第十五話 諸葛亮、無双する
そして、呉の軍議が行われる事となった。
周瑜は当然としても、その後方、末席に近いところに魯粛と諸葛亮が座る。
そこに待ち構えていたのは、主である孫権だけでなく張昭や顧雍といった国内を収める重要な文官達も揃えられていた。
不思議な事に、武官、武将達はほとんど参加していない。
妙じゃな。戦を始めようと言う軍議であるにも関わらず、武官がほとんどおらんじゃと? 川賊上がりだけならともかく、そんな事が有り得るのか?
それに招かれざる客であるはずの諸葛亮について、うるさ型の張昭が何ら口出ししてこない事も気に入らなかった。
さすがに調べておるらしいの。まぁ、そうでなければ国を収めると言う事も楽でなはないからのう。
「そちらにおられるのが、諸葛瑾殿の弟君ですな」
張昭の方から口火を切ってきた。
「はい、劉備様の元で軍師をしております。諸葛亮と申します」
諸葛亮は末席から頭を下げる。
「何でも諸葛亮殿は、自らを管仲、楽毅に例えられておるとか。いやはや、中々に剛毅なお方な様子」
「私の周りの方々がその様に持ち上げておられるのです。ただ、偉人と評されるのは決して悪い気はしないものでして、否定しなかった事は私の驕りであったでしょう」
諸葛亮はらしくないほどにしおらしい態度で、張昭の質問に答えていく。
「ほう、ですが自らを伏した龍であると評し、自らの号を伏龍としておるそうな。それは他者からの評価では無く、自ら名乗っておるのでしょう? それがついに起き、世に出る事を決意されたと言う訳ですな」
「幸運な事に主を得る事が出来ました故に」
諸葛亮の答えに、張昭は我が意を得たりとばかりにニヤリと笑う。
「なるほど、諸葛亮殿にとっては幸運であったでしょうが、果たして主である劉備殿はいかがですかな? 劉備殿は三度に渡って先生を訪ね、苦労して先生を得たと言うのに、あの管仲、楽毅に匹敵する人物を有しながらその地盤さえも失う事となったのはいかなるお考えで?」
なるほど、面前で諸葛亮の信用を落とし、その後の発言力を奪うと言う事か。あくどいが強い手じゃな。
「もし我が君が程度の低い者であれば、返って地盤を失う事はあり得なかった事でしょう。我が君は再三に渡って劉表殿から荊州を譲られていたにも関わらず、嫡男がおられるのであれば継ぐべきは他者である自分では無く嫡男であるべきと道理を説き、仁義を通しました。それは責められるべきでは無く、極めて高潔な証」
「ですが、敗れてその立脚の地すら奪われたのは事実。果たしてかの軍神、楽毅であればこのような窮地においやられておりましょうか」
「天下の皇叔、劉玄徳に高祖の相有り。私などより遥かに世に知られた劉備様の評価です。知っての通り、漢の高祖も戦の天才、覇王項羽を前に連戦連敗を喫しました。では、それは軍師張良や韓信と言った配下の者達が無能であった事が原因であったと思いますか?」
諸葛亮は淀む事無く、張昭の質問に答える。
「諸葛亮殿、曹操軍とはどれほどの兵力なのだ?」
張昭から引き継ぐ形で参加してきたのは、虞翻だった。
「百万の軍勢と、一千に及ぶ武将と聞き及んでおります」
「単純な話、勝負にならんだろう?」
「どれほどの数があっても、それは烏合の衆。鳥の囀りに怯えるそのお姿、まるで女人の様に可憐で愛おしいものですね」
諸葛亮は羽扇で口元を隠すが、誰の目にも嘲笑っているのは明らかである。
「ふっはっは! 惨敗しておきながら、その大口を叩けるのは大したものだな!」
「確かに劉備軍は長坂において、壊滅的な打撃を受けております。が、それでも新野の民十万は我らを見捨てる事無く、曹操の世を嫌って我らと共にありました。戦の結果から見れば、我ら劉備軍が惨敗した事実は変わりませんが、この民の行動さえも敗者であると? 孫権軍には無双の水軍と破格の武将、さらに天然の要害までも有すると言うのに、敵の数だけを聞いた途端に及び腰になるとは。気骨ある民草ですら曹操を恐れていないと言うのに」
諸葛亮は大袈裟にため息をついてみせる。
「先生は古の蘇秦、張儀の如くその弁舌によって戦火を拡大するつもりか?」
虞翻が言葉に詰まったのを見て、歩騭だった。
彼は非常に貧しい家柄で日中は肉体労働、夜には家で育てた瓜を売って生計を立てていたほどである。
とは言え極めて優秀であった事や諸葛瑾との友好もあって、孫権軍の官吏となっていた。
「これはまた妙な事を。蘇秦、張儀は確かに弁舌の士であったものの、お二方とも秦で宰相まで勤めた豪傑。貴方のお言葉を借りるのであれば、韓信は今尚股くぐりであり、張良も流亡の士。先主孫策様も袁術の配下武将の一人と言う事になりますか? まったくこの場でそんな事を言える胆力には恐れ入ります」
諸葛亮の言葉に、歩騭も言葉に詰まる。
「曹操とはいかな人物か、諸葛亮殿は知っておるのか?」
次に口を開いたのは薛綜と言う若い書生である。
「漢を私物化する逆賊。それこそ世に知れた風聞でしょう。ご存知ない?」
「それこそ間違い。曹操はすでに天下の三分の二を有し、それは人心を掌握していると言う事」
「……え? その発言、大丈夫ですか? 後悔しませんか?」
諸葛亮は心配そうに、薛綜に尋ねる。
「何を言っている?」
「それってご自身が主を孫権様ではなく、曹操であると申している事と同じですよ? 良いんですか? なんだったら孫権様も怒っていいところですよ?」
諸葛亮がそう言うと、孫権はニヤニヤと笑いながら薛綜を見る。
将来有望とは言え、さすがにここで言葉を連ねられるほどの胆力は無かったのか、薛綜も言葉に窮する。
「一つ、良いですか?」
遠慮勝ちに陸績が尋ねる。
「曹操は漢建国の重臣である曹参の子孫である事は事実。その上ではその血筋からも曹操が現状漢の重臣となっている事は、特段おかしな事ではないでしょう。ですが劉備殿は皇族の血筋と言うのは自称であり、はっきりしている来歴と言えば、むしろや草鞋を売っていたと言う事くらいでは?」
「それが何か?」
諸葛亮は陸績に向かって首を傾げる。
「現皇帝である献帝陛下が自ら皇叔とお認めになられたのは紛れもない事実。それに血筋でものを言うのであれば、漢の高祖とて駅長に過ぎず、皇叔たる劉備様には及ばないでしょう。それに筵売りのどこに憚るところがあると言うのです? 陸績殿、貴方はあまりにも目先の事しか見えていない。その調子で袁術殿から密柑を盗み取ったのですか?」
諸葛亮の言葉に、陸績は黙り込む。
彼は幼い頃に袁術から密柑をもらった事があるのだが、それを母に食べさせたいと思ってその場では食べずに持ち帰ったと言う事があった。
その事自体は親を思っての孝心の表れとも言えなくはないのだが、盗み取ったと言われればその通りでもある。
「はっはっは。先生にかかっては、我が軍の知恵自慢達も取るに足らぬと見える。だが、ちと白熱が過ぎて少し厠に中座させてもらおうかな。子敬、ちょいと付き合え」
「御意に」
孫権が席を立った後を、魯粛が追う。
「中々に面白い出し物ではあったが、俺としては今の状況で曹操に勝てるとは正直なところ思えないんだが、何かあるのか?」
厠への道中で、孫権が魯粛に尋ねる。
「もちろん。もし何も手立てがないと言うのであれば、公瑾が黙っておりますまい。孔明が好き勝手に暴れているのも、公瑾にも必勝の秘策あればこそ。じゃが、主君のお主がその様な弱気では秘中の秘は明かせんじゃろう」
「俺が弱気だと?」
「さっき自分で言うとったじゃろうが。今のままでは勝てると思えんと」
「まぁ、相手は百万だろ?」
「孔明も言うておったじゃろう。相手は百万とは言え、烏合の衆であると。それにあれだけ好き放題のたまったのじゃ、公瑾ではなく孔明の方から戦略を喋らせれば良いじゃろう」
「……それもそうだ」
孫権は魯粛にそう言われて落ち着きを取り戻すと、軍議の場に戻る。
そこではまたしても何かしら紛糾していた。
「……今度は何事だ?」
孫権が張昭に尋ねる。
「劉備殿との同盟との事でしたが、聞けば劉備軍はその総数では二千程度が全軍と申しまして。これではとても同盟とは申せません」
「ほう、わずか二千と?」
孫権が尋ねると、諸葛亮は頷く。
「先の戦いにおいて、民を救う為に劉備軍のほぼ全てが壊滅してしまいましたので。現在急速に立て直しと図っているところなのですが、今の全軍は二千前後である事は事実です」
「それで対等の同盟だと? 笑わせる!」
先ほどやり込められた事が効いているのか、虞翻はかなり強く反発している。
「おや、戦う前から戦う事を諦めていたにしては、威勢が良い。我々は戦う為の集団です。例えその数が少なくとも、戦わずして降る事など有り得ません」
「その数では戦う事など出来なかろう!」
「……江夏には数万の兵がおられるのでは?」
感情的に責める虞翻と違い、張昭は不思議そうに諸葛亮に尋ねる。
「それは劉琦様の軍勢であり、また現状において江夏の兵を出して江夏をカラにする事は戦略上極めて危険な事です。それは周瑜殿にお尋ねになられて頂ければ分かるはず。ですよね? 周瑜殿?」
諸葛亮は周瑜を巻き込もうとするが、周瑜は否定も肯定もせずに沈黙を守っている。
「そうそう、一つどうしても気になっていてな。諸葛亮殿、貴殿の言葉、中々に刺さるものがあったが何故にそこまで強気でいられるのだ? 曹操軍の恐ろしさは我らより熟知しているはず。強気の根拠を聞かせてもらえるかな?」
孫権が諸葛亮に尋ねる。
「先ほども申した通り、曹操軍など烏合の衆。公称百万などと申したところで、いかに雄大な長江であったとしてもその全てを水上に上げる事など出来はしません。まして曹操軍には水上戦の経験がほとんどなく、そこを頼るべきは降った荊州水軍しかありませんが、この荊州水軍ですら練度はともかく実戦経験に乏しいと来ています。おそらく水軍動員出来る数は四十万にも登るでしょうが、降伏したばかりで士気の低い兵、そのどれほどが戦力となりましょうか。一方の孫権軍は数こそ曹操軍に及ばないものの実戦経験に長け、率いる将帥、一兵に至るまでその意気盛んな事、曹操軍の十倍と言っても過言ではないでしょう。おこがましい限りですが、我ら劉備軍の『名』は曹操軍にとっても、また反曹操としても通りの良さから曹操は無視する事も出来ません。故に、いやでも守りを意識させる事によって動員出来る兵を減らす事もできます。これによってすでに戦力は拮抗していると言う中で、孫権軍には地の利もあり、また曹操は私欲の戦である事から大義がありません。地の利、人の和、天の時、全てを有する孫権軍が、数だけの曹操軍など百戦して百勝も疑わざるところです」
諸葛亮は流々と、淀む事なく孫権の質問に答える。
しかし、二千はいかにも少ないな。
魯粛としてはそこが気になった。
諸葛亮が言う様に、劉備の『名』には利用価値がある事は魯粛も認めるところだが、それだけで対等の同盟とするのはさすがに虫が良すぎる。
「孫権殿、あとは将軍の決断次第では?」
諸葛亮の言葉に、孫権が頷いた時、ずかずかと足音がしてくると数人の武将が乗り込んできた。
「いつまで悠長な話し合いをしているつもりだ! 事態はそれどころではないぞ!」
黄蓋が怒鳴り込んできたのを、先頭を歩いていた程普が止める。
「どうした? 何事だ?」
「ただいま、長江より急報がもたらされました」
程普が冷静に言う。
「曹操が死んだ、と」
これぞ孔明先生の本領発揮
演義における赤壁の戦い開幕前の見せ場の一つで、孔明先生の性格の悪さがいかんなく発揮されている場面です。
ぶっちゃけこの人、本気で同盟する事考えてないよねと思うほどのやり込め方です。
これは孫権がちょっと風変わりだった事と主人公補正があったからこそ成功しているやり方で、似たようなやり方をやった張松は、曹操からボッコボコにされてたたき出されていますので、決して良いやり方ではないでしょう。
当然と言えば当然なのですが、正史には無いシーンです。
特に可哀想なのが歩騭や薛綜、陸績と言った噛ませにされた面々でしょう。
お三方ともこれ以降の出番はほとんど無く、ただ孔明先生にいいようにやられた人と言う扱いです。
陸績なんか、子供の頃の事まで持ち出されてますので、孔明先生がいかに勝つ為に手段を選ばず性格が悪いかが伝わってくると思います。