第十一話 劉備と諸葛亮
孫権が江夏から戻ってきて張紘の報告を受け、魯粛を劉表の使者に送り出す前に劉表死去の報告が飛び込んできた。
「確かなのか?」
孫権は思わずそう口走っていた。
誤報を疑ったのは、孫権が江夏の完全攻略を断念した理由にある。
後継である嫡男が、江夏に着任したばかりなのだ。
おそらく今も江夏にいるはずだし、もし孫権が退却した後に襄陽へ戻ったとしても、死に目に会う事は出来なかっただろう。
それはこの時代ではまず考えられない事である。
劉表は高齢で病がちだったという情報は入ってきている。
孫策の時とは違い、そう遠からずこんな日が来る事は分かっていたのだ。
しかも劉表の後を継いだのは嫡男の劉琦ではなく、弟の劉琮だというのだから異常事態も極まっている。
「……何かしら良からぬ事が動いているみたいですね」
山越との戦いを終えた周瑜も、眉を寄せて呟く。
「この策謀、大掛かりなだけではなくかなり深い手でしょう。こちらも相応の準備をしておかなければなりません」
「うむ、子敬。使者の任を命ずる」
「つきまして一つ、主君に頂きたいモノがあるのじゃが良いかのう」
「言ってみろ。場合によっては認めてやろう」
周囲の文官、特に張昭が苦い顔をしている中で、孫権はニヤニヤしながら魯粛に言う。
「何分こちらの想定を大きく超えた事態になっておる。一々上意を伺っていては機会を逸する事にもなるじゃろう。ワシの独断で行動する許可を認めてくれんかのう」
魯粛の提案にはさすがに孫権もニヤつけなくなった。
孫権は一度周瑜の方を見ると、周瑜は小さく頷く。
「うむ、良いだろう。ただし、全責任もとってもらう事になるのを忘れるな」
「無論、そのつもりじゃ。ではさっそく動く事にする。子布、睨むのは構わんがすでに動き始めたワシには主君と同等の実権がある事を忘れるでないぞ」
魯粛の言葉に、張昭は自ら歯を噛み砕き血管もキレそうなほどに激怒しているが、それでも自身の言葉を飲み込むだけの冷静さは失っていなかった。
また周瑜も後方攪乱の恐れもある事から、水軍の調練も兼ねて一時的に孫権の元を離れる事になった。
魯粛は荊州に向かう前に、諸葛瑾の元を尋ねた。
「なんでもお主には弟がおるとか。相当優秀で、伏龍と号しておるらしいの」
「……弟は二人いるのですが、情報源は龐統ですか」
諸葛瑾は苦笑いしながら言う。
「うむ、あやつは相変わらずの根無し草みたいじゃ。鳳雛とはよく言ったモノじゃのう。気が向いたら何処かへ飛んでいくクセに、金が無くなったら巣に帰ってくるかのようにタカリに来るからのう」
「弟は優秀である事は間違いありません。兄である私など、ものの数にもなりません。ですが……」
「む? 何かあったのか?」
「……ええ、『何か』あったみたいですが、その『何か』が何なのかは私にも分かりません。ただ、変わってしまった」
諸葛瑾は表情を曇らせる。
「ただ、その『何か』は弟を根底から変えてしまうほど大きなモノだったらしく、それ以降は兄である私も理解に苦しむ存在になってしまったのです」
「ほう、お主にそこまで言わせるとは。これはちと心してかからねばのう」
「どういう事です?」
「お主の弟、劉備の軍師らしいぞ?」
「孔明が誰かに仕えたと?」
よほど意外だったのか、諸葛瑾は温厚で冷静な彼らしくもないほどに目を丸くして驚いている。
「何じゃ、知らなかったのか?」
「正直なところ、徐州にいた頃の孔明であればともかく、荊州に来てからと言うもの音信不通となって久しいので」
「仲悪いのか?」
「いえ、決してそんな事はないのですが、荊州では自由気まま過ぎてついて行けない事もありまして。案外子敬殿であれば気が合うかも。あの龐統とも知己でいらっしゃるのでしょう? 龐統も相当なモノではありませんか?」
「うむ、あやつは相当じゃの。しかし、基準をソコにするとなると、お主の弟も一筋縄ではいかんようじゃの。これは気を引き締めねばのう」
魯粛は笑いながら諸葛瑾に言う。
魯粛が荊州に向かっている間に、事態は大きく動いた。
曹操軍の南下が始まり、新野で劉備軍と激突。
劉備は城を焼く事によって曹操軍に大打撃を与える事に成功したものの、それによって曹操の足止めは成功せずに大軍を南下させ、劉備は新野を捨てて襄陽を目指した。
ところが襄陽は劉備の入城を拒否。
劉備は劉琦の守る江夏を目指す事になった。
新野を捨てて劉備に同行する事を望んだ、十万にも及ぶ民と共に。
「……有り得るのか、そんな事が……」
そのあまりにも非常識な行列は、魯粛をもってしても現実とは思えない光景だった。
「魯粛殿、これは一体……」
魯粛の護衛兼お目付け役として共に派遣されている谷利も、自分の目で見ているにも関わらず、とてもその光景が信じられないといったように、魯粛に尋ねていた。
谷利はその生真面目で細やかな性格と物怖じしない豪胆さを魯粛から気に入られ、甘寧の元から主君である孫権の側仕えとして抜擢されていたが、今回はその孫権から
「魯粛が無茶する様なら殴ってでも止めろ」
と、命じられている。
実際にそれが出来るかはともかく、魯粛もそれを認めてはいる。
「……ワシにもわからん。劉備と言う者、ワシが思う以上の化物やもしれんのう」
いつもの軽口を叩く余裕は、今の魯粛には無かった。
魯粛の考える天下三分の計には、それなりの戦闘能力は必須条件に入っている。
劉備軍は関羽、張飛、趙雲と言う破格の武将を揃えているものの、率いる兵は圧倒的に少なすぎる事もあって、実は戦闘能力はそこまで高いとは言えない。
厳密に言えば、活かしきれるほどに兵力が足りてない。
局所的に言えば想像を絶するとさえ言えるものの、大局で見れば話にならない程度の存在である。
はずだった。
少なくとも、この民衆の群れを見るまでは。
この群れは数字では表せない、劉備の脅威そのものである。
考えてみれば、曹操と言う一大勢力が木っ端でしかない劉備に固執するのもおかしな話だった。
曹操は知っているのだ。
劉備と言う、乱世が生み出した異形の者の脅威を。
それに対する曹操軍の攻撃は苛烈を極め、曹操軍に捕捉された劉備軍の部隊は根絶やしにされ、場合によっては降伏の意志を示した民衆すらも切り捨てて追撃していた。
それこそ、曹操が劉備を恐れる証とさえ言える。
「だが、この様子だと劉備は江夏に入っているようじゃの」
「……そうですか?」
「この群衆はおそらく最後尾じゃろう。現に曹操軍の追撃は止まっておる。ワシらも江夏に向かうとしようかの。劉備もそうじゃが、何よりも曹操に対策せねばあの群衆がどうこう言うてはおれんからのう」
「御意」
魯粛と谷利は曹操と劉備と言う二つの脅威を確認した後、江夏に向けて移動を始めた。
江夏城には、あくまでも劉表の弔問の使者である事を伝える。
劉表とは仇敵であり、互いに弔問の使者を送る様な関係ではない事は魯粛も分かっている。
以前孫策を失った時にも、劉表からの使者などは来なかった。
「怪しすぎませんか?」
「良いんじゃよ、こちらに下心がありますと伝えておいた方が話も早くなる」
魯粛はそう言うと、城からの案内が来るのを待つ。
そう、こちら側が策を持っていると見抜いたとしても、魯粛の到来を拒む事は出来ないはずだ。
劉琦にしても、劉備にしても、単独で曹操を食い止める事など出来ない。
必ず孫権の手を借りなければならないのだが、主導権の奪い合いになる事は分かっている。
そして、孫権もまた単独で曹操と渡り合う事は厳しいのだ。
おそらく、劉備も劉琦も気付いている。
その対応に揉めているのだろう。
それほど長く待たされる事も無く、魯粛達は江夏城の中へ案内された。
出来る事なら面倒事など全部すっ飛ばして、さっさと劉備に本題をぶつけたいところではあるが、いかに傲岸不遜な魯粛といえどもそこまで非常識と言う訳ではない。
向こうもこちらの意図は読めているだろうが、仮に茶番であったとしても正しい手順と言うのは必要である。
魯粛は弔問の品を差し出し、劉琦に弔辞を述べる。
普段の儀礼なんぞ知った事か、と言わんばかりの自由気ままな不遜極まる魯粛なのだが、実は富豪として教養は十分にあり、その気になれば下手な名門士族を遥かに上回る正しい礼儀作法を身につけている。
一通りの手順をこなすと、劉琦の方からもてなしの用意が整っている事を告げてきた。
さて、ここからが本題じゃな。
その宴席に参加したのは、城主である劉琦と、主賓である魯粛の他には魯粛の従者である谷利の他、異様に袖の長い服を着た怪しげな女性と、長身の青年が同席した。
面識は無いが、この場に同席すると言う事はおそらく劉備と諸葛瑾の弟である諸葛亮なのだろうが、どちらも確信を得る事が出来ない。
諸葛瑾は弟と言っていたので、長身の青年の方が諸葛亮なのだろうが、小柄な女性の方が劉備かと言えばそれもどうかと思う。
「初めまして、魯粛殿。お噂はかねがね。私、劉備と申します」
女性の方が魯粛に向かって、そう名乗る。
消去法で言えばそうなるのだが、それもまたすぐには信じられない事である。
何しろ劉備と言えば、齢五十に近いはずで黄巾の乱から戦い続けている豪傑であり、あの呂布とも戦った英雄と言う評判だった。
「魯粛と申します。お見知りおきを」
そんな疑問を表に出さず、魯粛はごく普通に返答する。
まったく、世の中とはこれほど思い通りにはいかぬモノか。
「そちらは?」
「諸葛亮と申します」
魯粛に尋ねられ、長身の青年はそう名乗ると頭を下げる。
諸葛亮は、諸葛瑾が言うには特に誰かに士官する様な事も無く晴耕雨読の生活を楽しみ、また誰かに士官するつもりも無いと兄には話していたらしい。
そのせいか、衣服も官服と言う訳ではなく、薄汚れた普段着のままであった。
劉備の方も本来であれば着の身着のままでこの江夏に到達したはずだが、どこで手に入れたのか劉琦と同じように奇妙に袖が長い官服を身にまとっている。
「ここへ来る前に長坂の惨劇を目にしましたが、曹操軍とは悪鬼羅刹の集団なのですか?」
魯粛は適度に会話をした後に、そう切り出す。
「私達はすぐに引き始めたので、曹操軍の事を詳しくは知らないのです」
劉備はにこやかに応える。
「ですが、新野の城では曹操軍を焼き払い、曹操の進撃を止めていらっしゃる。まったく何も知らないと言う事はありますまい」
「それは我が軍師の策によるモノ。ね、孔明?」
にっこり微笑んで、劉備は面倒事を諸葛亮に投げる。
「新野の時には曹操軍に油断と驕りがありましたので、その隙を突いただけの事。いかに曹操の策を看破したところで、残念ながら我々には戦う力が足りていません。呉臣殿を頼ろうかと思っているのですが」
「呉臣如きに何の力がありましょうか。本気で曹操と戦うつもりならば、当然孫権将軍の手を借りるべきでしょう?」
諸葛亮の言葉を、魯粛は強く否定する。
「それも当然考えましたが、孫権将軍とは面識も無く」
「何を言われますか。劉備殿は先の董卓との戦いで、父君孫堅将軍と共に戦った仲であり、諸葛亮殿の兄の諸葛瑾は孫権将軍の元で参謀としてその手腕を発揮しております。後は江東に来られるだけでしょう」
「はいっ! 私、行きたい!」
劉備がまっすぐに挙手する。
「では、この孔明が参りましょう」
「はいっ! 私、行きたい!」
諸葛亮の後ろで劉備が強く主張しているが、諸葛亮は笑って相手にしていない。
何だ? こいつらは……。
妙に楽しげな主従を見ながら、魯粛はそこに孫権軍では有り得ない底知れない深さと広さを持つ器を見た様な気がして、言い知れぬ恐怖を感じていた。
名前のみ先に登場
孔明先生より先に名前が出て来た龐統ですが、本編では触れてませんがこの時には魯粛にタカリに来ているので呉にいます。
タダ飯食うなら働けと言う事で、この物語の中ではこの時に全琮や陸績に色々と教えている事になってます。
ただ、孫権に仕官していると言う訳ではなく魯粛の個人的な客人扱いなので、孫権軍ではありません。
本格的な活躍はもう少し後です。
あと、ついに登場した孔明先生ですが、この時はまだあのパリピな『THE・孔明』スタイルではありません。
レッドクリフの孔明スタイルで、羽扇を持っていないバージョンと考えてください。
羽扇は後日登場します。




