第四話 見限るきっかけ
それは本当に唐突に、魯粛には少なくとも前兆すら感じ取る事も出来ないほど突然の変化だった。
「……は? 何を言ってるので?」
魯粛はまったく理解出来ず、思わず聞き返していた。
「兵糧の供出を止めるじゃと? 気は確かか?」
「商人の小童が何を言っている」
今のところ良いとこナシの張炯が、あからさまに見下しながら言う。
汜水関攻略には袁術や孫堅、さらに鮑信の最初からの三軍の他、張邈と劉岱の援軍を加えてから勢いに乗ってきた。
その上、弱小ではあっても陶謙軍も参加して、いよいよ総力戦の様相となってきたところでそんな命令である。
魯粛でなくても、まともな参謀であれば理解も納得も出来るはずがない。
「当初はこの拠点には三軍だったが、今は倍の六軍も集まっておるのだ。このままでは兵糧が足りなくなる事もわからんのか」
「足りなくなる訳がなかろう! 連合四十万の兵を維持出来る兵糧が集められておるのだ! それを半月と経たぬうちから無くなるはずがない。勝つ気がないのか!」
「これは決定事項だ。袁術様に逆らうと言うのか?」
「勝つ気がないのかを聞いておるのだ! 今、まさに、董卓の喉元に手をかけておると言うのがわからんのか! 後はひねるだけだと言うのに、何故手を引く様な事をしようとしておるのだ!」
早ければ、あと三日もすれば汜水関の防衛は機能しなくなる手応えがあった。
それは張邈が防衛の要となっていた董卓軍の武将である趙岑を討ち取った事で、その手応えは確信に変わっていた。
もっとも、その結果が華雄の為に指揮系統を一本化させてやっただけではあったのだが、それでも確実に董卓軍を削っている。
「とにかく決まった事だ。張邈、劉岱、陶謙は速やかに戦場から離れさせ、今ある兵糧も節約するために孫堅軍にもある分で戦ってもらう」
「はぁ? 正気か? いよいよ勝利を放棄すると見える。袁術は戦犯になるぞ!」
「決まった事なのだ」
張炯は勝ち誇った様に宣言すると、袁術からの命令であると言う事で孫堅への兵糧さえも差し止めた。
食料も物資も無く、いかに名将と言えども勝利する事など出来るはずもない。何かあったな。袁術が皆を集めて大々的に言い出した事では無いと言う事は、誰かが袁術に告げ口したと言う事だ。袁術を動かせる者となると、張勲や橋蕤くらいだが、誰が……。
そこでふと魯粛は見落としがあった事に気付いた。
董卓か! 荒くれ者ばかりの印象しかなかったが、そんなモノが政権奪取など出来るはずもない。相当なキレ者がおるのじゃろう。まったく、してやられたわ。
魯粛は大きくため息をつくと、密かに撤退の準備を始めた。
これは孫堅をわざと負けさせる事が目的だろうが、董卓軍は孫堅を破っただけで満足する様な事は無い。孫堅が敗れたあとは戦の主導権は董卓軍に移り、その勢いにまかせて袁術軍とこの前線拠点を狙って攻撃して来るだろうが、兵力はあっても勢いに乗った董卓軍と戦える様な戦力では無い。
こうなった原因は袁術の自業自得なのだが、巻き添えで殺されてはたまったものではない。
実際に兵糧も無くなっては孫堅も戦えず、兵糧の催促は矢の様に届いているが袁術は首を縦に振る事は無かった。
何を考えて仲間の足を引っ張り、無益な犠牲を出して連合を敗北に導こうとしているのかは分からなかったが、少なくともその目的に関しては達成出来たと言えるだろう。
孫堅の敗退は袁術軍の活躍の場を与えると言う様な甘い事は無く、董卓軍の猛将華雄の全面攻勢を呼び込むことになった。
数の上ではまだ互角以上と言えるのだが、圧倒的攻撃力の前にまともに戦わず戦うフリくらいしかしてこなった袁術軍が敵うはずもない。
それによって前線拠点を奪われ、そこにあった物資も奪われる事になった。
孫堅軍や鮑信軍は壊滅的打撃を被ったのに対し、袁術軍は早々に撤退した為に軍そのものにはそこまで大きな打撃を受ける事は無かった。
当然本人は逃げるつもり満々だった魯粛も、余裕を持って撤退する事は出来た。
今回の事で魯粛は袁術に対する忠誠を失い、袁術から離れる方法を考える様になったのだが、連合の落としどころも気になったのでこの場で離れる事はしなかった。
本来であれば盟主たる袁紹は、兵糧の管理もまともに出来なかった無能である袁術に対して何らかの処罰を与える必要があった。
兵糧管理と副盟主の任を解くのは当然として、その首を切る事さえやり過ぎとは言えない様な失態だったにも関わらず、袁紹は袁術に対して罪を問う様な事はしなかった。
そんな生温い事では大兵力など維持する事は出来ない。信賞必罰で無ければ、人は簡単に低きに流れていくものだ。
もし自分ならそうするだろうと魯粛は思ったのだが、敗戦によって被害を出した上に士気も低下している現状で副盟主を切り捨てたとあっては深刻な事態に陥る危険性は否定出来ない。
それもあって袁紹は誰に対しても敗戦の責任を問う事はしなかったと、甘過ぎるとはいえ考えられる。
じゃが、ここからは見物じゃな。これまでの戦いぶりからも華雄は相当な戦上手。その上まだ呂布も董卓も健在と来ている。さて、袁紹様には打開策がおありかな?
敵の猛将華雄は、先の徐栄と違って戦上手らしいと魯粛は思う。
残念ながら魯粛は華雄をの実物を見ていないのだが、華雄は相当人間離れした外見の異常な剛勇を誇る豪傑だと言う。
だが、その外見のわりに冷静なところは、拠点を占拠して勢いにまかせて突撃してこない事でも分かる。
ここで連合が総攻撃に出ない事を、華雄は知っているのだ。
と言うより、出れない。出るきっかけが無いと言える。
一方的にやられた相手に挑発されて、皆で一斉にボコボコにしてやろうぜ! と言う行動は名門の袁紹には選ぶ事が出来ない。
先の徐栄の時に、自らの一族を惨殺されたのを見せられてすら、袁紹は総攻撃に出る事を選ばなかった。
華雄が単軍で挑発してくるなら、相応の対応を考えている事だろう。
「単軍どころか、単騎で挑発しているらしいよ」
残念ながら魯粛は末席参謀なので諸侯らと同席する事は許されておらず、同じく諸侯の側近に漏れた参謀達の集まる詰所にいたのだが、その魯粛に声をかけて来た少年がいた。
一瞬周瑜かと思ったが、その人物は違う人物だった。
やはりと言うべきか若いには若いのだが、どうにもこの場に相応しくない様な気品のある上品な少年だった。
「単騎とはまた、剛毅な事じゃのう、えっと……」
「ああ、失礼。劉曄と言うんだ。君は魯粛だね?」
「ほう、ワシを知っておるのか? 皇族に知られるとは、ワシも偉くなったモノじゃのう」
「ははっ、皇族と言う事は知られていたか。無名のつもりだったんだけどね」
劉曄は気楽に笑うが、本来であればこんなところにいるべき人物では無い。
彼は正真正銘の皇族の一人でありながら、母の遺言に従って父の側近の一人を切り殺したと言う、家柄に似合わない血腥い過去がある。
そんな過去のせいか、今は家を出て曹操の元で参謀見習いとして拾われていると本人は話していた。
周瑜の時も思ったが、血筋で言うなら劉曄は曹操と比べると二つも三つも上の血筋であり、曹操が劉曄の下につく事はあっても、劉曄が曹操の下につくなど本来であれば有り得ないほどの差があるのだが、劉曄もまた能力の高さの差を認めて血筋より実力と言う事で曹操を主としている。
「で、華雄が単騎と言うのは正確な情報か?」
「うん。単騎で連合を挑発しているみたいだね。で、連合でモメてるみたいだよ」
「そりゃモメるわいな。董卓や呂布であればともかく、華雄など伏兵にも程がある。実力のわりに名の通りの悪い武将じゃ。討っても評価に繋がらんからのう」
「とは言え、何も手を打たない訳にはいかないから、誰がどんな手を打つんだろうね」
参謀見習い扱いの魯粛や劉曄にとっては完全な他人事なので、楽しんでいるところもあった。
魯粛と劉曄がそんな話をしていると、伝令役の様な者が一人駆け込んでくる。
「大変だ! 華雄に討たれた!」
「ほう、誰が討たれたのだ?」
そう反応したのは、袁紹軍の参謀である逢紀だった。
彼は袁紹の側近なのだが、連合諸侯のところに集まっている中に袁紹の参謀役を勤めている曹操がいるので、彼はこの参謀詰所のまとめ役の様な立場にあった。
場合によってはここで話し合われた事を、曹操に、あるいは袁紹本人に伝える事もある。
なので、この詰所にもこうやって情報が飛び込んでくる事もあるのだが、基本的には独自の情報源から情報を得る。
「袁術軍の兪渉、韓馥軍の潘鳳! まったく相手にならなかったとの事!」
参謀の詰所がざわめく。
「ほう、兪渉がのう」
魯粛はそう思っていたのだが、詰所のざわめきはどちらかといえば潘鳳の方が原因だった。
潘鳳は韓馥軍の中でもかなり名の通った武将であったらしいのだが、華雄の相手にはならなかったと言う。
「兪渉も相当に使うらしかったのだが、その実力も見る機会が無かったのう」
「そうか、魯粛は袁術軍だったね」
「あの出し惜しみの袁術様が真っ先に兪渉を出すとは、多少の後ろめたさはあったみたいだが、挽回にはいたらずか。さて、連合はこの伏兵をどうするかのう」
あくまでも華雄は単騎で挑発しているようなので、連合も面子にかけて一騎討ちで華雄を討たねばならない。
とでも考えておるのだろうが、無意味な事じゃな。
魯粛としては華雄に付き合う必要などないと考えている。
華雄には一軍、あるいは二軍程度を付き合わせてやって孤立させ、他の軍で一気に攻め込む方が効果的だ。
華雄が連合の背を討とうとするのであれば付き合っている軍で華雄を討ち、華雄が来ないのであれば孤立させておけば無力化出来る。
名門のメンツなど、何の益にもならんな。
「急報! 華雄を討ち取った!」
さらに立て続けに伝令が走り込んでくる。
「討った武将は関羽! 一刀の元に華雄の首を刎ねたらしいぞ!」
「関羽? まるで聞かん名じゃな。そちらは知っておるか?」
「いえ、まったく聞き覚えの無い名ですね」
「ほう、兪渉の他にも無名の豪傑は眠っておったか」
華雄もさほど名の通った武将と言う訳では無かったが、それでも相当な実力者だった事は伺えた。その猛将を一撃で倒すなど、その関羽と言う武将も桁外れな剛勇であると言う事だ。
「なれば、すぐに前線拠点を奪取するべし!」
逢紀はすぐにそう叫ぶが、ここで鼻息荒く叫んだところで本陣には届かない。
それにそれは別に天才的閃きと言う訳ではなく、当然の次の一手である。
何も宣言するほどではないじゃろうに、と魯粛は呆れて逢紀を見る。
しかし、今一つ足並みの揃わない連合軍に対し董卓軍の打つ手は早く、華雄を討たれた直後に前線拠点に呂布が現れてその陣を奪っていると言う。
「呂布が出ただと? はっはっは! 董卓め、ついに人が尽きたらしいな」
逢紀は喜び、また詰所全体にもそういう空気が流れたが魯粛は眉を寄せる。
「呂布? それはおかしいぞ」
「何が?」
劉曄が尋ねる。
「早過ぎる。呂布は董卓の側近じゃろう? どれほど能力を持っていたと言っても華雄は無名な武将。そこで落ちた士気を回復させる事も目的じゃろうが、呂布は大き過ぎる。あまりにも目立つ駒を置くのは、その武威を示す為だけとは思えん」
「……目を集めている?」
「罠じゃな。何かしらの罠が進んでおるのじゃろうが、その時間稼ぎの為に呂布が出て来たとしかワシには思えん。董卓軍に人無しとは、いささか短慮が過ぎようぞ」
魯粛は劉曄にはそう言うものの、それを逢紀に進言しようとはしなかった。
仮に進言したとしても、逢紀の反応は分かっている。
今ここで呂布を討てば敵にどの様な罠があろうと、敵の士気は地に落ち罠ごと踏みつぶす事が出来る。その時に董卓を守る者はいないのだから、ここが勝負所だ。
とでも言う事だろう。
それが上手くいけばその通りだろうが、董卓軍は呂布を討たれる事など無いと踏んで送り込んできている。
直接の面識は無いが、呂布と言う武将が非常識極まりない武将であると言う噂は魯粛も聞き及んでいる。
龍の化身で、虎を素手で捕まえ、熊を頭から喰らうと噂されるほどの暴勇は人の範疇に収まらないと言われている。
いくら何でも大袈裟に過ぎるが、圧倒的武力を誇る董卓軍にあって、新参でしかないにも関わらず武の第一の座についている呂布は、華雄以上に討ち取れる様な武将ではない。
「董卓軍の軍師、素晴らしいものじゃな」
「まったくです」
武将の配置も巧みだが、連合軍の大兵力を戦わずして無力化させようとしているのが、魯粛や劉曄には分かった。
おそらく参加してません
あまり目立たない立ち位置ですが、劉曄の事です。
詳しい生年月日は不明で、この連合の頃にはまだ曹操の元にもいないと思います。
とは言え、どこかで(多分徐州にいた頃)に知り合っていた様で仲良しだった事は正史にも記されていますので、ここで登場してもらいました。
劉曄を語る上で外せないのが、子供なのに父親の側近を切り捨てた事でしょう。
三国志時代の皇族の方々は(自称の劉備込みで)割と残念な方が多いのですが、劉曄や劉虞は皇族の名に恥じなかったと思われます。