第十話 呉下の阿蒙にあらず
「張紘先生、顧徽、長らくの出張、お疲れ様でした」
魯粛は曹操の元から帰ってきた張紘と顧徽を出迎える。
「細かい事はこの後に報告するとして、本日は歓待を有り難くお受けいたしましょう」
張紘はにこやかに答える。
魯粛にしても、張紘らが戻ってきた理由は分かっている。
曹操が本格的に南下を狙ってきていると言う事だ。
当然と言えば当然の事ながら、戦で多大な戦果を挙げてきた曹操と言えど、外敵全てを力でねじ伏せ血の海に沈める事を求めている訳ではない。
張紘達を帰らせたのは、自らの戦力を誇示する為でもある。
ただの文字や伝聞ではなく、信頼出来る家臣が自らの目で見た事を伝えられるのだから信憑性が違う。
曹操と言う男、桁外れの戦上手だな。
その戦略の一手でも、魯粛は戦慄せずにはいられなかった。
驚く程自然に、敵戦力の分断を図る事が出来る一手。
もしこれが魯粛の口から告げられた場合、張昭などから
「たわけた事を」
と、一蹴されて終わりだったかもしれないが、張紘の言であれば孫権軍の誰一人として疑う事は無い。
そんな知識と人望を併せ持つ人物が、中原のほぼ全てを掌握した軍勢がどれほどの威容を誇るかを報告したら、必ず降伏を唱える者は出て来る。
出てこなければおかしいくらいだ。
張紘自身も報告する事によって相手の策略の片棒を担がされる事には気づいているが、だからと言って報告しない訳にもいかない。
しかし、現状で孫権は江夏攻めの為にこの場にいない事もあって、張紘は自身の歓待の場ではその事は一切口にせず、その後、文官の面々と魯粛と言う留守役の中でも主だった者だけを呼んで、曹操軍の事について話した。
「曹操が具体的にどれほどの兵力を率いて南下してくるかは、正直に申しますと私にも分かりません。ですが、袁紹との決戦で動員した兵力は数万でありましたが、今ではその十倍の兵を動員出来ると言っても過言ではありません」
「じゃが、標的はワシらではないのじゃろう?」
色めき立つ文官達の中で、唯一の武官である魯粛は冷静に尋ねる。
「何故そう思いますか?」
「曹操に限らず、中原の戦はほぼ陸上戦で、主力は騎馬と歩兵じゃろ? もしワシなら南下する場合、まずこの江東ではなく、劉表の荊州を狙う。何しろ江東の川賊にも劣る中原の水軍では、この長江を渡る事も出来ん。戦となれば尚の事。荊州水軍であればそれが出来る。袁家と言う強大な盾を失った劉表であれば、降す事も容易かろう」
魯粛の言葉に、張紘と張昭は頷く。
「ワシらにとっては劉表に容易く降られては困るが、幸いな事に今の劉表の元には曹操とは因縁浅からぬ劉備と言う火種もおる。ちょいと啄いて曹操の足を止めてもらわんといかんのう」
「劉表を盾に使う、と言う事か」
張昭の言葉に、魯粛は笑う。
「必要なら矛としても使ってやろうかのう。荊州劉表軍は戦いもせんのに、規模だけは強大じゃ。まるっと曹操に使われるくらいなら、少しは有効に使ってやるのがよかろうて」
「言葉は悪いが、良い手である事は間違いない、か。では、主君が戻り次第劉表の元へ使者を送る事としよう。では、誰を使者として遣わすかだが」
「ワシが適任じゃろ?」
張昭の言葉に魯粛は事も無げに応えるのだが、張昭からは嫌そうな目を向けられる。
「何じゃ、子布。その顔は」
「誰の目にも、お主が適任とは思えんだろうが」
「いえ、悪く無いと思いますよ」
魯粛に助け舟を出したのは、顧雍だった。
「確かに一般的な使者としての礼節には欠きますし、態度も不遜、教養に対して言葉の選び方は稚拙であると申せましょうが」
「……丁寧に言われる方が罵倒されるより堪えるのう」
「魯粛殿はこれまで使者に任で出向いたところでは、常に結果を出しておられます。ましてあの腰の重いご老体を戦場に引きずり出すと言うのであれば、魯粛殿と言う人選、まさに適任かと思われます」
顧雍は張昭の補佐として国内をまとめるのに一役買っているが、その立場や役職で言えば、実は張昭より高位である。
それを鼻にかける様な人物ではないからこそ、気難しい世紀末覇王感のある張昭とも上手く付き合って行けていると言うところもあるが、そんな人物の意見であればさすがの張昭も完全に無視すると言う訳にはいかない。
「外事外交に関しては儂の一存ではいかんともしがたい。主君や周瑜殿が戻られてから、改めて議論するとしよう」
張昭の言葉で、張紘の報告会は終了となった。
「魯粛殿」
その帰り道、魯粛は顧雍に呼び止められた。
「お、顧雍殿。先ほどはありがとうございます」
魯粛は素直に頭を下げる。
「はっはっは、その様な素直な姿を子布殿にも見せて頂ければ、もう少し良い関係を築けますよ?」
「頭では分かっておるのじゃが、子布を見るとどうしてもからかい甲斐の方が強まってのう」
「まったく分からない話では無いですけど、孫権様もそうやって楽しまれておられますので、少しは子布殿の体の事もいたわってあげて下さい」
顧雍はそう言うと穏やかに笑う。
「呼び止めたのは、その事だけではないのです。魯粛殿は最近呂蒙には会いましたか?」
「む? 言われてみれば李術討伐以来会ってないのう。阿蒙めも少しは学んだかの?」
「是非会ってみて下さい。最近は実に面白く育っておりますよ」
呂蒙は無骨で粗忽な乱暴者ではあるが、妙に勘所が良く、思考は柔軟なところは見て取れた。
とは言え、顧雍の目に止まるほどのモノだったとは思えない。
「ふむ、顧雍殿が言われるのであれば、さっそく会ってみましょうかの」
「これからですか?」
それにはさすがに顧雍も驚く。
「前もって知らせて準備させるより、いきなり行って驚かせてやった方が素の状態が見れると言うもの」
「留守かも知れませんよ?」
「その時は諦めて、前もって行く事を知らせて準備させる事にしましょうぞ。ちと面白味には欠けそうじゃが」
「……やはり使者の任はもう一度考え直した方が良いかも知れませんね」
顧雍は苦笑いするものの、強く魯粛を止める様な事はせずに立ち去っていく。
その足で魯粛は呂蒙の元に向かう。
呂蒙はかつての鄧当の屋敷ではなく、自身で家を持つ身になっていた。
それを手配したのが魯粛だった事もあり、住んでいる場所に関しては何ら迷う事も無かった。
「……何じゃ、こりゃ」
だが、そこへ来て魯粛は目を疑った。
高く積み上げられた書の数々、さらには大机の上にもいくつかの書簡と広げられた地図。
壁にかけられた武具も埃をかぶっていないところを見ると、これも手にしていると言う事だろう。
大方頭が湯だった時にでも振り回しているのだろう。
魯粛にも思い当たる事ところはあった。
「誰だ?」
屋敷の奥からのっそりと現れる人影があった。
「随分と面白い生活をしておるようじゃの」
「……子敬、あ、いや、魯粛殿か?」
呂蒙は目を見開いて驚き、慌てて髪や服装を正そうとする。
「はっはっは! どうした、阿蒙。随分とらしくない驚き方じゃな」
「急に来るからです。そんな自由気ままに動ける立場では無いでしょうに」
呂蒙はそう言うと、大きくため息をつく。
「とは言え、そんな事を気にする様な人じゃなかったか。相変わらずイタズラする為であればどんな努力も厭わない人だ」
「ふむ、思っていたよりワシの事を分かっておる様じゃの。ところで、顧雍殿がお主の事を面白いと申しておったが、何かやらかしたか?」
「……先月の事かな?」
呂蒙は首を傾げながら言う。
孫権から言われて以降、呂蒙は様々な書を学んでいた。
そこで文官の面々ともその時に知り合い、書物や書簡などを借りて学んでいたらしい。
そんな勉強熱心な呂蒙の噂を聞いた顧雍が、先月若手達を集めて勉強会を開き、それが終わった時に宴会になったのだが、そこで酔い潰れた呂蒙がいきなり易経の暗唱を始めたと言う。
周囲は何事かと思っていたところで呂蒙は目を覚ました。
「夢の中で易経を作った伏羲や周公旦らが現れて、物凄く深い話をし始めたんだ。で、俺も何とかして話に加わりたくて、覚えた易経を暗唱したところで目が覚めた。そしたら変人扱いさ。呂蒙は寝てても易経に通じているとか言われて」
「そりゃ凄い。その場にいたかったモノじゃ」
「あんなところも見られたら、何を言われたか分かったもんじゃない」
それによって呂蒙は周りから尊敬の目で見られる様になったのだが、その視線に慣れていない呂蒙にとっては変人扱いを受けていたと感じていたらしい。
だが、そんな笑い話の中にも魯粛は確かに呂蒙の成長を見て取れた。
以前の呂蒙であれば、夢の中に伏羲や周公旦が現れたところで過去の偉人の凄さに気付かず、話の内容にも興味を示さなかったはずだ。
それが話している内容についていけなかったと絶望した夢のはずなのに、何とかしてその話の輪の中に加わろうとするなど、少なくとも魯粛の知る呂蒙ではあり得なかった。
「で? これは何を企んでおるのじゃ? なんぞ面白い事を考えておるようじゃが?」
「今後の軍略として、まずは荊州と言うのは既定路線のはず。そこで荊州南部を支配下に置いた後に益州へ兵を進める軍略を……」
「ほう、公瑾から聞いたのか?」
「え?」
「うん?」
呂蒙の反応に、魯粛も首を傾げる。
「周瑜殿から?」
「うむ、公瑾の天下二分の計の話では無かったのか?」
二人で首を傾げ合っていたが、呂蒙は手を打って驚く。
「え? 周瑜殿はすでにこの軍略を?」
「まぁ、伯符と共にそんな話をしておったが、何じゃ? 何も聞いておらんかったのか?」
と言いながら、自分の言葉の不自然さに魯粛はようやく気付いた。
周瑜が呂蒙にそんな軍略の話をするはずがない。
少し前まで呂蒙は粗暴な武将見習いの一人でしかなく、軍の最高責任者である周瑜が秘中の秘である軍略『天下二分の計』の話をするはずもない。
そもそも周瑜と呂蒙の接点があるかどうかすら不明なのである。
「……独学でここに至ったのか……」
魯粛は言葉を失うほど驚いた。
周瑜や呂蒙の考える天下二分の計にしても、魯粛や甘寧が考えた天下三分の計にしても、実は誰にでも考えつく様な軍略ではない。
大前提として誰しもが常識と考える「天下の中枢は中原にあり」としない事がこの軍略の出発点なのだが、まずそこから考えを逸脱させる事が極めて難しいのである。
通常で天下の軍略を考える場合、いかにして中原に勢力を伸ばすかと考えるのが普通であり、それ以外のところに天下を求めると言うのは相当柔軟な思考と恐ろしく広い視野が必要なのだ。
「コレは、いつから考えておった?」
「実は、三日前に突然降りてきたのを、何とか形にしただけで……」
「……三日、か」
魯粛は驚いて地図を見る。
周瑜の天下二分の計を聞いていたので、そこと比べるとさすがに比べ物にならない雑さと粗さがある。
とは言え、本質は周瑜のそれと大差無い。
「先主の時からと言う事は、俺はまだ周瑜殿との間には十年近い差があるのかぁ。さすがだなぁ」
呂蒙は本当に嬉しそうに言う。
「……いや、この軍略は見事じゃ。ワシが推挙しておこう。阿蒙、お主、今後公瑾の副将を務めるが良い」
「俺が周瑜殿の副将? いやいやいや、無理無理無理! 俺では周瑜殿の足を引っ張るだけだろ?」
「案ずるな。お主がどれほど足を引っ張ったとしても、公瑾はそれを苦にする様な男ではない。それより、今のお主には自身を遥かに凌駕する才能を間近で見る事の方が重要じゃ」
魯粛はそう言うと、呂蒙の肩を掴む。
「自信を持て。お主はもはや呉下の阿蒙にあらず、呂蒙子明なのじゃ。必死に公瑾に食らいついて見せよ」
魯粛はそう言うとニヤリと笑う。
「三日でこの軍略を形にしたのじゃ。次の三日後にも刮目して見んといかんな」
だが、歴史の流れは魯粛の予想を遥かに上回る激流となっていた。
江夏を攻めていた孫権は、見事黄祖を打ち破り、その子である黄射と共にその首を取る事に成功したのだが、江夏の攻略は出来なかった。
劉表の嫡男である劉琦が、江夏太守として着任したのである。
軍才や武勇、実績において劉琦が黄祖を上回ると言う事は有り得ないにしても、長らく荊州を治めてきた劉表の嫡男と言う肩書きは、守る上において兵の士気を高める効果が極めて高く、その点においては黄祖とは比べ物にならないほどに攻略困難にさせられる。
そのため、孫権は江夏南部を落とすに留まった。
守ると言う事のみを考えるなら最上とも言える一手なのだが、そのために嫡男を最前線に送り出すと言うのは普通では考えられない異常とも言うべき一手である。
天下の名参謀とも言うべき周瑜や魯粛をもってしても、この時は完全に後手に回っていた。
どうしても入れたかった呂蒙の逸話
本作では顧雍との宴会でやっちゃってますが、元の逸話では孫権の前でやっちゃってます。
たぶん、呂蒙にとって夢に出て来た偉人達は、孫権、周瑜、魯粛だったのではないでしょうか。
様々な事を学んでいくウチに、呂蒙は『知らない自分』を強く自覚する様になり、主君と天下を論じる二人の天才軍師の会話に混ざれなかった事が悔しかった為に、こんな夢を見たのではないかと妄想させられます。
もちろん、実際のところは不明で、この逸話それ自体が創作だと思われますが、いかにも呂蒙の成長が伝わりやすい逸話だと思ってます。
今回の話もほぼ創作で、呂蒙はおそらく天下二分の計には関わっていないでしょう。
ですが、魯粛ですら舌を巻くほどの成長を見せた呂蒙であり、孫権が後に『手本とするなら、呂蒙と蒋欽』とまで言わせた人物ですので、これくらいの急成長があったのではないかと思います。
とは言え、本来の『呉下の阿蒙に非ず』はもっと後のエピソードなんですけど、ここで入れ込んでみました。
呂蒙も、中々主人公向きな人物なのでけっこう動かしやすいです。
人形劇三国志では、作中屈指のクソ野郎になってますけど。




