第十九話 霧の中の敵
孫権劉備連合軍で、周瑜と諸葛亮が人知れず戦の主導権争いをしている事など曹操軍には気にかけている余裕も無く、またその事実を掴む事さえ出来ていなかった。
何しろ龍船と共に主君である曹操も沈んだと言う事なので、混乱の程は孫劉連合の比ではないのである。
蔡瑁にしても、自分の中で統合出来ない相反する思いを抱えていた。
曹操がいなくなったのであれば、この戦を切り上げて荊州北部の守りに専念した方が良いので、元劉表軍に任せて曹操軍には都に戻ってもらいたいと言う思いと、もし孫権軍が大挙して攻勢をかけてきた場合には曹操軍の大軍で防ぐ必要があるので残っていてもらいたいと言う願望がある。
また、このままこの戦を切り上げた場合には蔡瑁と張允は大都督を任せられながら、結果は龍船と主君を沈めただけの戦犯扱いとなり、良くても失脚、悪くすれば斬首となる事も十分に考えられる事でもあり、自身の身の振り方を悩んでいた。
「霧が出るな」
蔡瑁は海岸の防衛線の指揮を取りながら呟く。
「霧?」
張允が尋ねると、蔡瑁は頷く。
「かなり濃い霧になりそうだ。姑息な孫権軍は、必ず霧に紛れて何かしらやってくる。奴らの主力が川賊である事を考えると、直接乗り込んできて略奪する事も有り得るな」
「霧、か。俺には分からないが、蔡瑁殿が言われるのなら間違い無いのでしょう」
張允も蔡瑁との付き合いが長い事もあって、その言葉をすんなり受け入れる。
これこそ、蔡瑁の真骨頂とも言える。
船に乗っている時も風読みだけでも貴重極まりない能力なのだが、天候の変化にも敏感で前兆を捉える事が出来るのは非常に大きな利点となっていた。
個々の能力でいうのなら破格な能力を持つ曹操軍の武将達なので、戦場で比べるのであれば蔡瑁では足元にも及ばないかもしれないが、水軍指揮に限って言うのであれば曹操軍の猛将達十人と比べたところで蔡瑁一人の方が貴重な戦力であると自負していた。
だが、程度の差はあるにしても敵将である周瑜、略奪者である川賊の面々などもその能力は多少なりとも持っている。
余程の天候変化や、気まぐれな季節風などまで正確に予測出来るほどの感度は無いと蔡瑁は見ているが、実際に霧が出てしまえばそれを利用しようと考えるのは当然だろう。
もちろん通常の水軍であれば、濃霧の中で船を出す事など自殺行為にもなりかねないが、熟練の水夫などであれば感覚で現在地を読み取る事も出来る。
また、何かしらの方法で現在地を測る事ができれば、濃霧であっても船を出す事は出来る。
それどころか、大風や大波などで水面が荒れているよりマシとも言えるくらいだ。
「矢を大量に用意しておこう。近付けさえしなければ、例え錦帆賊と言えどただの小舟だ。とは言え、念のため曹仁将軍に一報入れておくか」
蔡瑁はそう言うと、曹操に代わって全軍の指揮を取っている曹仁の元へ行く。
驚く程何の特徴も無い曹操と違って、曹仁には武将の風格があり、一目見て一廉の人物であると分かる。
体格の良さもさる事ながら、無骨な猛将達と違って理知的でどこか冷徹にすら見える表情などからも油断ならない人物である事が分かる。
「霧に紛れての奇襲、か。霧が出ると言うのも疑わしいところではあるが、仮に霧が出て操船に影響は出ないのか?」
曹仁は傍らに控える武将、于禁に尋ねる。
高い戦闘能力を持ちながら何かと器用なところのある于禁は、曹仁の補佐だけでなく水軍でも蔡瑁や張允の補佐役として細かく働いている。
おそらく曹操軍の便利屋と言ったところだろう、と蔡瑁は于禁を見ていた。
「私の如き素人には極めて難しい事でしょうが、仮に船を騎馬に例えた場合、熟練の指揮者であれば不可能ではないと思われます。まして川賊であれば霧を利用する事は十分に考えられるでしょう」
「確かに、龍船を失った時も霧が出ていたな。よかろう、守備は大都督に一任する」
蔡瑁は曹仁からの許可を得て、前線に戻る。
ふん、偉そうにふんぞり返りやがって。船にも乗れないくせに。
曹仁の態度に蔡瑁は苛立ったが、さすがにそれを面と向かって言うだけの胆力は無い。
なんだったら、川賊を上陸させて曹操軍に対応させようか、などとも考えはしたのだが、それはさすがに自身の無能を晒す事になるので止めておく。
やがて蔡瑁の予想通りに、夜明けから霧が出てきて朝にはかなりの濃霧になっていた。
大軍に守られていると言うせいかどこか弛緩していた空気が流れていたのだが、蔡瑁が濃霧を的中させた事によって孫権軍の奇襲の恐れがあると言うのも一気に真実味を帯びた事もあって、守備隊にも緊張感が生まれる。
霧に紛れての奇襲を考えているのであれば、生憎だったな。
蔡瑁は心の中でそう思っていた。
だからこそ、霧の中から敵の船影を見つけた時には逆に喜びそうになった。
「大都督、いかがしますか?」
守備兵に問われて、蔡瑁は一瞬戸惑う。
当然守るのだが、矢を射掛けると言うのは手緩くはないだろうか。
見たところ敵船影は十隻程度の小隊である。
いっその事、こちらも船を出して敵船を沈めてしまった方が良いのではないか。敵はこちらに備えがあると思っていないだろうから、こちらからの奇襲と言う鬼手に対する備えは無いのではないか。
そんな考えが頭を過ぎったのだが、蔡瑁はその考えを振り払う様に頭を振る。
何を考えている! 混戦こそ奴らの狙い。敵の狙いが分かっているのに、むざむざそれに乗ってやる理由は無い。敵が混戦を望んでいるのであれば、それには一切付き合わずに整然と撃退するのが最善の策。
「矢で撃退せよ。川賊頼りの孫権の水軍など、近付けなければ何も出来はしないのだ! 連中など、水に浮かべたカカシも同じ! 恐るるべき何者もない!」
蔡瑁はそう言うと、一斉射撃によって撃退を命じた。
敵水軍は鳴り物を鳴らしながら、それでも矢の雨の中を突き進んでくる。
「見よ! 連中は近づかなければ手立てが無いのだ! わざわざ鳴り物まで鳴らして挑発しているのが、何よりの証拠! そんな輩、長江に沈めてしまえ!」
自分の予測が的中したと言う手応えから蔡瑁は気が大きくなり、指揮の声にもハリが出てきた。
その影響か、守備隊の士気も上がり、ついには孫権軍の水軍に対して一切の接近を許さずに撃退する事に成功した。
「孫権の手の者など、所詮川賊。何も出来ずに逃げ帰りおったわ!」
蔡瑁の言葉に、守備隊も歓声を上げる。
彼らは孫権の水軍が言うほど簡単な敵ではない事は知っていた。
それを何も苦も無く撃退する事が出来たと言う達成感があったのだ。
「何やら、大きな手柄でも上げたのか?」
歓声を聞きつけたのか、曹仁が于禁を伴ってやってくる。
「はっ、今しがた孫権の奇襲部隊と思しき船が接近してまいりましたが、矢によって撃退する事に成功いたしました。連中は近付く事さえ出来ずに退却し、一切の被害を出すこと無く勝利したのです」
蔡瑁は誇らしげに、曹仁に伝える。
「ほう、それは……」
曹仁も褒めようとしたその時、歓声を上げていた守備隊の声や止み、わずかながらだが確実に空気が変わったのに気付いた。
「何事だ?」
曹仁がこちらに報告の為に走ってきた兵に気づいて、尋ねる。
「それが……、実際に見ていただけますか?」
兵士が言いにくそうにしていた事もあり、蔡瑁だけでなく曹仁らも一緒に兵士の案内するがままに進んでいく。
そこには孫権の水軍からはぐれたと思われる一艘の小舟があった。
が、それは軍船などではなく、小舟に藁やむしろを被せて矢を刺さりやすくするための工夫がされたモノであり、水夫なども乗っておらずカカシを並べただけのものだった。
「……詳しい話を聴こうか」
曹仁は蔡瑁にではなく、近くにいた兵士に声をかけた。
兵士も自身の身を守る為に、出来る限り詳細に曹仁に報告する。
……馬鹿な、一体何が起きているんだ?
そんな中、蔡瑁はこの状況を正しく認識する事が出来ていなかった。
自分は確かに孫権軍を撃退したはずだ。鳴り物も鳴っていたのだから、確実に兵はいたのだ。それにこんな小舟ではない船影も確認している。自分は何も間違えてはいないはずなのだが、コレは一体何だと言うのだ?
曹仁はその後も数人の兵士に話を聞いた後、蔡瑁の方を見る。
「大都督、俺はそなたを見くびっていた様だ。霧が出るのを予見し、敵の奇襲を読み、あまつさえ敵がカカシである事まで見通していたとは。その千里眼たるや、当代きっての仙術であろうな。于禁、矢の損失はどれほどだ?」
「調べてみない事には正確な数字は出ませんが、数十万単位かと」
「なるほど、数十万か。大都督、もし貴殿の部下が同様の失態を犯した時、どの様な処罰を行うのか聞かせてもらえぬか?」
曹仁の問いに、蔡瑁は即答出来なかった。
もし順当に考えるのであれば死罪であり、即斬首を行うところである。
が、そう答えようものなら自身が斬首される事になるのは、蔡瑁でなくても分かるだろう。
とは言え、不当に軽い罪を言っても信用を失う事になる。
「こ、これは敵の策略です!」
「ふむ、それはこの後に聞くとして、まずは刑罰の話を済ませようか。大都督、どの様な処罰を下す?」
「……打擲十回です」
「ほう、随分と甘い処罰だな。于禁はどう思う?」
「私は総大将代理の補佐役と言う大任だけでも荷が勝ち過ぎます。その上、軍師の真似事までは出来ません」
「はっはっは、慎重な事だ。順当に罰するのならば、死罪は免れないところだが、荊州では打擲十回らしい。して、何故十回なのだ?」
それ以上は叩かれたくないから、とは答えられない。
「軍への損失で五回、士気を低下させた事で五回です」
「ふむ、どちらか片方だけでも斬首が妥当なところだが、大都督がそう言うのならばそうなのだろう。そこからさらに先の龍船損失分も踏まえて、斬首が妥当と言いたいところだが、先ほど敵の策がどうとか申していたな。もし減刑に値する事であれば打擲で済ます事も考えよう」
曹操軍の規律の厳しさは、荊州軍とは比べ物にならないほどに厳しい。
何かしらもっともらしい事を伝えない限り、斬首は免れない。
「……あの小舟をご覧下さい。あの小舟はあたかも偶然流れ着いたかの様に装っていますが、漕ぎ手もなくここへ流れ着くなど、この波では有り得ぬ事。確かに私めの無能により軍の貴重な備蓄である矢を大量に失った事は事実。それについては弁明の余地はありません。ですが、あからさまな策の結果を見せつけてきたのは、それこそ荊州水軍と曹操軍の亀裂を狙った離間の計です!」
「……ほう、苦し紛れの言い訳かと思ったが、悪く無い」
曹仁はそう言うと腕を組んで考え込む。
……命拾いしたか?
蔡瑁は張允の方を見るが、張允は真っ青になって表情も虚ろでありとてもこちらを気にする余裕は無い。
「一つ、刑罰を抜きに考えて答えて欲しい」
曹仁は険しい表情で蔡瑁に言う。
「霧の中で敵船影を見つけた時、討って出ようとは思わなかったのか?」
「それは……」
「先ほども言った通り、刑罰は抜きに答えて欲しい。よし、大都督の為に約束しよう。今回、この事で斬首はせぬ。この曹仁が保証する。故に正直に答えて欲しい。船を出す事は考えなかったのか?」
「考えました。ですが……」
言葉を続けようとする蔡瑁を、曹仁が制する。
「先の奇襲が頭を過ぎったのだろう? もし同じ状況であれば、俺でも慎重になって矢での撃退を優先したかも知れない。それを読んでいたと言えばそれまでだが、それにしても焦った仕掛けだ」
「焦った仕掛けとは?」
蔡瑁も気になっていた事を、于禁が尋ねてくれた。
「大都督の様に慎重になるのは、おそらく相手も読めただろう。が、もし指揮を取っていたのが夏侯淵や張遼であればどう思う? 大都督ですら討って出ようと考えはしたのだ。自身の勇猛さに自信があれば、少数の奇襲など踏み潰すと考える事も十分に有り得たのだ」
「夏侯淵将軍は弓の名手ですので、それこそ矢で撃退するのでは?」
「いや、短気な夏侯淵が一度奇襲された敵に挑発じみた行動をされた場合、冷静に矢で迎撃するより例え罠でも踏み潰す! と攻勢に出る事の方が考えられるだろう。そうなっては、向こうのカカシでは何も出来ずに引き返すしかない。いかに大都督の行動を読み切っていたとは言え、絶対ではないのだ」
曹仁の言葉に、于禁も蔡瑁も頷く。
結果論でしかないが、蔡瑁は確かに船を出そうとした。
もし、と言っても仕方がない事だが、それでももし船を出していたら曹仁が言う様に、敵はなす術無く兵を退くしか無かっただろう。
「この行動は、何か妙だ。孫権軍内に何か問題があるのかもしれない。確か周瑜と同郷とか言っていた者がいたな」
「蒋幹でございますか?」
「うむ、その者に一働きしてもらう事にしよう。して大都督、さすがに無罪放免と言うわけにはいかん。兵に示しを付ける為にも、大都督と副都督にはそれぞれ十打擲を受けてもらう事にする。文句はあるまいな」
「……御意」
当然叩かれるのは嫌だったが、斬首よりはマシなので蔡瑁も張允もそれを受け入れる事にした。
戦犯は誰?
演義『赤壁の戦い』における見せ場の一つが、この
『孔明先生による、曹操軍の十万本の矢強奪事件』
がありますが、時代や作品によって汚れ役が変わります。
羅貫中先生によるオリジナル版では、曹操が自ら矢の雨を降らせて孔明先生に矢を持って行かれます。
その後、曹操ではなく曹仁がその汚名を押し付けられる事になります。
さらに後、『レッドクリフ』や本作では蔡瑁と張允がバカスカ矢を射ちまくってます。
冷静に考えると、この時の大都督は蔡瑁なので、曹仁が矢を撃ちまくる事はおそらく無いでしょう。
一番考えられるのは、曹操の指示で蔡瑁が射ちまくったと考えるのが自然だと思います。
もっともこの件も羅貫中先生の創作なので、本当の意味での戦犯は存在しないのですが、やっぱり一番汚れ役が似合うのは蔡瑁だと思うので、本作ではこうなりました。