第八話 失った者と得た者
孫翊は兄の孫策にもっとも近い人物であると評され、孫権ではなく孫翊を後継にとも期待されていた人物でもあった。
孫策の遺言により孫権がその後を継ぐ事になったが、孫翊はそれに異議を申し立てる様な事も無く、むしろ兄の孫権を盛り立てる事を受け入れていたところもあり、兄弟の仲は良好だったと言える。
非常に勇猛果敢な人物でもあったので将来を期待されていたのだが、短気で感情任せな行動が多いと言う孫策の短所までそっくりだった事もあり、朱治からはその事を注意もされていた。
事の発端は、孫翊が孫権の敵であった為に討ち取った盛憲の元部下、嬀覧と戴員を登用した事にあった。
元々評判の良いと言う人物達では無かったのだが、主を失うと同時に行き場を失って山に隠れていたのを不憫に思ったらしく、孫翊は二人を自身の配下に加えたのである。
当初は孫翊とも意気投合していた様だが、戴員はともかく嬀覧の方は孫翊の感情的な性格や思いつきによる行動力についていけなくなっていったらしい。
孫翊の元には同じく元盛憲配下の辺洪と言う者がいた。
こちらは孫翊配下となりはしたものの、孫翊とは最初からソリが合わなかったと言う事もあってさほど重用される事も無かったが、その分孫翊の無茶振りとも無縁な存在だった。
とは言え辺洪としても傍若無人な主には思うところがあったらしく、嬀覧の不満や愚痴に付き合うと同時に自身の不遇を嬀覧にこぼしていた。
その事が孫翊の耳に入り、孫翊は嬀覧を咎めたと言う。
具体的にどの様な叱責があったのかは、その場にいた者が残っていない以上、分かっていない。
だが、それが引き金となったのは事実である。
猛将であった孫翊であるが、あの孫策ですら暗殺者によって致命傷に至る傷を負わされた。
嬀覧と辺洪は、もっとも孫翊から重用されていた戴員を説得し、孫翊をその手にかけてその勢力の乗っ取りを図ったのである。
若く宴会好きな孫翊を策に嵌めるのは、さほど難しい事ではなく、また泥酔した孫翊を討ち取る事も想像以上に簡単に行う事が出来た。
問題は乗っ取り部分が上手くいかなかった事である。
孫翊の妻である徐氏は、元盛憲配下の者達は信用できないと警戒していた。
夫の孫翊は一笑に付していたが、親族である孫河は夫人の言葉に耳を傾けていた事もあり、すぐに事を収めるべく動き出した。
孫河は父の孫堅の代から仕えていたのだが、孫策から気に入られた事もあって孫策の補佐を務めた事も多かった。
孫翊の補佐も務める予定だった事もあり、孫河は嬀覧達を咎め、捕えようとした。
ごくごく一般的な行動だったのだが、この時の嬀覧達はすでに冷静な判断の出来ない状況だったと言える。
彼らは孫河さえも手にかけたのであった。
これによって彼らは乗っ取りを成したつもりになっていたが、徐氏に近しい孫翊の部下であった徐元、孫高、傅嬰らによってすでに孫翊軍は掌握されていた為、彼らの乗っ取りは成功の見込みは無くなったのである。
嬀覧と戴員もこの時になって自分達の企みは失敗した事を認め、全ての責任を辺洪に擦り付けて彼を切り捨てて投降してきたのだった。
言うまでもなく、孫権はそんな都合の良い事を許す事無く嬀覧と戴員を切り捨ててこの一件を収めたのだが、孫権を見舞った悲劇はそれだけに留まらなかった。
孫策と共に祖郎と戦った事もある一族の一人、孫輔が曹操との内通していた事が発覚したのである。
孫輔は孫策に惚れ込んでいた事もあり、孫策に似た風を持つ孫翊に期待していたのだろう。
その孫翊が失われた事によって孫家に絶望し、曹操に降ろうと考えたと本人の口から告げられた。
さすがに一切のお咎めなしとする訳にもいかず、孫輔は幽閉される事となった。
が、本人が総てを受け入れ、この企ては自分一人の独断であると強調した事もあり、罪は孫輔のみとされてその一族は無罪となった。
とは言え、これからと言う時に孫権は身内の、しかもそれぞれに独立した兵力を持った太守以上級の武将を三人も失ったのである。
そんな孫家の不安定さが伝わったのか、祖郎が抑えていたはずの山越の軍がまたしても活発に暴れ始めたのだった。
結局孫権は、すぐに黄祖討伐を再開する事は叶わず、軍の立て直しに追われる事になった。
そんな中、孫権軍に加わる事を望む者も現れた。
錦帆賊の甘寧が、孫権の元に降伏を望んで来たのである。
「甘寧だと! 冗談じゃない!」
聞きつけて真っ向から反対したのは、凌統だった。
「甘寧は父の敵! そんな者と一緒に戦う事など出来ない!」
「まぁ、気持ちはわからんでは無いが、事は個人的な事ではなく軍略で考えよ。今は一人でも人手が必要なのはわかるじゃろう?」
「ならば甘寧である必要など無いだろう!」
魯粛は説得しようとしたが、凌統はまったく聞く耳を持たない様に怒鳴る。
「主の前だ。弁えよ」
程普が冷静に、しかし厳しさを含む声で凌統に言う。
凌統は元川賊であり、しかも若いながらも将軍としての能力には開花している事もあり、戦術にも戦略にも明るくなっている。
だからこそ、程普の言葉も理解出来るのだろう。
だが、納得するのは難しいらしく、言葉こそ飲み込んでいるが反対する姿勢は軟化させてはいない。
「凌統の気持ちは俺もよく分かる。だが、子敬の言う様に、今後の軍略を考えた場合には人手が欲しい事も分かる。凌統のほか、甘寧の投降に反対の者はいるか?」
孫権の言葉に、反対の意思を示したのは張昭や顧雍と言った内政面を司る者達だった。
「評判を聞く限りでは、両手を上げて歓迎とはいきますまい」
張昭が言う様に、甘寧の素行の悪さは知れ渡っている。
もし素行に問題がなければ、劉表が手放すはずが無い猛将なのだが、彼の手には負えなかった事が何よりの証とも言えた。
「そんな瑣末な事で将軍を手放すなど有り得ん! 今でなくとも、甘寧は手元に引き入れるべき人材。他へ流れる事など、絶対に認められん損失じゃ!」
魯粛は強く反対する。
「この辺で名を馳せた錦帆賊じゃぞ? それだけで手放す事など出来んじゃろう!」
「確かに武将としての実力も然る事ながら、勢力を率いて来てくれると言うのであればそれだけで補強となる。その利点だけで受け入れるに足ると言えなくもないか」
黄蓋が腕を組んで頷く。
「素行の悪さはともかく、その戦力を得ると言うのは俺も悪く無い利点だと思う。甘寧の受け入れに賛成の者は?」
孫権の言葉に、魯粛を始め、黄蓋や陳武と言った武官達、または凌統以外の川賊達は錦帆賊と甘寧の戦闘能力の異常さを知っている事もあって賛成していた。
そんな中、周瑜はどちらにも賛同する事無く話を聞いていた。
「凌統の気持ちはワシにもよう分かる。じゃが、あの凌操を討ち取る武将じゃぞ? 甘寧はワシに預けよ。必ずモノにしてみせようぞ!」
「と、言う事だが、凌統よ、それで良いか?」
孫権に促され、凌統は無言でだが渋々頷く。
「では子敬、お前に甘寧は託す事にしよう」
「御意」
魯粛はそう言うと、甘寧は迎え入れようとする。
「……公績、お主も付き合え」
「それは君命か?」
「いや、ワシの提案じゃ」
「ならば断る! ふざけるのも大概にしろよ!」
「違うわ、そこまで暇と思うか? 今後の事でお主にも避けて通れない、その上お主にも悪い話ではないと言うておこうか」
「断る!」
「よし、行くぞ公績」
「断る!」
そんな押し問答しながらだが、それでも凌統は流される様に魯粛に付き合わされる事になった。
びっくりするほどの損失
孫翊は二代目孫策と期待されていた猛将で、蜀で言えば張飛、魏で言えば夏侯淵ポジションになれる可能性のあった人物でしょう。
なぜそのポジションかと言うと、短気が問題で実力が出せなかった枠と言うところでしょう。
少なくとも孫策に近しいとの評判だったので、十年ほど実戦経験を積んでいれば相当な実力者になれていたはず。
とは言っても、結末はたぶん変わらなかったとも思われます。
孫河は完全に巻き添えになってしまったワケですが。
孫輔は曹操との内通が発覚して孫権に幽閉されたのですが、なぜ孫権を見捨てて曹操に流れようとしたのかは、正直わかりません。
まぁ、勢力が違いすぎて特に理由が無くても曹操に流れてもおかしくは無いのですが。
ただ、幽閉されたのは本人のみで、子供達などは登用され重用される事となった事から、孫権としても納得出来る理由で孫輔が総ての罪を背負ったのだろうとは思います。
こちらも派手さは無いにしても、失うには惜しすぎる人材だった事でしょう。