第一章最終話 飛翔する夢を追って
その日も曲阿は、よく晴れた日だった。
この頃の曲阿近辺は本来であれば降るはずの雨が長らく降らず、旱魃に苦しんでいる。
孫策の体調も回復の兆しを見せず、日差しの強さとは裏腹に曲阿は陰鬱な空気に包まれていた。
そんな曲阿に、仙人が現れたと言う噂が広まっていた。
「仙人か。会ってみたいな」
孫策がポンと手を打ってそんな事を言い出す。
「まるで友人に会う様な気軽さじゃのう。知り合いなのか?」
「知ってるわけ無いじゃないか。仙人って、アレだろ? 胡散臭い事言って、民を惑わしてる輩だろ? そんな輩を放置するわけにはいかないだろう」
「……いや、仙人と言うのは必ずしもそう言うものでは……」
孫策の言葉に、程普が言葉少なめに抗議する。
「聞いた限りでは、現れた仙人と言うのは于吉と言う仙人らしく、民にも大変人気のある仙人だそうです。決して民にも我々にも害は無いかと」
顧雍はそう言うが、孫策は納得していない。
「いや、怪しげな事を言って民を惑わしている事、それ自体が我々にとって害のある行動だ。我らの許しを得てやっているのであればともかく、それでなければ民を扇動している事を行っているんだ。これを見逃したとあれば、今後仙人を名乗ってやりたい放題になるだろう?」
孫策の言葉に、顧雍も反論出来なかった。
「と言う訳で、于吉とやらを探して来い。俺が直接会う事にする」
「しかし、于吉とやらは正体を知られていない仙人と言われ、見つけ出すのは困難かと」
「子布らしくもない事を言うなよ」
張昭の言葉に、孫策は苦笑いする。
「民にも人気があるんだろう? だったら、民の声を聞けば于吉とやらにも行き着くだろう。探すのはさほど難しくないはずだ。見つけ出せ」
孫策の言葉に、曲阿の留守役は謎の仙人探しを行う事になったのだが、さほど時を経ずして魯粛が于吉を見つけ出して孫策の前に連れてきたのである。
「……コヤツが于吉か?」
「于吉だよっ!」
孫策の問いに、その人物は自信満々に答える。
が、言葉を失っていたのは孫策だけではなく、その場に居合わせた武将官吏全員が同じように正しく反応する事が出来なかった。
誰もが仙人と言う事で白髪白髭の老人を思い浮かべていたのだが、魯粛が連れてきたのはまだ幼さの残る妙に楽しそうな少女だったのである。
「貴様が于吉か?」
「そだよ! 于吉っちゃんに何か用かな?」
少女は何故呼ばれたかもわからず、ただ何故かやたら楽しそうに孫策に尋ねた。
「お前が本当に仙人なのか?」
「そだよ! 于吉っちゃんってば、けっこう高名な仙人様だったりするんだよ! あー、分かった! 有名だから于吉っちゃんに会いたかったんだねっ!」
孫策に凄まれてもまったく意に介さない豪胆な少女は、人差し指と中指を広げてその隙間から右目を出してみせる。
「お前が高名な仙人と言うのは甚だ疑わしいところだが、そう思っているのはたぶん俺だけではないだろう」
「何言っちゃってるの? 于吉っちゃんてば、すっごい仙人なんだよっ!」
「だとしたら、証明して見せろ」
「いーよ。何すればいーの?」
恐ろしく安請け合いな于吉に、孫策は眉を寄せたが、他の面々はまだ言葉を失ったままである。
「そうだな、今、旱魃で民が苦しんでいる。お前の仙術が本物だと言うのであれば、雨を降らせて見せろ」
「そんなモンでいーの?」
「三日以内だ。これより三日目の正午までに雨を降らせて見せろ。そうすれば、お前を仙人として認め、何なら俺が謝罪してお前を祀ってやろうじゃないか」
「ふふん? いーのかなぁ? そんな事言っちゃってー」
「ただし、雨が降らなければ貴様は詭弁詐術によって民を惑わした罪で切り捨てる。この孫策、女子供とて容赦はしないぞ」
「ふふん、いーじゃない」
于吉は妙に勝ち誇った様な笑顔で言う。
「子敬、この娘を見張れ。怖気付いて逃げようとしたら、捉えて俺の前に引きずり出せ。俺の手で切り捨てる。だが、それまではその娘の良いようにしてやれ。仙術に必要なモノがあれば、出来る限り用意して協力してやるがいい」
「御意」
孫策の言葉に、魯粛は頷く。
「じゃ、さっそくだけど護摩壇の用意はしてもらおうかな。この于吉っちゃんの仙術をきっちり見せてやらないと」
まったく遠慮も恐れも無さそうな于吉は、てきぱきと指示を出す。
魯粛はそれに応えて護摩壇を築き、于吉の術の邪魔にならない様に民を近づけない様に手配し、また兵士達にも于吉の邪魔をしない様に厳命を下した。
いかにもな呪文を唱え、異様な儀式を行う于吉だったがまったく雨が振る気配は無く、三日目の正午を迎えようとしていた。
「中々に面白い小娘だったが、ここまでだな。約束通り、切って捨てる」
孫策が護摩壇の下で、剣を抜く。
まさに正午となろうとしたその時、突然暗雲が立ち込め要項を曇らせ、雷鳴と共にまったく前触れも無く豪雨となったのである。
「どーよ? これが于吉っちゃんの仙術だよっ!」
于吉はまた人差し指と中指を広げて、横向きに構えてその隙間から右目を覗かせる。
どうやら決める時には、そうするらしい。
「ほう、見事と褒めてやろう」
「えー? それだけぇ? 土下座して謝罪とか言ってなかったぁ?」
于吉は護摩壇を降りると、孫策に嫌味ったらしく尋ねる。
「ああ、お前の仙術が本物であればな」
「本物でしょ? この雨が仙術の証明じゃなーい?」
于吉の言葉に、見物に来ていた民も恵みの雨に大喜びである。
「聞かせてくれないか? 何故今日なんだ?」
孫策の質問は、于吉だけでなく他の者達にとっても理解出来ない質問だった。
「はぁ? 今日を期日に決めたのはそっちでしょ?」
「そこだ。何故、期日まで待ったんだ? お前が真に民の事を思う仙人であれば、曲阿に来た時には旱魃に苦しんでいたのは知っていたはずだ。何故その時に雨を降らせなかった? お前が一月早く雨を降らせれば、苦しむ民は出なかった。お前が一週間早く雨を降らせていれば、徐さんのところの畑も家畜も失わずに済んだ。もしお前が今日ではなく、昨日雨を降らせていれば今、この場に金さん達の家族もいたはずなんだ。なぁ、于吉よ。何故今日なんだ?」
孫策の質問に于吉は答える事が出来なかった。
それだけではなく、つい先ほどまで歓喜の声を上げて于吉を称えていた民ですらその声は無くなっていた。
「なぁ、于吉よ。お前が真に高名な仙人であり、尊敬に値する人物と言うのであれば、何故今日まで待ったのだ? もしお前の仙術であったとしても、それはお前の名声を高める為だけのモノであり、とても人の尊敬を集める様な人物とは言えない。まして、この雨も貴様の仙術などではなく、ただ降るべき雨が降ったのみではないのか? 貴様の仙術の正体、とても信じるに値するとは思えない」
「で、でも、ちゃんと雨降らせたじゃんっ!」
「語るに落ちたり、だな。貴様の仙術など、しょせん詭弁詐術に過ぎない! 無いモノを有る様に見せただけの紛い物よ!」
孫策はそう言うと、剣を振る。
一瞬遅れて、于吉の小さな体から鮮血が吹き出した。
「ふん、仙人と言えど普通に切れるのだな。仙人は切る事は出来ないと聞いていたのだが?」
「おのれ、孫策! 我は約束を守ったと言うのに、貴様はこの私を切ったな!」
「俺は言ったはずだ。偽物であれば容赦はしないと」
孫策は血まみれの于吉を見下ろして言う。
「おのれぇ、呪ってやる呪ってやる呪ってやるぞぉ! 孫策ぅ!」
これまで愉快な少女だった于吉は、突如しゃがれ声で孫策にすがりつき、睨みながら呻く。
「まぁ、それくらいは許してやるさ。お前の仙術は詐術であるが、せめて俺だけは呪われてやるとも。先にあの世で待っているが良い」
孫策が笑って言うと、于吉はそのままずるずると地面に崩れ落ちた。
「目障りだ、片付けろ!」
孫策に命じられ、魯粛が于吉の遺体を運び出す。
「良いか、皆の者! 仙術、妖術の類など存在しない! 信じるべきは孫家のみ! もし呪いを恐れるとあれば、それはこの孫策が一身に引き受けた! 皆が恐れるべきは何物も無い!」
孫策の力強い宣言を聞きながら、魯粛は急いでその場を離れて行く。
「……良い茶番であったぞ」
魯粛は自分の屋敷に入ると、血まみれの少女の頭をポンポンと叩きながら囁く。
すると、絶命したはずの少女が目を開いてひょこっと飛び起きる。
「でしょ? 良い仕事したでしょ?」
「うむ、ワシの思っていた以上に良い茶番であった。伯符も楽しそうじゃった」
孫策が魯粛に頼んだ事が、この茶番劇だった。
この曲阿に限らず、江東や江南では儒教の教えより土着の宗教や信仰などの方が優先され、法ですらないがしろにされる事が多い。
そこで誰も正体を知らない仙人『于吉』の名を利用して、仙術や妖術といった怪しげなモノではなく太守領主による法をこそ守るべきモノと知らしめる事を孫策は企んだ。
それともう一つ、自身が暗殺者に手によって倒されると言う事実を覆い隠す嘘を広める事が目的だった。
この茶番は、瞬く間に曲阿だけに留まらず江東全土に広がり、やがて中原にも広まっていく事だろう。
孫策は、暗殺者ではなく怪しげな妖術によって呪い殺された。
その為にわざわざ鶏や牛の血を仕込んでおいたのだが、孫策はその仕込みだけを切り裂き、少女には一切傷をつけないと言う神業を見せた。
それに合わせて、少女はいかにもな呪いの言葉を吐いたのである。
呪い殺されたと言う様な訳の分からない事を広める事に、一見すると利点など無い様に見えるが、実はそうではない。
孫策が言う様に、妖術など存在しないと魯粛も思う。
だが、この話が広まれば妖術などを信じる者も現れる事だろう。
また、自分こそは妖術師であると吹聴する者も現れる事は考えられる。
実際に黄巾賊にはそう言う者もいたと聞く。
この茶番劇を信じたお調子者は、そんなまやかしを信じて時間と金と労力を無駄にしてくれるのだから、こちらとしては非常に有難い。
同じ時間と金と労力を使った場合、効果を出せる期待の出来る暗殺ではなく怪しい儀式を行ってもらった方が安全なのだ。
孫策は自らの命と悪名を持って、後継の為に実らない種を他勢力に与えたのである。
孫権が曲阿に戻った時、すでに孫策は起き上がる事も出来なくなっていた。
「兄上……」
ずっと一緒だった弟の目にも見た事が無いほどに弱った兄の姿に、孫権はそれ以上の言葉を発する事が出来なかった。
「仲謀か。すまないな、お前に送る領地はもう少し広くなるはずだったのだが」
孫策は弱々しくではあるが、それでも笑いながら言う。
「あ、兄上、もう喋らない方が……」
「俺は天下の器だぞ? 自分の死期は分かる。今日、この時がまさにそうだ。伝え忘れは無い様に総て伝えておかねばな。お前が俺の、父の大業を継ぐんだ、仲謀」
孫策は孫権に言う。
「もちろん、お前一人が総てを背負う必要など無い。お前は戦で領地を広げる事に関しては俺には及ばないかも知れないが、人を統べ領地を治める事にかけては俺などより遥かに優れているんだ」
「俺など、兄上の足元にも及びません」
「かもな。もし本当にそう思って悩むのであれば、国内の事は子布に、国外の事は公瑾に尋ねるが良い。それでお前は俺より優れた人物になる」
孫権の言葉に対し、孫策は流れる水の様に答えていく。
「皆も良いな。今後、主は仲謀、いや、孫権である。もし不服を申す者がいたなら、そんな者は放り出してしまえ。孫権仲謀を主と仰げない者など、この孫家には必要ない者達だ」
孫策の言葉に、家臣達は全員跪いて臣下の礼を取る。
「大喬、お前にももっと広い世界を見せてやりたかった」
「盲た私にとって、あなたが世界の総てです、孫策様。あなたと出会えた事、それ以上を望んではバチが当たります」
「そう言ってくれるのであれば、一つ心残りが消えるな。ただ、消えようの無い心残りは、この場に公瑾がいない事だ。さすがに待ってはいられないから、よろしく伝えておいてくれ」
孫策は思うところは多々あったはずなのだが、それでも薄く笑いながら息を引き取った。
江東より天下に飛翔する事を期待された戦の天才、小覇王とまで例えられた英傑は、わずか二十六年の生涯を閉じたのである。
于吉っちゃんだよっ!
この人、演義にも存在しない人なんですが、いつの間にか現れていつの間にか孫策の死因として名を馳せた謎過ぎる人物です。
言うまでもなく、爺ちゃんで女の子ではありません。
まして妙にテンション高く、チェキで決めポーズとかやってません。
この人のオモシロエピソードのせいで、許頁の食客だった暗殺者達は完全に食われていしまって、場合によってはいなかった事になってます。
蒼天航路では于吉っちゃんは出て来ませんが、孫策の最期には于吉っちゃんは出さないと物足りないくらいにセットになってしまってます。
ホントは出す予定は無かったのですが、どうせ偽物出すんなら、徹底的に偽物にしようと思ってこんな妙ちくりんな生き物が出来上がりました。