第二十九話 不可解な動き
呂布の敗死。
その衝撃は決して小さなものではなかった。
単純にその実力を知っていると言うので孫策としては信じられなかったのだが、そんな孫策個人の衝撃の話ではなく戦略の見直しも必要になるほどだった。
呂布とは面識があると言うだけでなく、それなり以上の信頼関係もあった。
その呂布が徐州を収めていると言う事は、そこからの侵攻が無いと言う事でもある。
徐州からであれば水路で江南を攻める事も出来る為、孫策が次の標的と定めていた荊州を攻めている間にそこを狙われると後背に敵を抱える事になってしまう。
そこで、このまま荊州を狙うべきか、徐州を狙うべきかと言う問題が出てきたのである。
「狙うべきは荊州なのだが、その前に劉勲だな」
孫策は地図を見ながら言う。
現状の勢力で言うのであれば、劉勲は特筆すべき勢力ではなく、祖郎や太史慈の様な危険性も無いと言える。
が、それは現状の話であり、潜在的危険性は極めて高い。
と言うのも劉勲は本来孫策が得るはずだった廬江太守の地位を袁術に与えられた袁術派の武将であり、また戦場に出る事が無かった事もあって、壊滅寸前の袁術軍にあって自身の勢力を保つ唯一の武将でもある。
袁術軍の崩壊は止めようがないが、劉勲はあえてそれを止めようとせずに偽帝された袁術とは距離を置きながら、それでいて袁術軍残党を束ねられる立場にもある。
「劉勲、か。おそらくすでに曹操とは接触しておるじゃろうの」
魯粛は地図を見ながら言う。
魯粛も短期間とは言え孫策より長く袁術軍に属していたので、多少なりとも情報は持っている。
「確か劉勲は曹操とは旧知であったはず。実際に劉勲がどの程度の者かは知らんが、曹操にとっては扱いやすいコマじゃ。確かに放ってはおけんのう」
「正攻法ではさすがに犠牲が出ます」
程普がすぐにも動きたそうな孫策に向かって言う。
「何か策が必要、と言う訳か」
孫策が腕を組んでそう呟いた時、急報がもたらされた。
徐州の水軍が攻めてくると言うのである。
「……は? 正気か?」
それを聞いた時、孫策ですら誤報を疑った。
確かに孫策軍は連戦であり、その戦の疲れがあるのは間違い無い。
しかし、これまでの戦には連戦連勝で戦意は高く、また凌操、陳武、蒋欽と言った元川賊の面々が傘下に加わった事によって操船技術は高まっている。
一方の徐州軍は、太守であった呂布が曹操に敗れたばかりであり、その軍が曹操に吸収された直後である事からも本来であれば軍の再編が必要な時期のはずだった。
孫策の江東軍が徐州に攻め込む事はあっても、徐州軍が江東に攻めてくる時期ではないと言うのが戦術の天才である孫策だけでなく、程普や周瑜ら参謀達も共通の認識だった。
「探り、かのう?」
魯粛のつぶやきに、孫策も曖昧に頷く。
「だろうとしか考えられないが、何を探るつもりか見えてこないな」
孫策はそう言った後、両手で自分の頬を叩く。
「っしゃ! それならしっかり探ってもらおうじゃないか。何なら、徐州に情報を持ち帰られなくしてやろうじゃないか」
孫策は自ら、凌操と凌統、陳武、蒋欽と言った川賊を中心とした武将達を率いて、徐州軍の迎撃に出る。
孫策の取った迎撃法は、敵水軍を待ち構える様な方法ではなく、こちらも船を出して水上戦で雌雄を決すると言うものだった。
孫策自身の適性もあるが、非常に攻撃的な守り方である。
徐州軍の奇襲に対し通常の水軍であれば、準備を整えるだけで精一杯になりそうなところだが、そこは元川賊の集団であった事もあり、手早い準備はお手の物と言わんばかりに次々と小型船を出して徐州水軍に襲いかかった。
中型船が主力の徐州水軍だったが、瞬く間に数艘の被害を出したところであっさりと引き上げていく。
「舐めたマネしてくれるじゃないか。追うぞ! 一気に徐州を攻める!」
徐州軍の動きを挑発と捉えた孫策は、その挑発に乗る形で徐州軍の追撃にかかった。
常識的に考えれば、この短慮とも言える孫策の行動は愚策愚行の類かも知れない。
だが、それだけに徐州軍の度肝を抜いた事は事実であり、また孫策の真骨頂とも言える。
徐州軍を撃退する事には成功したのだから、当然引き返すだろうと予想していた徐州軍にとって深追い以外の何者でもない孫策の行動は想定外でもあった。
しかも、追い足が早い。
この時孫策が率いたのは小型船が主力だった事もあり、徐州軍はその船の積載量などから長期的な戦いには不向きと見て、追撃は無いと判断していたのかもしれないが、この水軍のほとんどが川賊である事は徐州軍の知りえない情報だった。
最初から徐州軍の船や物資を奪い取る事を、孫策は戦術として織り込んでいたのである。
逃げ遅れた徐州軍の船を奪い、その船を自分達のモノにして徐州軍を追うその姿は、まさに川賊そのものだった。
徐州の港が見えて来たところで徐州水軍の主力に追いつきそうになったが、ここで孫策は追撃の手を止めた。
「罠がある」
孫策はそう言うと、それぞれの武将達に追うのをやめる様に指示した。
「大将、敵に備えがあるようには見えねえぜ?」
それぞれの武将が孫策の船に集められた中で、年若いせいか血の気が多いせいか蒋欽が孫策に向かって言う。
「いや、あれは備えている。港にか、その奥にかは分からないが、作為を感じる」
「そうかい? 本気で慌てている様にしか見えないが」
凌操が敢えて蒋欽に同調する様に言うが、孫策は首を振る。
「その通り、あの船団の半数以上は本気で慌てている。こちらを恐れてもいるだろう。だが、全軍じゃない。たぶん、策の全貌を知っている者が極小数であり、他の者には策そのものの事を教えていないのだろう。演技ではないからこそ、こちらも好機と見て行動するわけだ」
孫策はそう説明すると追撃をやめ、自分たちの小型船に徐州軍の捕虜を乗せて徐州へ帰らせ、奪い取った中型船で曲阿へ戻っていく。
そこで、今回の徐州軍の不可解な行動の真意を知る事が出来た。
「どうやら、まんまと踊らされたようじゃぞ」
魯粛は戻ってきた孫策に、ちょっと楽しそうに報告する。
孫策が迎撃に向かった直後、袁術の死去が伝わってきたのだが、それと同時に袁術軍で大将軍の片割れだった張勲と参謀の一人であった楊弘から降伏の申し入れがあった。
主である孫策がいない状況ではあったが、代理として孫権が周瑜や魯粛、張昭らにどうするか相談したが、基本的に断る理由が無いので受け入れる事を伝えた。
が、張勲らが袁術の元から財宝や兵を集めて孫策の元へ移動していたところを、徐州軍と戦っている為に孫策不在である事を知った劉勲が襲い掛かり、張勲らを討ち取って略奪していったのである。
「曹操の差金か?」
「いや、おそらくじゃが、徐州軍の単独による行動じゃろう。曹操であれば、そんな回りくどい事をせんでも簡単に劉勲を動かせるはずじゃが、そんな動きは無い。逆に徐州軍にとっては都合の良い事ばかりじゃ。徐州軍の陳登と言う男、ワシらの思っている以上に切れ者じゃぞ」
呂布と言う圧倒的武力を失った徐州にとって、孫策の北上と言う脅威は無視出来ない大きな問題になると判断した陳登は、劉勲を動かす事にしたらしい。
陳登の狙いとしては、孫策不在の状況を作り出す事によって劉勲に孫策軍を攻めて欲しかったのかもしれないが、彼自身がまさか袁術死去と重なるとは思っていなかったらしく、結果として狙い通りに劉勲は動き、その勢力拡大によって孫策は徐州攻めどころでは無くなってしまった。
「つまり、偶然でしかないって事か?」
蒋欽は首を傾げたが、周瑜が首を振る。
「張勲らの動きと重なったのは偶然ですが、彼らが動かなくてもこちらの動きが無いとわかれば劉勲は袁術軍の吸収、または近隣の賊徒や野盗などを制圧吸収してその勢力を拡大させ、我々にとっての脅威となり、やはり徐州攻めは断念する事になっていたでしょう。勝てる見込みのない水軍を動かし、またその情報を流す事で兵力を増強せずに徐州を守る事に成功している手腕は見事と言う他ありません」
「気に入らんが、まぁ言っても始まらないな。劉勲のヤツと遊んでやる事にするか」
簡単に言う孫策だったが、劉勲の勢力は遊んでやると言えるほど小さなモノではない。
完全崩壊した袁術軍ではあったが、一太守に過ぎない劉勲からすればその残党でも十分過ぎる戦力であり、それらを奪い取ったと言うのであれば、これからも動きやすくなるくらいの戦力増強である。
「じゃが、当然弱点もある。伯符は好きじゃ無いかも知れんがのう」
「何だ? 負ける事より嫌いな事はそう多くはないから、言ってみろ」
魯粛に策がある事を知った孫策は、そう促した。
「なーに、別段珍しい事をやろうと言う訳ではない。戦うのが面倒であれば、和議を結ぶんじゃよ。劉勲は今のところ曹操と手を結んでおる訳ではないのじゃから、こちらから手を差し伸べてやるんじゃ。劉勲は大計を持たず、目先の利で動く程度の男のようじゃしのう」
「何故そう思う?」
「袁術軍の残党に喜んで飛びつく辺り、それが抱える問題が見えておらんんと言う事じゃ。これもさして珍しくも、特に隠れている訳でもない、分り易い問題じゃがの」
いつもなら魯粛の策をすぐに見抜く孫策だったが、この時にはいまいちピンと来ていない様だった。
と言うより、例え一時的にであったとしても劉勲と和議を結ぶと言う事が気に入らないのかもしれない。
「よし、分かった。委細は総て子敬に任せるとしよう。好きな様にやってみろ」
「……それは有難いが、どんなモノか聞いたりしなくても良いのか?」
「失敗したら全部お前の責任だから、良いんだよ」
「ワシは良くないが、まあ、言うても仕方無いのぅ。では、さっそく劉勲のところに行ってくるわい」
「魯粛殿自らが出向くのですか? 和議の使者と言うのであれば、私が出向いても構わないのですが」
周瑜の提案を、魯粛は笑って拒否する。
「形の上では和議の申し出じゃが、ワシの考えておる事はど汚い詐術で劉勲をハメようとしておるのじゃ。お主の様な者がやる事ではない。じゃが、そうじゃのう、一人護衛を連れて行っても良いかのぅ」
「お前に護衛がいるとは思えないが、誰が希望だ? 俺か? 俺が一緒に行くか?」
「いや、伯符はいらん」
ここでは妙に乗り気な孫策だったが、魯粛ははっきりと拒絶する。
「太史慈が良いのう。やはり、見た目も重要じゃ」
「……俺ですか? こう言ってはなんだが、俺が護衛では心配の種が増えるのでは?」
「安心せい。ワシも言うほど信用されてはおらん。じゃから、結果を出すんじゃよ」
魯粛は笑いながら言うと、立ち上がる。
「さて、ちょいと劉勲をからかってくるわい。伯符にはいらん世話かも知れんが、いつでも戦に出られる様に、心の準備だけは忘れるでないぞ」
魯粛はそう言うと、自身で書いた書状と太史慈を伴って劉勲の元へと向かった。
陳登対孫策
文字にすると勝敗は誰の目にも明らかに見えてしまいますが、時期や規模はいまいち分からないものの、この二人はぶつかり合っています。
先に攻めてきた陳登を孫策が迎撃して打ち破り、その勢いに乗って徐州を攻めたもののそこでは陳登に守られて、結果は一勝一敗と言う感じに落ち着いてます。
そもそも陳登が演義では父である陳珪とセットで、呂布をハメる為だけに出てきた様な存在なのでとても将軍っぽくないのですが、正史を見る限りでは相当優秀な武将だったみたいです。
一説では、許昌急襲を計画していた孫策が本当に狙っていたのは許昌ではなく陳登だったとか言われるほどです。
また一方では陳登が許頁の残党に孫策暗殺を促したとも言われています。
ほとんど接点の無いと思われた二人ですが、お互いを危険視するほどの何かはあったみたいです。




