第二十七話 祖郎との決着
対袁術の連合は本拠点である寿春攻略こそ成し得なかったものの、動員した兵力から考えると圧勝とも言うべき結果を挙げた。
強大なはずの袁術軍だったが、曹操、劉備、呂布、孫策とこの時代ではこれ以上無いほどの戦上手な豪傑、英傑達を相手にしたのが運の尽きだったのかもしれない。
完膚なきまでに叩き伏せられた袁術を待っていたのは、歯止めのかからない淮南からの人の流出だった。
「はっはっは! 面白い事を考えたモンだな!」
戦から戻ってきた孫策が孫権から事の顛末を聞いて、手を叩いて喜んだ。
「誰だ? そんな良からぬ事を考えたヤツは」
孫策は笑いながら、魯粛に尋ねるが魯粛は知らん顔を決め込んでいる。
「おかげで子布やら顧雍やらから大忙しだと愚痴られたぞ。こっちは帰ってきたばかりだから、何の事かも分からないと言うのに」
「それよりこれからじゃろう。袁術めがこのまま黙って凹んだままとは思えん。はっきり言えば袁術に打てる手は無いのじゃが、それでも嫌がらせの為の努力は惜しまんじゃろ、あやつは」
「確かにな。さすがに連戦で兵にも疲れが見えて来ている。袁術にはこのまま大人しく潰れてもらう事を祈りたいところなんだが」
孫策はそう思っていたのだが、魯粛の予想通り袁術は自身の足元が大きく崩れていると言うにも関わらず、孫策に対して嫌がらせとも言うべき手を打ってきた。
祖郎が動いたのである。
もちろん今となっては祖郎と孫策では勢力に違いが有りすぎるのだが、孫策が言った様に連戦で兵に疲れが見えている事と、祖郎が率いるのが越族も含めた混成軍である事などから勝機を見出したのかもしれない。
「いや、これはそんなモンではないな。潰れる寸前とは言え、袁術がその気になれば祖郎などひとたまりも無い。脅されては祖郎も動かざるを得ず、それならせめて精一杯と言ったところじゃろうな」
「子敬はそう言うが、悪く無い手ではある。さて、こちらが出せる兵はどんなモンだ?」
「留守役で残っていた部隊をかき集めて、何とか五千といったところじゃのう。祖郎は三万近くで動いておるそうじゃ。まともに数の勝負を挑んでは勝目は無いぞ?」
「……五千、か」
孫策は考え込む。
本来であればうるさ型の張昭が口を挟んできそうなところなのだが、今は淮南からの住民流入によってそちらの方の対応に追われている。
「では、二千五百で祖郎を撃退するとしようか」
「半数で? それはいくらなんでも無茶が過ぎるのでは?」
程普や周瑜といった軍師が無言でいる事からか、韓当が口を挟んでくる。
黄蓋や陳武といった荒くれ寄りの武将達ですら、さすがにそれは無謀だと言う様な表情を浮かべていたくらいだ。
「無茶に思えるかも知れないが、祖郎にのみ注視する訳にはいかない。必ず太史慈も動くぞ。もし俺なら、この機会を見逃す事はしない。太史慈もその程度の戦術眼は持っているだろう。公瑾」
「はい」
「太史慈はお前に任せる。祖郎の事は俺に任せておけ」
「御意」
周瑜は二つ返事で即答する。
この事態を予想していたのかもしれないが、二人に何か意見を交わしていた様子は無い。
にも関わらず絶対の信頼の元で話を進めているのだから、大したものだと魯粛は感心していた。
祖郎に対して太史慈はまだ勢力的には小さい事もあり、守るだけなら問題ないだろう。
「さて、お疲れの中年武将は今回は留守役だな」
「あぁん? 俺はまったく疲れてないぞ? いくらでも戦ってやるわ」
黄蓋が挑発に乗る様に食ってかかるが、孫策は笑いながら黄蓋を押さえる。
「まあ、そう熱くなるな。俺に考えあっての事なのだ。それに年長組が手柄を独占しては軍が育たないだろう? ここは控えておけ」
孫策にそう言われて、黄蓋は黙っているしか無くなった。
「子敬、お前には働いてもらうぞ? 今回の軍師はお前だ」
「ワシか? 程普殿がおるだろうに」
「さっき言った通りだ。お前もそろそろ表に出るくらいには育てよ」
魯粛は程普に目を向けるが、程普は諦めろと言う様に軽く首を振る。
「軍師も何も、お主にはすでに戦術があるのじゃろう?」
「まぁな。ただ、今回の戦術と一番相性が良さそうなのは、公瑾や徳謀ではなくお前だと思うんだ」
魯粛としてはあまり気乗りしなかったが、孫策を説得する事は出来ないと諦める事にした。
祖郎と言う武将は、単純に武将としてのみの評価を下すのであれば決して無能とは言えない、かなり優秀と評すべき武将である。
そんな武将が大軍を率いていると言うのであれば、それだけで脅威だと言うべきだろう。
だが、問題は率いている大軍が混成軍と言う事である。
混成軍は比較的短期間で兵力を集めやすいと言う大きすぎる長所がある。
戦において兵力の差は勝敗に直結する要素であり、殆どの場合において大軍の方が圧倒的に有利であり、少数が多数に勝つのはむしろ例外と言えるだろう。
しかし、その長所と同じくらい大きな短所もある。
数ほどに兵力を活かせない事である。
かつての反董卓連合がまさにそうだった。
兵力において董卓軍を圧倒していた連合だったが、それぞれの勢力が兵を出し合って水増しした兵力であった為、出来る事なら自分達の勢力の兵を減らしたくないと言う思惑が連合の中に満ちていた。
また、手柄の奪い合いなども大きな問題になる。
これもまた反董卓連合で起きた問題であり、順当にいけば勝利は間違いなかったはずの連合だが、手柄の独占を嫌った袁術による身内からの画策によって孫堅は敗れ、それが引き金となって連合は崩壊の兆しを見せた。
祖郎がどれほど優秀であっても、その短所を完全に打ち消す事は出来ない。
それこそ袁術の時の様に大義名分が無い誰にとっても分り易い敵と、曹操や劉備、呂布、孫策と言った異常なほどの戦術眼を持った者達による、利害の一致も味方した連合でもない限り、その短所は連合軍で消す事は出来ない問題なのだ。
孫策の狙いは、まさにそこだった。
祖郎の大軍に向かい合う孫策軍は、騎馬が一千。
だが、その騎馬隊は堂々と祖郎の大軍に向かって正面から構えている。
「祖郎! よもや死を待つ屍である袁術など、恐るるに足りず! かりそめの王朝は露と消え、貴様が受け取ったと言う印綬にも何ら価値はない! 今すぐ降伏し、この孫策に仕えよ!」
「孫策、いかに小覇王と言われるお主でも、さすがにその兵力では勝目はあるまい。その武威武名に酔い溺れるのは若さの証。これ以上の欲は身を滅ぼすぞ」
「はっはっは! 案ずるな、祖郎よ! この孫策、その程度で酔って正体を失うほど酒に弱くはないからな!」
「すでに酔っていると言う自覚は無いらしいな。厳しい現実を教えてやろう」
先に動いたのは祖郎だった。
大軍の祖郎が、約半数もの兵力を一気に孫策に向けて押し出したのである。
「想定内とは言え、嫌な手を打ってくるものじゃな」
魯粛はため息混じりに、合図を送る。
その合図に反応して、伏せていた呂範の軍と従弟の孫輔の軍がその先鋒隊に左右から襲いかかる。
突然の伏兵は通常の軍、それが精鋭であっても混乱を呼ぶ。
それが混成軍、しかも異民族との混成軍となってはその混乱も大きい。
ここでも混成軍の短所が現れる。
連携の問題である。
共に訓練して練度を上げる事が出来ないと言う問題は、混成軍にとって簡単に解消される問題ではない。
その連携の拙さは、まさにこの様な混乱を引き起こした時に極めて危険な短所になる。
先鋒隊は異民族である越族が中心であったらしく、それぞれが独自の判断で伏兵に対処しようとする。
その結果、混乱は大きくなるのだが、実は単純な戦力比で考えると決して悪手とは言えない。
何しろ伏兵とは言え呂範の軍も孫輔の軍も数は少なく、また双方共に剛勇無双の猛将と言う訳でもない。
それぞれがそれぞれの持ち場で対処すると言う手で、実は対処出来てしまうのであるが、伏兵に襲われたと言う事で混乱しているだけなのだ。
もちろん、孫策の目的もこの左右からの伏兵で勝負を決めようとは思っていない。
もしここで決めるつもりなら、孫策も魯粛もこの人事は行っていない。
ここで決めるつもりであれば、黄蓋や凌操と言った歴戦の猛将を置くところだが、呂範と孫輔には全く別の役割があった。
この二人の伏兵は、混乱を招いた後に徐々に後退し、各個に対応しようとした部隊を引っ張る役目があり、それはむしろ猛将でない方が的確に動けるものである。
左右からの伏兵に引っ張られる形で、敵軍は無秩序な動きのままに左右に分かれていき、大軍であるはずの祖郎本隊正面への道が開けてしまった事に気付いていない。
いや、気付いていたとしても、どれほどの名将であったとしても、この混乱を瞬時に収める事は出来ない。
「行くぞ!」
その勝機を見逃す孫策ではない。
一千の騎馬隊は孫策直属の精鋭であり、その先頭を走るのは孫策自身である。
恐ろしい速さと鋭さを持って祖郎の混成軍を刺し貫き、それこそ祖郎が体勢を立て直すより早く祖郎に届くかに思われた。
が、祖郎本隊の兵士は直属の精鋭であり、かつて孫策自身も苦戦させられた強さを持っている。
しかも、勢いに乗る孫策軍であったが、それでもなお祖郎本隊の兵の方が多い事に変わりはない。
その本隊の兵が戦術や戦略を無視して主を守る為の壁として立ちはだかった為、いかに孫策と言えどそれを突き破る事は出来なかった。
はずだった。
足を止められた孫策軍の騎馬隊の内、百騎ほどが後方から孫策軍を離れてあらぬ方向へ切り込んでいく。
当然これは陽動であり、本命は孫策であると祖郎は読み、その小隊より孫策を押さえる事を優先した。
誰もが当然の対応だと思ったこの判断こそが、この戦の勝敗を分ける結果となった。
その百騎の小隊の突破力は、孫策の本隊と比べてもなんら遜色の無い破壊力を持っていたのである。
わずかな対応の遅れが、孫策本隊の足止めの部隊すら揺るがし、その僅かな揺らぎだけで孫策には十分だった。
「ここで決めるぞ! 皆、俺について来い!」
孫策が吠えると、一気に囲みを破り、祖郎が退くより先にその槍の穂先が祖郎の眼前に向けられる方が圧倒的に早かった。
「勝負アリ、だな」
孫策は笑いながら、祖郎に槍を向ける。
「お? そっちが早かったか。ワシが捕らえようと思っておったのじゃが」
わずか百騎を率いて陽動として動いていたはずの魯粛が、どこをどう突破してきたのか、祖郎本隊を抜いて孫策と合流してきた。
「……まさか孫策将軍以外にもこれほどの武将がいたとは思わなかった」
「だろ? これで軍師だって言うんだから驚きだよな?」
孫策が笑うと、魯粛は肩を竦める。
「こういう戦い方は、好きではないんじゃがな」
「何もお前さんが悪い訳じゃないさ。コイツがこれほどの腕だと知っているのは、ウチでも俺と公瑾の他にはいないだろうからな」
孫策が笑いながら祖郎に言う。
「いや、たぶん凌操の親父殿と凌統も知っておるぞ」
「祖郎、どうする? 勝敗は決した。ここで俺に降るなら、俺はその才能を認め旗下に加えるつもりだ。だが、降るのをよしとしないのであれば、俺は再戦の機会を与えるつもりはない。どうする?」
孫策は魯粛の言葉を無視して、祖郎に向かって問う。
もちろん、祖郎の答えは決まっていた。
魯粛の武勇について
年代は不明ですし、参加者も正確には分からないのですが、呉では孫権の時代に『呉軍最強決定戦』みたいな武芸大会が行なわれたそうです。
ちなみに優勝者は凌統。
特別意外でもなく、順当と言えば順当な結果と言えるのですが、その優勝インタビューで凌統は
「魯粛が出場していれば、結果はどうなっていたか分からなかった」
と言ったそうです。
個人の一騎打ちなどで魯粛が武名を挙げたと言う記録は無いのですが、魯粛自身が撃剣の使い手である事や荒くれ者達を総ていた事、その武勇と弁舌によって袁術軍をあしらって孫策の軍に加わった事などは正史に残っていますので、相当な使い手であった事は伺われます。
そんな訳でこの物語の魯粛も、孫策や太史慈級の武勇の持ち主ですが基本的には非常にトリッキーな戦い方を好むので、武将として彼らほど優れているかと言うとクセが強すぎて同列では語れないと言うところです。