閑話 第二章を始める前に
最近ではかなり知られてきた話ではありますが、三国志最大級の大戦である『赤壁の戦い』は正史には無い、演義による完全創作とさえ言えるくらいのほぼフィクションです。
正史でもあるのは、前半の長坂くらいですがここでも半分近く羅貫中スペシャルです。
そもそも正史の時代には『赤壁』と言う地名すら無い時代なので。
具体的には趙雲無双や、張飛が一喝して大軍の足止めして夏侯傑を落馬させる辺りがフィクションですが、趙雲が阿斗(後の劉禅)を救出したのは正史にもあります。
また、演義ではあまり触れられていませんが、ここで劉備の子供達は阿斗以外の兄弟姉妹がいたみたいなのですが、殺されてしまっています。
一説によると、この時の劉備は自身の子供達を盾にして生き延びたとも言われていますが、現代の倫理観や道徳とはまったく異なる時代なのですが、演義を始めほとんどの三国志関連の創作物では触れられていない事からも良いとはおもわれていない行動だったのでしょう。
そこから赤壁本戦に入るのですが、のっけからフィクション炸裂で、曹操が孫権に送った書状がまず存在しません。
もちろん孔明先生が呉の方々を片っ端から論破する事も無ければ、霧に紛れて十万本の矢を集める事も、鳳雛先生が鉄の鎖で船を繋げる事も、東南の風を吹かせる事もありません。
正史での長坂以降の赤壁に当たるところでわかっている事と言えば、
・曹操軍が船を焼かれて大損害を受けた事。
・曹操軍に疫病が蔓延して、全軍の一割近くが戦う前から失われた事。
・劉備と孫権が同盟した事。
・最終的に曹操軍は侵攻を諦めて、曹仁に荊州を任せて撤退した事。
くらいで、それぞれの伝の中でいろんな食い違いもあるみたいですが、共通している事と言えばそこまで大きな戦が行なわれた形跡が無いと言う事です。
とは言え、まともに戦う前から疫病で兵を失い、せっかく多額の軍費を投じて作った船団を焼き捨てられと、曹操軍が受けた被害は甚大であったと言えます。
演義の赤壁ほど派手ではありませんが、不安定な状況の中でいつまでも荊州に留まっていられない曹操としては、侵攻を断念せざるを得なかった為に撤退する事になったのは演義と同じと言えなくもないでしょう。
そんな訳で、と言う事でもありませんが、この『新説 魯粛子敬伝 異伝』では演義以上にインチキ込みの赤壁の戦いになると思います。
なので、細かい事にこだわらずに楽しんでいただけたら、幸いです。
以上、言い訳でした。