来てくれた事で生気を取り戻したようだ。
「それで、敵方の大都督のお身内が何の要件でこちらの大都督の元へ訪ねる事になったのか、説明してもらえるか?」
「聞いて下さい、大都督! 総大将代理に過ぎない曹仁の横暴を!」
そう切り出して、蔡和と蔡仲は周瑜にすがりつく様に訴えかける。
曹仁はあくまでも曹操の代理であるにも関わらず、今では自身が曹操であるかのう様に振る舞い、大都督として水軍を担う蔡瑁を疎ましく思っていたらしい。
そこに蒋幹も加わって蔡瑁と張允を濡れ衣によって排除し、荊州の武官達を閑職へと追いやって自分の権力を固めようとしていると言う。
当初は彼らも大人しく仕えていたそうだが、蔡瑁と張允を処刑した事もあってその一族が危険を含むと思われた事もあって孫権軍に身を寄せたのだと言う事である。
「それはまた、随分と都合の良い話ではありませんか。まるで、こちらの内情を探って主に伝える為に潜入しに来た間者が、疑われない様に作った話にも聞こえますよ」
諸葛亮がどこからともなく現れて、羽扇を仰ぎながら周瑜に向かってそう言いながら近付いて来る。
「今日は酔っていないのか?」
「先日は大変な失礼をいたしました。しかし、この者達は疑うべきでしょう。本当に蔡瑁の身内なのかすら怪しいところです」
諸葛亮は羽扇で口元を隠しながら、蔡和と蔡仲を見る。
「諸葛亮殿には、その目に映る者全てが間者に見えるらしい」
「大都督が無警戒に過ぎるのです。人の話をすぐに鵜呑みにしてしまう。まるで童の如き純粋さ。我々は戦を行っているのであって、茶飲み話に興じているのではありません。大都督の決断には、ご自身だけではなく我々劉備軍と、何より孫権軍の全将兵の命がかかっているのです」
「そんな事は百も承知。だが、この周瑜。そなたと違って人の心まで失っておらぬ。蔡和、蔡仲と申したな。そちらの命、この大都督である周瑜が預かろう。いずれ力を借りる事になる故、今はとくと休まれよ。甘寧」
「ここに」
「荊州よりの客人、何かと不便があるかもしれぬ。力を貸してやるが良い」
「御意」
言うまでもなく監視なのだが、こう言う言われ方をしては蔡和と蔡仲も断る事が出来なかった。
「大都督は人が好すぎる。そんな事では戦場で多くの命を失いますぞ」
諸葛亮が蔡和と蔡仲を見ながら、周瑜に警告する。
「戦が騙し合いである事は分かっている。だからこそ、信じると決めたら信じる。私は曹操とも、曹操軍の武将とも違うのだ。仁君と評判の劉備殿の軍師であれば、言われずとも分かろうものを」
「大都督、軍師殿もその辺で」
周囲が本気で心配しだしたので、魯粛が二人の間に割って入る。
先日諸葛亮が侘びを入れた事で二人の関係は改善されたと思われていたが、まったく改善されていないと再認識させるほどに二人は皮肉を言い合う。
演技である事が分かっている魯粛でさえ、この二人は本気で嫌いあっているのではないかと思うほどだった。
もっとも、明らかに性格が歪んでいる諸葛亮はともかく、周瑜がここまで人を悪し様に言う事は普通なら考えられないので、それだけ相手を信用して策を動かしている証でもある。
こうして間者である事を分かった上で迎え入れた孫権軍だったが、周瑜、諸葛亮、魯粛らの知恵者が揃っていても、未だに勝利への道筋を見出す事は出来ていなかった。
蔡瑁の甥?
演義のみに登場する架空武将である蔡和と蔡仲ですが、演義では従兄弟として登場します。
が、吉川英治三国志では何故か甥になっており、その後も甥として登場する事が多いです。
もっとも架空武将なので、甥だろうが従兄弟だろうが、この際兄弟でも息子でも問題は無いのですが、この作品でも甥となっています。
ちなみに作中で孔明先生が曹操と戦った事があるとか、周瑜が于禁と面識があるとか言っているのは、拙作『新説 呂布奉先伝 異伝』の中の話であって完全な創作設定です。
ん? と思った方は確認の為にも一度覗いてみて下さい。
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