第十八話 矢を十万本
孫権劉備の連合軍は、川一つ挟んで曹操の大軍と対陣する事になった。
と言えば真向かいに見える様な気もするが、雄大な長江は対岸を見る事も出来ないほどの大河である。
「どーもー、お呼ばれして来ちゃいましたー」
その最前線の拠点に、劉備軍が到着する。
この劉備を見るたびに、
「品行方正で、仁義の君」
と言う評価は、一体どこから発生したものなのか、魯粛はいつも気になっていた。
少なくとも、この劉備は仁も義も忠も感じさせる事は無く、ただ自由奔放な生き方を好き勝手に生きているとしか見えない。
この劉備が『仁義の君』とされているのは、言うなれば曹操の思想に一貫して反対している事から担がれている為だろう、と魯粛は考えていた。
劉備はこれまで公孫瓚や陶謙の世話になっていた事もあるが、曹操や呂布、袁紹の元に身を寄せていた時には自らその相手を裏切った行為も行っている。
曹操に関してなら漢への忠義とする事も無理矢理にでも出来るかもしれないが、呂布や袁紹に対しては必ずしもそうとは言えず、自らの欲の為にも見える。
いや、それでもこの評価が広まるのが、この劉備と言う者の恐ろしさじゃな。
「この度はご助力、感謝致します」
周瑜はそう言うと、丁寧に劉備に頭を下げる。
む? ここは傲慢に行くところでは無かったか?
いつも通りに謙虚な周瑜を見て、魯粛はわずかな疑問を抱く。
「劉備軍、全軍の二千。大都督と共に戦う事を約そう」
謙虚に振舞う周瑜と違って、劉備と共にいる関羽は尊大としか言い様のない態度である。
「それにつきまして、さっそく劉備軍の方々にお願いしたい事があります」
「うむ、伺おう」
大都督の周瑜と、小勢の一武将に過ぎない関羽なのだが、その態度は真逆と言ってもいい。
「劉備殿は水上戦での主力武器は何だと思いますか?」
「え? 何だろう、体当たり?」
「弓矢、ですな」
首を傾げる劉備と違って、関羽が答える。
「その通り。劉備軍には水上戦の要となる矢を用意していただきたい」
「あぁ? 俺らに小間使いしろってのか?」
張飛が凄んでくるが、周瑜はそれを恐れる素振りも無く、むしろ爽やかに微笑して頷く。
「劉備軍の全軍は二千と聞いています。平野での戦いであれば、万夫不当の猛将を抱える劉備軍の二千は数万に匹敵する戦力なのでしょうが、水上戦では残念ですがその数ほどの働きは出来るでしょうか? 実戦経験と言う意味では我ら孫権軍は歴戦の劉備軍には及ばないでしょうが、水上であればおそらく我々孫権軍が圧勝する事になるでしょう」
周瑜が微笑を浮かべたまま言うので、張飛がさらに凄もうとするが関羽に止められる。
「つまり、我々は必要無い、と言いたいのですかな?」
「違います」
まだ関羽は冷静さを失っていない様で、会話は成立している。
「野戦と同じ様に考えておられる様ですが、水上戦での矢の消費量は野戦のソレとは違います。補給を怠ればすぐに矢は尽き、それこそ体当たりを狙う間は相手から一方的に矢を射られ続けるのです。それがどれほど絶望的な状況かは説明しなくてもわかっていただけるでしょう?」
関羽は黙って頷く。
尊大極まりない態度の関羽ではあるが、理詰めで攻められれば案外大人しくなるらしい。
もっとも、侠客と言うのは最終的には暴力での解決と言う選択肢を持つのだから、理詰めで常に優位に戦えると言う事は無い。
「して、矢の数はどれほど?」
「そうですね、少なくとも十万本ほど」
周瑜はさらっととんでもない事を言う。
「十万、ですと?」
「時は急を要します。悠長に構えていられる余裕が無い事を考えても、十日以内には用意していただかなくては困ります」
関羽は眉を寄せるが、周瑜は微笑したまま続ける。
「まさか高祖の血筋であり、皇叔である劉備軍の方々が後方支援を疎かにするとは考えたくありませんが、戦場で武勲を上げる以外は戦ではないと?」
周瑜は笑顔のまま関羽に尋ねるが、関羽は険しい表情ではあるが何も言わなかった。
「生憎と軍費にも余裕があるとは言えず買い揃えると言う事も出来ませんが、二千の人手と十日の時間があれば十万本の矢と言うのは、そこまで無茶な要求であるとは思えないのですが」
「大都督、正気ですか?」
これまで無言で流れに任せていた諸葛亮が、周瑜に尋ねる。
劉備達だけなら周瑜であれば簡単に丸め込む事が出来ただろうが、諸葛亮は一筋縄ではいかない事はあの軍議の場で周瑜も知っているだろう。
「何か問題でも?」
「矢を十万本に十日はかけすぎです。三日もあれば十分です」
諸葛亮はとんでもない事を言い出した。
「……冗談や戯言を認められる場ではありませんよ」
さすがに周瑜も諸葛亮に咎める様な口調で言うが、諸葛亮は羽扇で口元を隠しながら頷く。
「無論です。私も冗談は大好きですが、これでも場を弁えているつもりですので」
「えぇ?」
と疑問を呈したのは劉備だった。
「劉備様はちょっと黙っててもらえますか?」
「はーい」
諸葛亮に釘を刺されて、劉備はニコニコと笑いながらも諸葛亮に任せる事にしたらしい。
「この孔明、お約束致します。ですが、今日は劉備様達も到着したばかりですので、明日から三日の内に十万本の矢を届ける事を。もし偽りあらば、軍令に則って斬首にされても構いません」
さすがにその言葉には周瑜や魯粛だけでなく、劉備軍の面々も驚いていた。
さすがは諸葛亮、向こうも主導権を握りに来たか。しかし、ここまで強引な手を打ってくるとは。それに三日で十万本の矢じゃと? 万が一にも買い揃えるにしても、どれだけの金が必要になる事か。それにこの近辺の軍装はすでに孫権軍が買い集めているのじゃから、劉備軍が買えるほどの矢は無い。
「……良いでしょう。魯粛」
「はっ」
「私が許しましょう。必要なモノや協力が必要でしたら、尽力してあげて下さい。ただし、明日より三日の間のみです」
「ありがとうございます」
諸葛亮は素直に頭を下げ、そこで魯粛や周瑜達孫権軍と劉備軍は一時別れそれぞれの陣へ戻る。
「子敬殿、あれはどういう考えだと思いますか?」
周瑜は自身の天幕に戻ると、すぐに魯粛に尋ねる。
「わからん。公瑾の出した条件でも相当厳しかったはずじゃが、それを三日と言うのは正気の沙汰ではないわい」
「私もそう思います。もし三日で集める事が出来るとすれば、それは江夏から送らせる事くらいでしょうが、それは下策であって主導権を握るどころか、江夏を失う失策にもなりかねません。あの孔明殿がそんな小手先の策を頼るとは思えません」
「そうじゃのう」
周瑜の懸念には、魯粛も頷く。
江夏から兵を動かせないのと同様に、守りの要となる武器である矢は十分以上に備えておかねばならない。
それを大量に移送させた事はすぐに曹操陣営にも知られる事になり、備えが無い状態で曹操軍から狙われる事になってはまず守る事など出来なくなる。
「ワシが孔明に付いておこう。アヤツらは油断ならんからのう」
「あやつら?」
「孔明と玄徳じゃ。喧嘩となれば雲長と翼徳は桁外れじゃが、喧嘩になる前であれば孔明と玄徳は雲長と翼徳の十倍は危険じゃからのう」
「……確かに」
周瑜もこれまでに幾度か劉備とは顔を合わせているのだが、周瑜ですら劉備の事を掴み兼ねている。
自由気まま、思いつきで行動し、その言動も軽薄で特に何か企んでいる様子も見られない。
誰の目にもそう映る劉備だが、一見底の浅い人物に見えたとしてもそれは見た目だけの話であり、実際にはその闇の如き器には底が見えないほどの奥行を感じさせる。
おそらくそう言うところにこそ、伏龍さえも宿るに足ると思わせたのだろう。
「ですが、子敬殿は相当に警戒され危険も無いとは言えませんが」
「構わんわい。それはワシ一人の危険で済むが、アヤツらの警戒を怠っては孫権軍全軍を危険に晒すからのう」
「汚れ役を押し付けて、申し訳ありません」
「はっは、気にするでない。それに表ではお主は大都督なのじゃ。それに見合う傲慢な態度も忘れるな」
そう言うと魯粛は劉備の陣に向かう。
「お目付け役ですか?」
さっそく諸葛亮からそう言われ、魯粛は大きく頷く。
「お主が好き勝手ヤリ倒したからじゃろうに。ワシとて好きで来とる訳ではないわ」
魯粛はそう言うと、劉備や関羽達に挨拶に回る。
「孫権軍より、そこの怪しい大男を見張る為にトバされてきた魯粛じゃ。改めて、よろしく頼む」
「ここに来たって事は、一緒に矢を作ってくれるって事で良いのよね?」
劉備はさっそく魯粛に内職に勧めてくる。
「ワシは原材料調達が専門じゃ。もちろん、矢だけではなく士気を高める為に食料でも酒でも調達するぞ」
「酒もか?」
張飛がさっそく食いついてくるが、関羽がそれを止める。
「孫権軍は、よほど劉備軍が邪魔に思えるらしい。来て早々に戦力外とは。とても友好な同盟の態度とは思えんな。その上お目付け役まで送り込んでくるとは」
「うーむ、ちと違うんじゃ」
不機嫌な関羽に、魯粛は苦笑いする。
「戦場から遠ざけて後方支援を命じるのは、戦力外ではないと?」
「序盤に投入する戦力ではない、と言う扱いじゃよ」
魯粛の言葉に、関羽と張飛は聞き入る。
「大都督も言っていたじゃろう? 水上戦ではいかに万夫不当の猛将であっても船一艘分じゃ。しかし、野戦でならばそなたらは万に匹敵する戦力となる。大都督は劉備軍を投入するなら、渡河後を考えとるのじゃよ。それまで万全の状態を維持する為にも、劉備軍には戦場から隠す必要があったのじゃ」
「……方便とは言え、納得の行く答えだ。その言葉に騙されておく事にしよう」
関羽の信頼を得た事で、魯粛は劉備軍の陣営を自由に動ける様になった。
とは言え、さほど大きな陣営ではない。
どこへ行っても関羽と張飛に出くわし、劉備と諸葛亮の天幕の前には趙雲が控えている。
もちろん、魯粛に対する警戒と言う訳でもなく自然に人を配置した結果そうなったと言うだけであるのだが、よく出来た配置である。
が、妙な事は起きた。
諸葛亮にまったく動きが無く、明日には期日が来ると言う差し迫った状態になってもまだ諸葛亮に動きは無く、関羽や張飛は真面目に兵士たちと矢を作る事に専念し、劉備は呑気に何故かまったく関係の無いカカシ作りの内職に励んでいる。
やきもきしているのは魯粛だけでなく、関羽や張飛も同じく苛立っているのは分かった。
「魯粛殿、ウチの軍師のケツでも叩いてもらえないか?」
意外なほど器用に矢を作る関羽が、作業に集中しながらも魯粛に提案する。
「うむ、そうさせてもらおうかのう」
魯粛はそう言うと、諸葛亮の天幕に向かう。
「よう、子龍。孔明はおるか?」
「いないって言って!」
魯粛の質問が聞こえていたのか、天幕からそんな声が聞こえてきた。
「……いません」
天幕からの指示もあって、趙雲は苦笑い気味に答える。
「そうか、無駄足じゃったか。天幕の中で待たせてもらっても良いかのう」
魯粛はそう言うと、趙雲の答えを待たずに天幕の中へ入っていく。
「……誰もおらんか。まぁ、当たり前の話じゃからのう」
魯粛は呆れてそう言うが、天幕の中にある机の下に隠れているつもりの僧形の男が丸見えであった。
「ただいま出かけております。御用の方は笛の音の後に……」
「そうか、誰もおらんか。それは仕方ないのう。子龍、孔明はいつ戻るか分からんか?」
「申し訳ございません。私には皆目見当も付きません」
「そうか、仕方がないのう」
そう言うと魯粛は剣を抜く。
「無駄足を踏まされて腹が立ったので、憂さ晴らしにそこの机を真っ二つにしても構わんかのう。代わりの机は責任もって届けさせよう」
「待って待って! 分かった、分かりましたから! 何なんですか、もう!」
諸葛亮はごそごそと机の下から出てくる。
「何なんですか、ではない。明日が期日じゃぞ? 雲長達は真面目に矢を作っておるが、それでもまだ二万前後。とても十万には届かんが、その首で補うか?」
「いえいえ、待っていたんです。魯粛殿にお願いしたい事がありまして」
「何じゃ。出来る事と出来ん事があるぞ? 期日を伸ばすのは無理じゃ。そもそもお主が言い出した事じゃしのう」
「いえ、そう言う事ではなく、十万本の矢を運ぶ為には大きな船が必要になりますので。それも一艘では足りませんので、出来る事なら十艘近く必要ですね。当然ですが、その船を動かす為にも水夫を用意していただきたいのですが、それはそこまで無理ではありませんよね?」
「……その程度なら今すぐにでも用意出来るが、肝心の矢はどうするつもりじゃ?」
「うっふっふー、ひ・み・ちゅ♡ 知りたかったら、魯粛殿も一緒に来ます? 楽しいですよー」
「……そうじゃの。同行させてもらおうかの」
「そうこなきゃ! では、船と水夫はよろしくお願いしますね。準備もありますから、明日の早朝からよろしくー」
楽しそうな諸葛亮に対し、魯粛はこの時にはまだ諸葛亮の狙いを読み切る事は出来ていなかった。
ある意味、ここが分岐点。
この十万本の矢の件が、演義における周瑜と孔明の関係に大きな溝を掘る事になると言えます。
当然ながら、周瑜の様な常識人が孔明先生のトンデモ理論を考えるはずもなく、二人の賢者はタイプの違いから敵対する事になってしまいます。
が、これは演義の創作で、正史ではそもそもこの件そのものはありません。
またこのモデルは孫権だったり、後の時代の話だったりと言われていますが、真実は羅貫中先生の頭の中にしかありませんので、どれが正しいとか間違っているとか言えません。