第二十一話 王の帰還
蒋幹は自分自身の事を、真面目だけが取り柄の面白味に欠ける人物だと思っていた。
同郷と言う事で幼い頃から周瑜との付き合いはあったし、その流れで孫策と知り合ったのも事実である。
が、その二人と比べると、自分が数段見劣りする人物である事は自覚していた。
その繋がりが元で、今回間者働きじみた事を命じられたが、嘘が得意とは言えない彼が適任とはとても思えない。
そんな不安を抱えながら周瑜の元を訪ねたのだが、その結果は蒋幹自身が予想もしなかったほどに大きな情報を持ち帰る事になった。
幼い頃にはあれほど謙虚で人品優れた周瑜だったが、実は元からそうだったのか、大都督と言う地位がそうさせるのか、あるいは死んだ孫策が乗り移ったのかと思えるほど露骨に感情を表に出す様になっていた。
また、同盟している劉備軍との関係も良好とは言い難い様子が伺えた。
特に劉備軍の軍師である諸葛亮が酔っ払って蒋幹を間者だと言った時の周瑜の激怒具合を見れば、とても同盟と言う協力関係にあるとは思えなかった。
周瑜は優秀な男だったはずなのだが大都督と言う地位のせいか、あるいは酒のせいか妙に愚痴っぽくなっていて蒋幹は散々絡まれる事になったが、そこでも周瑜は諸葛亮に対する不満を口にしていた。
孫劉連盟など瓦解寸前である事が分かっただけでも蒋幹としては自身の役割をこなしたと言えたのだが、その後でさらに大き過ぎる成果を上げる事になった。
よほど日頃の鬱憤が溜まっていたのか、周瑜は宴会が終わった後にも蒋幹を呼んで痛飲してはウザ絡みしてきたのだが、その時に副将の呂蒙が周瑜宛に書状を持ってきたのである。
通常であればそれは副都督の程普か、あるいは参謀の魯粛の役割なのだろうが、大都督が痛飲しているところで副都督までも同じ様に酔っ払う訳にはいかないと言って程普は早々に宴の席を離れていた。
参謀の魯粛も酔って喚き立てる諸葛亮を隔離する為に、周瑜の元にいなかった事もあって呂蒙が書状を持ってきたのだが、この呂蒙と言う男はいかにも武将と言う出で立ちでやたら声も大きいので、本人は抑えているつもりだったのかもしれないが、その書状についても蒋幹の耳にまで届いてきた。
曰く、対岸の協力者より報せ有り、と。
普段の周瑜であればすぐにその対処に動くはずだったのだが、自分でも酔いすぎていると言う自覚があったのだろう。
後日対処すると言って呂蒙から書状を受け取り、千鳥足で書状を卓の上に放り投げると、そのまま寝所に倒れ込んで眠ってしまったのである。
周瑜らしからぬ無警戒振りではあるが、これだけ深酔いしていては無理もない。
そう簡単に目を覚ましそうも無い周瑜の様子を見て、蒋幹は先ほどの呂蒙の言葉を思い返していた。
対岸の協力者。
今の状況で言えば、それは間違いなく曹操軍に内通者がいると言う事であり、その情報を持っていながらその正体については調べずに戻りました、と言う訳にはいかないだろうと蒋幹は思い、周瑜の様子を確認しながら卓の上に放り投げられた書状を見る。
幸いな事に蝋などで封印されている訳でもなく、ただ紐で縛ってある通常の書状と同じであった為に、蒋幹でも中を確認する事が出来た。
だが、その内容は蔡瑁と張允による孫権軍への協力の申し込みであった事が、蒋幹を悩ませる事になった。
蔡瑁と張允の無能振りは曹操軍の中でも大きな問題となっていたが、それでも荊州水軍の大都督を任されている人物である。
単純に蔡瑁と張允の二人が孫権軍に寝返ると言うのであればどうぞご自由にと言えるだろうが、この二人が寝返るのはすなわち荊州水軍がまるごと孫権軍に加わると言う事になる。
もしそうなったら水上戦そのものを行う事が出来なくなり、曹操軍は江東への侵攻を断念させられると言うだけでなく、せっかく占領した荊州一帯をまるごと失って北方へ撤退する事に繋がっていく。
つまり今回の南征の結果は大軍を動かしながら荊州を得られず、それどころか主君曹操を失うと言う大損害を被っただけと言う事になるのだ。
それだけは避けなければ、と蒋幹は思ったのだが、そうなると問題はこの書状である。
自分はこの眼で見た、確かに書いてあったと主張するだけで信じてもらえる様な内容では無い。
事の重大さを知らしめる為には、この書状と言う動かぬ証拠を持ち帰る必要があるのだが、どれほど痛飲して深酔いしていたからと言って、これほど重要な書状が無くなっていては周瑜も黙ってはいないだろう。
幼き日の友誼か、主への忠義か。
悩みに悩んだが、真面目が取り柄な蒋幹だからこそ個人の私情ではなく国家への大義を優先した事は、誰にも責められるものではない。
蒋幹は書状を盗み出すと、夜の内に陣営を抜け出して早朝には曹操軍の陣営へ戻ってきた。
「蔡瑁、張允、これはどういう事だ?」
曹仁に呼び出された蔡瑁と張允は、真っ青な顔で曹仁の前に立たされていた。
この時は、曹仁と補佐の于禁だけでなくどこへ姿を消したいたのか分からないが、軍師である程昱や賈詡の姿も有り、龍船と共に沈んだと思われていた許褚や、その他数名の兵士の姿もあった。
「ど、どうと言われましても、まったく身に覚えのない書状にございます」
張允が震える声で、かろうじて曹仁の問いに答える。
「そう答えるしか無いだろうな。だが、これまでの事がこの書状の内容を実証している以上、身に覚えがないだけでは許されないぞ」
「そうは言われましても、私共にはまったく何の事かも分からない書状です。将軍、これはあからさまな敵の離間の計です」
「でしょうね」
蔡瑁の声に応えたのは、曹仁では無かった。
「とは言え、死罪は致し方ないところでしょう」
声の主は、大柄な許褚の陰から現れた小柄な兵装の男だった。
「誰だ、お前は!」
張允が怒鳴りつけるが、その男は特に響いた様子も見せない。
曹操軍は非常に軍律が厳しく、大都督や副都督と総大将代理の話に一兵卒が会話に割って入る事など許されない。まして大都督に死罪と口にするなど、もってのほかである。
張允でなくても、曹仁が怒鳴りつけて、場合によっては切って捨ててもおかしくないところだが、曹仁や程昱らは兵卒を咎める事も止める事もしない。
それはその人物が会話に参加する資格を持っている証でもある。
何の特徴も無い小柄な男で、兵装がよく似合っているが、その特徴の無さこそがその人物の最大の特徴とも言えた。
「主にその口の利き方、少しは考えた方が良いな」
于禁の言葉に、蔡瑁は確信した。
「こちらにも色々と仕込みやその準備があったのですが、どうにも死んでいられない事態みたいですからね」
兵卒に扮した曹操が、蒋幹が持ち帰った書状を見ながら言う。
「しかし、まだ大都督を任せていたんですね。とっくに切り捨てて戦も終わっていると思っていましたよ」
曹操は軽う言うと、蔡瑁と張允の方を見る。
「さて、ここに離間の計を企む書状がある訳ですが、大都督、どうしましょうか?」
「て、敵の策と分かっていながらそれに乗る理屈はありません! どうか、寛大な処置を」
「寛大な処置と言われても、私、一度は殺されてますからね。それだけでも貴方達の死罪は誰も止める事は無いでしょうね。そこからさらに数十万本の矢を敵に提供しているのでしょう? それでもさらに寛容な処置と言われましても、これ以上何をどう譲歩すれば良いでしょうか?」
曹操は蔡瑁から書状の方に視線を移して尋ねる。
「で、ですが、敵の計略と分かっていながらそれに乗るのは、敵を利する行為なのでは?」
「かも知れませんねぇ」
曹操はまったく意に介さずに答える。
「しかし、よく書けた文章ですね。書いてある内容もいかにも大都督が書きそうな内容ですし、何より字がよく似ている。これは離間の計を疑っていない蒋幹の様な者には本物にしか見えず、疑っている者にも疑念を抱かせるには十分な書状です。曹仁将軍、ここまで戦ってみてどうでした?」
「最初の奇襲からここまで、常に私の先を行き、こちらは後手に回され、さらに挽回の手を見出す事も出来ず。認めたくはありませんが、私より一段上の実力者である事は認めざるを得ません」
「曹仁将軍のそう言う謙虚なところは、全武将が見習うべきところですね。能力があり地位を得た後にもその謙虚さを失わないのは、素晴らしい資質です」
曹操はそう言った後、書状を程昱に渡すと蔡瑁と張允の方を見る。
「それで、私としては待っているのですが、もう良いですか?」
曹操が何を待っているのかの見当もついていない蔡瑁達は、何をどう答えるべきかすら分からなかった。
「大都督とはそれほど気楽な立場なのか?」
誰に対しても低姿勢で敬語な曹操だが、それは誰に対しても強く出る事は無いと言う事ではない。
何ら特徴の無い小柄な男でしかない曹操なのだが、いざその牙を見せてきた場合にはその恐怖は筆舌に尽くしがたい迫力があった。
「お前達を死罪にすると言っているのは、失態だけではない。最初の奇襲を受けた時、お前達は何をしていた? 龍船を沈められ、主を失ったと言うのに動こうとしなかった。矢を騙し取られた時にも、奪い返そうとはしなかった。そして今、離間の計と分かっていながらそれを覆す為の行動を示さず、ただ許しを乞う事しかしない。そんな者を大都督に据えたままでは、示しがつかない。責任を取るには、その首以外に何があると言うのだ?」
曹操はそれ以上話はないとばかりに、蔡瑁と張允を刑場へ引き出して斬首に処す様に命じた。
「……ですが、水軍はいかがいたしますか?」
「于禁を水軍大都督に任じます」
曹仁の言葉に、曹操は即答する。
「お言葉ですが、戦働きでいうのなら私も人並みに出来ると自負していますが、水軍となるといかに無能の謗りを受けていたとて、私は蔡瑁、張允の足元にも及びません。大都督と言う重責を担う実力はないと思いますが」
「それも分かっています。何をどう言っても、水軍と言う事だけで言うのであれば、蔡瑁、張允に匹敵するのはおそらく周瑜の他に二人といないでしょうね。私でもあの者達ほど水軍は扱えませんよ」
「それでは……」
「私に考えがあるのです」
曹操は先ほどの迫力はどこへやら、またしても何の特徴の無い小柄な男性になっている。
「この離間には別の意図が隠されてます。蔡瑁、張允を排除する事が目的なのですが、実は排除されなくても良いのですよ。そうすると、大きな失敗を何度繰り返しても何ら咎められる事は無いと言う空気が蔓延し、次に周瑜や諸葛亮が打ってくる手はそれを助長する流言飛語です。これによって戦わない事に慣れている荊州水軍はより怠惰になり、生粋の北方騎馬軍はそれに対してより不満に抱く様になって、軍の連携は破綻するでしょう。我々には大軍であり、長期間この状況を維持するには物資を食いつぶす事になると言う弱点がありますので、そうなると撤退しか選択肢が無くなるのです。この離間の書状は、完全にキメに来た詰みの一手なのですよ」
曹操は軽く言うが、話を聞いている蒋幹は気が気じゃなかった。
「では、撤退ですか?」
恐る恐るだが蒋幹は曹操に尋ねるが、曹操は軽く首を振る。
「恐らくですが、周瑜も諸葛亮もこちらを踊らせているつもりでしょう。極上の笙の音に琴を奏で、鼓を打って、踊る側も気分が良くなるほどです。今は全てそれに合わせて踊ってやるのが良いでしょう。いずれ向こうも気付くかも知れません。自分達が望んだ戦果が、自分達の首を絞めていると言う事に」
曹操の言葉に、曹仁や于禁、蒋幹は首を傾げていたが、すでに後手に回りそれを覆せない状況だと言うのに、曹操には勝利の道筋が見えている様だった。
厳密には王では無いです。
この頃の曹操はまだ王ではありませんが、何となくロードオブ感を出したくてこんなタイトルにしてます。
でも、曹操って王っぽいオーラが凄まじいので、問題無いかなぁとか考えました。
演義でお馴染みの『蔡瑁、張允殺人事件』ですが、大体の場合曹操が周瑜と孔明先生に手玉に取られて蔡瑁達を切り捨てたわけですけど、作中で触れた通り、蔡瑁と張允は離間の書状が無くても死罪に値する失態をやらかしている訳で、書状はその背中を押しただけとも言えます。
周瑜と孔明の仕掛けが天才的なタイミングだった事も要因の一つではありますが、演義での蔡瑁と張允に関しては、正直切られるのは時間の問題だったとは思います。
正史での蔡瑁は切られずに都で安泰だったみたいですが、飼い殺しだった可能性も否定できません。
性格歪んでるし、それもしょうがないでしょうけど。