第二十八話 孫策軍に加わる者
祖郎を降した孫策の元に、急報がもたらされた。
周瑜が太史慈を降したと言うのである。
「太史慈? あの、太史慈ですか?」
祖郎は驚いて孫策に尋ねる。
「ああ、その太史慈だ。もっとも、俺が知っている太史慈は一人しかいないから、別人ではない事を祈るしか無いが、祖郎の言う太史慈は劉繇のところにいたヤツで間違いないか?」
太史慈は劉繇にこそ重用されてはいなかったものの名の通った武将であり、祖郎としても警戒していた武将の一人である事を孫策に説明した。
「なんでも反骨の相があると言う事で信が置けないと言う事でしたが」
「反骨の相、ねぇ。大方戦も知らない腐れ儒者の戯言だろうが、良い面構えだったぞ。俺は気に入っている。今頃は相当悔しがっているはずだから、さっそく見に行くとしよう」
孫策が以前太史慈と一騎討ちを行った為に面識があると聞くと、祖郎は驚いた。
もっとも、その事を知って驚いたのは何も祖郎だけではない。
一騎討ちを中断させた後、孫策は黄蓋や程普からがっつり説教され、張紘からもやんわりと、張昭からはこっぴどくやられたらしい。
もっとも、それがどれほど孫策に響いているかは分からない。
「待て、伯符、飛び出すな」
いつもの様に思い付きと行動が直結しているところを見る限りでは、まったく響いていない様に見える孫策が馬を走らせようとするのを、魯粛が止める。
「お主の性格の悪さはよう知っておるし、自分の楽しみの為であれば疲れなどまったく感じないのじゃろうが、ワシら一般人はごく普通に疲れもするのじゃ。今すぐ全軍全力疾走は無理じゃ」
「む? なら仕方無い、子敬。お前だけ付いて来い」
「何でワシが?」
「全軍、特に混成軍の祖郎の軍は疲れているだろう。呂範や孫輔の軍も伏兵として俺達より先に戦場に出ていたのだから、当然こちらも疲れている。俺の率いた軍は呂範に任せるとすると、お前、いても役に立たないじゃないか。仕方無いから役に立たせてやろうという、主の温情がわからないのか?」
「いわゆるお節介と言うヤツじゃな。ワシがお主の軍を率いて曲阿で待っていてやろう」
「おいおい、主を単身でうろつかせるなと言う意見は子敬も言っていただろう? お前が護衛なら俺も心強い。と言う訳で行くぞ」
孫策が駆け出すので、魯粛は呂範達に目を向ける。
祖郎はそっと視線を外し、孫輔は苦笑いし、呂範は笑顔で手を振っている。
どうやら誰も助けてくれないらしい。
そう言う事もあって、魯粛は孫策の全速力に付き合わされる事になった。
「……随分と早いですね」
孫策と合流した周瑜は、その言葉を絞り出すのが精一杯といったところだった。
「おう、太史慈に早く会いたくてな」
孫策は楽しげに言うが、その後ろには疲れ果てて恨めしげな目を向ける魯粛がいた。
「……お疲れの様で」
「あやつ、あの性格を治さぬ事には、いずれ取り返しのつかぬことになるぞ」
「言って聞く人ではありませんから」
「……うむ、まぁ、そうじゃのう」
魯粛としてもため息混じりに納得するしかない。
この孫策と付き合っていけるのだから、それだけでも周瑜の非凡さがうかがわれる。
自信家である魯粛をして、この男は自分より上だと認められる男、それが周公瑾である。
「よう、太史慈。久しぶりじゃないか」
孫策の前に引き出されたのは、捕らえられた太史慈だった。
いかにもな凶相は相変わらずで、戦いに敗れ縛られているとは言えその鋭い目からは戦意が失われていない事が見て取れる。
「相変わらず、良い面構えをしているな」
「敗者を嬲るか。切れ。驕り昂ぶる貴様にはお似合いではないか」
「おいおい、がっかりさせる様な事を言うなよ。太史慈子義、お前には期待しているんだぞ?」
今にも襲いかかってきそうな太史慈と違って、孫策は妙に楽しそうな笑顔を浮かべたままに言う。
「期待? 敗軍の将に何を期待すると言うのだ?」
「小さい事を言うな。お前はもっと大きな男だろう。太史慈よ」
孫策が口調と表情を改め、太史慈に言う。
「お前が太守を自称してでも俺に抵抗したのは何故だ? 太守と言う地位が欲しかったのか? 違うだろ? 自分が優秀である事を見せつける為だけに兵の血を流させ、俺と戦おうとしたのか? 違う! お前は主を求めたのだろう? そうでもなければ単身で敵中の囲みを破って救援を求める様な忠義を示す事も無く、逃げた主が戻ってくる事を信じたからこそ、太守を自称し、俺に背いているんだろう? 反骨の相、その程度の気概を見せてこそではないか!」
孫策は太史慈を一喝する。
「この孫策が許す。主に対する忠義を示す為と言うのであれば、構わぬ。存分にその武威を示し、己が忠義を天下に示せ。だが太史慈よ、お前の忠義を捧げる主は劉繇如きで足りるのか? お前の才に釣り合う主ではあるまい」
孫策はそう言った後、自らの手で太史慈を縛る縄を切る。
「俺に仕えろ、太史慈。俺ならお前の忠義に応えられるぞ」
孫策はそう告げた後、自らの上着を脱いで太史慈に掛ける。
「だが、強制はしない。俺に背くと言うのであれば、それはもちろん構わない。その時にはその上着は実力で取り返す事にするさ」
今までの厳しい表情から、まるで少年の様な笑顔で笑うと孫策は気楽に太史慈の肩を叩く。
「ぅをい、軍師抜きで何を決めておるのじゃ、お主は」
「はっはっは! 主と言うのは、そう言う者だ」
孫策は魯粛に向かって手を振ってあしらう。
「……本気で言われているのか、孫策殿?」
太史慈が孫策に尋ねる。
「もちろん。俺はそれだけ太史慈子義と言う男を買っている。だが、俺が仕えるに値しない主であるのならば、それはやむを得ない。その時には雌雄を決しようではないか」
「付き合わされる身にもなれ」
魯粛の言葉は聞こえないらしく、孫策は太史慈に笑顔で答える。
「分かりました、孫策殿。いや、我が主。この太史慈、主孫策の為に身命を投げ打って忠誠を誓います」
太史慈はその場に跪いて、孫策に忠誠を誓う。
「うむ。だが太史慈よ、もしこの孫策が仕えるに値しないと思ったのであれば、その時には背く事を許そう。上着はその証だ」
孫策は大きく頷いてそう言った後、魯粛と周瑜の方を向く。
「と、言う訳で宴だ! 宴の準備だ!」
「無茶言うな。ワシは今、お主と一緒に来たばかりじゃろうが。公瑾にしても戦が終わった後じゃぞ?」
「……まぁ、伯符なら言いかねないと思って最低限の用意はしていたのですが」
周瑜が苦笑いして言う。
「黙っておれ、公瑾。主を甘やかすな。ダメなモノはダメと言ってやるのも臣下の勤めじゃぞ?」
「公瑾、宴だ!」
周瑜の言葉はしっかり聞こえていたらしく、孫策は大喜びで言う。
結局押し切られる形で、簡易的にとは言え宴が行われる事になった。
とは言え、普通は孫策ほど肝が据わっていると言う事も無く、また太史慈の評判とその凶相も相まって今ひとつ盛り上がりには欠ける。
それも当然と言えるのだが、孫策だけはそんな事を思っていないらしく、本当に楽しそうである。
「孫策殿、厚かましい事ではあるが、一つ提案させてもらってもよろしいでしょうか」
太史慈がそう切り出す。
「何だ? 酒の席ので事。大抵の事は不問とするぞ?」
「明日一日で構わないので、行動の自由を約束してもらえないだろうか。俺が率いた兵の他にも劉繇軍の残党とも言うべき兵がいる、それらを集めて、改めて主の元へ戻ってこよう」
「良いだろう」
孫策は二つ返事で答える。
「いや、待て。良いだろうではない」
さすがに魯粛が口を挟む。
「いくらなんでも安請け合いが過ぎる! 行動の自由を約束したとて、戻ると言う保証も無いのじゃぞ?」
「いらんだろ、そんなモン。子義は戻ってくるさ」
孫策はキョトンとして、魯粛に言う。
「いや、じゃからのう」
「いいって、そんなモン。気にすんなよ」
「するわ!」
魯粛は食い下がったが、孫策は聞く耳を持たないと言う態度を崩さない。
「悪く思うな、太史慈よ。ワシはそなたを疑っておると言う訳ではなく、誰であっても同じ様に言うたじゃろう。それはわかってくれるな?」
「無論。参謀、軍師であれば当然の言葉。しかし、口約束に過ぎないが信じてもらえないだろうか」
「主が良いと言っているんだ。頭でっかちの言う事なんか気にするな」
孫策はどこまでも気楽に言う。
魯粛はまだ粘ろうとしたのだが、孫策を説得できるとも思えず、また周瑜に止められた事もあって譲る事にした。
「伯符、もし太史慈が戻らなかった時には、さすがに投降は認める事は出来んぞ?」
「そんな心配いらないって。子義は必ず約束は守るさ」
魯粛は念を押したが、これは必ずしも魯粛個人が太史慈を嫌って言っているのではなく、孫策以外のほぼ全員が考えていた事を魯粛が口にしているに過ぎない。
魯粛自身が言った様に、評判が悪い太史慈だからと言う訳ではなく、つい先ほどまで敵同士だった人物を完全に信じて行動の自由を約束する方がどうかしていると言うべきである。
が、孫策にはその様な警戒心は欠片も持ち合わせていないらしく、その備えの必要性さえも頭の片隅にも浮かんでいなかったらしい。
だが、結果として魯粛の警戒は杞憂に終わった。
太史慈はその言葉通り、自身の率いた兵の他にも数千もの兵を率い、合わせて一万近い兵を連れて孫策に下ったのである。
「これだけ兵がいれば、まだまだ戦えるのではないか?」
孫策が笑いながら尋ねると、太史慈は軽く首を振る。
「戦えたとしても、勝目はありません。無駄に兵の命を捨てる様なモノ。この太史慈、名将などとは口が裂けても言えない凡愚なれど、そこまで愚将にはなりきれません」
「その判断が出来るのであれば、凡愚とは程遠いな」
こうして孫策は、祖郎と太史慈と言うかつて敵対していた武将を得る事になった。
だが、加わる者もいれば、意図せぬ形で去る者もいた。
張昭が推挙した鄧当と言う武将がいた。
荒くれ者達が多く加わった孫策軍の中で十分な教養のある、知勇兼備の武将だったのだが、四十代になったばかりだと言うのに病に倒れたのである。
「鄧当、まだまだこれからではないか。俺の軍には、お前の様な地に足がついた武将が必要なのだ」
孫策は鄧当を見舞いに来たのだが、その顔に消えようのない死相が出ている事が見て取れた。
この時代、医学は妖術や呪いの類とみなされ、その社会的地位は著しく低く、占い師の方が信用されていた程である。
その為、病と言うのは死に直結する事も少なくなかった。
「孫策殿、この鄧当、もはや主の役に立てそうもありません」
土気色の顔ではあるが、鄧当はどこか誇らしげにも見えた。
「ですが、さしたる才覚も無く誇れる武勲も無い私ですが、二つの幸運によって冥土でも胸を張っていられます。その一つは、私はこの上ない名君に仕える事が出来た事。若くとも天下の英雄たる孫策伯符に仕える事ができ、その名君に看取ってもらえる。これほど誇れる死が他にありましょうか」
「鄧当よ。そこまで言ってもらえるのは嬉しいが、俺はまだお前には生きていて欲しい。少し評価を落としても構わないから、生きてもらえないか?」
孫策の言葉に、鄧当は弱々しくも笑う。
「ご冗談を。ここは冥土でも存分に自慢せよと言われるところでしょう」
鄧当の言葉に、孫策は黙って頷く。
「もう一つは、その者に私の兵を残す事が出来た事」
鄧当は傍らに控える少年の方を見て言う。
「我が君、孫策様。この者、まだ年若く荒削りなところも多いですが、その大器は天下を担うに足る類稀なる者。何卒私に変わってお仕えする事をお許し下さい。きっとこの鄧当の十倍の働きをしてくれましょう」
「うむ、約束しよう。その方、名は何という?」
「はっ。姓は呂、名を蒙。字を子明と申します」
「呂蒙? 鄧当の息子ではないのか?」
孫策は横になったままの鄧当に尋ねる。
「私には後を継ぐ子は無く、またこの子は、今は亡き我が親友の息子です。が、もし私に後継の息子がいたとしても、この呂蒙に後を継がせた事でしょう」
「そうか。分かった、鄧当よ。お主の死を賭しての推挙、しかと受け取った。呂蒙よ、鄧当の兵を率いて我が軍の将軍の列に加わるが良い」
「御意!」
こうして孫策は、鄧当を失ったものの若き武将である呂蒙をその傘下に加えたのである。
着々と強化されていく孫策軍であったが、彼らの軍略を最初から練り直さなければならない凶報がもたらされた。
徐州の武神、呂布が曹操に敗れ討たれたと言うのである。
本来なら
祖郎と太史慈ですが、正史でも演義でも袁術との戦いの前に孫策軍に加わっています。(祖郎は正史のみ)
謎の武将、鄧当に関してはいつから孫策軍に加わっているのか、具体的にどんな手柄を挙げたどんな人なのかはわかりません。
ですが、この人の残した兵を引き継いだ呂蒙がそのまま孫策軍に加わった事は事実で、そこで名前が出てくる武将です。
なので、年齢も設定も創作ですが、この頃の呂蒙少年の事を考えると知勇兼備というより力こそパワーな脳筋暴れん坊武将だったのかもしれません。