第二十六話 偽帝、立つ
孫策の祝言と言う事もあって、曲阿全体がお祭り騒ぎとなった。
そんな中で、一人不機嫌な者もいた。
「子敬、ちょっと」
「む? ワシか?」
魯粛はその人物に呼び止められて、足を止める。
「祝言は合同って話じゃ無かったかしら? ウチの旦那様がいないんだけど?」
小橋が微笑みながら魯粛に言う。
「ああ、公瑾なら今は徐州におるらしいの。張紘先生と一緒に都に行く予定じゃったが、本人に思うところがあって呂布の元に留まっておるらしいわい」
「ええ、それは聞いているわ。それで、どうやって合同で祝言を行うつもりなのかしら?」
「無理じゃろ?」
魯粛は当然と言う様に言うが、小橋は美しく笑顔を浮かべているものの拳を握って小刻みに震えている。
「とりあえず、殴るわね。話はそれからよ」
「何故に?」
「私の気がすまないからよ」
小橋は笑顔のまま、握り拳を魯粛に向ける。
「待て待て。拳と言うモノは殴り慣れていない者は、怪我しやすいと言うぞ? 骨折は痛いぞー?」
「大丈夫よ、張昭先生に教わっているから」
「よりにもよって、そこから教わったのか」
「まず、一回殴る。それですっきりするかもしれないから」
「すっきりしなかったら?」
「するまで殴る」
「待て待て。喬公の名を汚す事になるぞ?」
「その程度で堕ちる名では無いから、安心して殴られなさい」
「待て待て。あの様子を見てみぃ」
あくまでも魯粛を殴らないと気がすまない小喬に対し、魯粛は何とか動きを制しながら、本当に楽しげな孫策と大喬の方を指差す。
「小喬よ、お主が伯符の事を嫌っておる事は十分過ぎるくらいに分かっておるわい。じゃが、お主の望みは姉の幸せでもあったじゃろう? あの顔を見てみぃ。あの顔は騙された者の顔か? 伯符が表面だけ騙そうとする事が出来る様な、器用な男に見えるか?」
小喬の最大の弱点は、盲目の姉である大喬と言う事は魯粛も知っている。
相手の弱点を突くのは当然の戦略でもある。
事実、殴るまで気がすまないと言っていた小喬の動きを止め、戦意を薄れさせていた。
「それに、公瑾ほどの男は天下に二人とおらんじゃろう。男のワシでも惚れ惚れするほどの男振り。それほどの男を射止めたのじゃ。そんなにむくれる事も無いじゃろう?」
手応えを感じた魯粛はさらに畳み掛けると、小喬は大人しくなる。
「そんな訳じゃから、公瑾の戻りを待っておれ。伯符の事が気に入らんならそれも構いはせんが、それでも姉の幸せに水を差す必要も無かろう」
「……きょ、今日のところは許してやるわ」
そうやって何とか小喬をやり過ごす事には成功したが、この幸せな時間はそれほど長くは続かなかった。
ついに袁術が激発し、皇帝を名乗って漢からの独立、むしろ漢は滅び自らの興した国こそが正当な国であるとまで宣言したのである。
「ついに来た、と言う訳だ。思っていたより時間はかかったが、計画通りだな」
先日使者として袁術の元に訪れた虞翻が、笑いながら言う。
「笑い事ではないぞ。本人の程度など問題ではない。名門袁家が漢を捨てたとなれば、それに追従する者も決して少なくない。その総力を持って曹操の許昌を攻め、皇帝陛下を廃してしまえばそれで新王朝の誕生となるのだ」
事の重大さを重く受け止めている張昭は、妙に弛緩した空気の漂う孫策軍の気を引き締めてようと、重い口調で諭す。
「張昭先生のお言葉、まさにごもっとも。しかも袁術はすでに偽帝の住む許昌を落とすと宣言までしている。早急な手を打たねば、我らとて高みの見物とはいかない」
孫策軍では文官は軽く見られがちなのだが、そこに武官の重鎮である程普が賛同すればさすがに笑って受け流すと言うわけにもいかなくなる。
「確かに、我々は袁術からの独立の動きを見せている。許昌の次は我らになる事だろう」
程普に続き韓当までも言うのであればと、ほかの武将達も気を引き締める。
「ここは公瑾と子綱先生に戻ってきてもらわねばな」
何事にも楽天的な孫策ですら本腰を入れる事態となったが、孫策が使者を出すより早く周瑜は単身で戻ってきた。
「張紘先生は都に留まると言う事で、私だけで帰還する様にと申されまして」
「そうか、それはそれで構わない。さっそく軍議を開く」
孫策は周瑜を迎え入れると、すぐに全員を集めて今後の行動について話し合う事にした。
と言っても、選べる選択肢は決して多くはない。
極端に言えば、袁術に付くか、漢に従うかである。
「選ぶまでもなく、漢に背くと言う事などありえません」
どうするかを悩むまでもない、と言わんばかりに周瑜が即答する。
「袁術がいかに名門であったとしても、それは漢の名門と言うだけであり、皇帝を僭称するなど言語道断。今は勢いに流されて人も集まっているかも知れませんが、そんなモノは烏合の衆に過ぎず、我らがその無能の集まりに参加する謂れはありません」
周瑜がらしくないくらいに強い口調で言う。
「だが、曹操や呂布には袁術の大軍を防ぐ備えがあると言うのか?」
「はい。少なくとも呂布将軍には袁術を恐れている様子は無く、対策は万全に近いと言えるでしょう」
張昭の質問に、周瑜ははっきりと答える。
「袁術が大軍を率いて曹操、呂布を攻めると言うのであれば、我々は袁術の本拠点である寿春を狙うべきです。袁術には大義無く、ただ思い込みと勢いだけで皇帝を名乗る偽帝。すでに曹操には討伐令が出されていると言われており、我々にも出陣の命令が下る事でしょう」
「公瑾の言葉は、ただの机上の空論ではなく、実際に徐州で呂布軍に触れてきた上での言葉であり、俺は信ぴょう性のある言葉だと思う。どうだ? まだ袁術に与するべきだと思うモノはいるか?」
孫策の言葉によって方針は定まり、孫策と周瑜の他、主だった武官達は共に出撃する事になった。
しかし、曲阿の回りにもまだ敵勢力が残っている以上、留守役は必要になると言う事になり、孫策の弟の孫権を守将としてその参謀役に魯粛と張昭も残される事となった。
「留守役かぁ。俺も兄上と一緒に戦いたかったんだがなぁ」
孫権はつまらなそうに言うが、魯粛は少し驚いて孫権を見る。
「何じゃ、仲謀。ここが戦場では無いと思っておるのか?」
「は? 違うだろ?」
「たわけた事を言うでない。確かに兵を率いての戦闘では無いが、我々には我々の戦があるのじゃぞ?」
「ほう、どう言う戦だ?」
「淮南を略奪する」
魯粛の提案に、孫権だけでなく張昭や顧雍と言った留守役や文官達も驚かされた。
「阿呆! いつまで山賊気分でおるのだ! 我々はれっきとした軍であるぞ! ただでさえ小覇王と言う汚名を着せられている事を忘れたか!」
張昭が床を踏み抜く勢いで立ち上がって、魯粛を指差して怒鳴る。
「魯粛殿、利とあらばそれを取りに行くと言うのは分からない話ではありませんが、得るモノに対して失うモノの方が多くはありませんかな? 私とてそれには賛成致しかねますが」
顧雍もまた、渋い顔で魯粛の意見を否定する。
「先生方は何か勘違いされておるようじゃのう。ワシが言ったのは淮南『を』略奪するのであって、淮南『で』略奪するとは言うてはおらんのじゃが」
「どう違うんだ? 単なる略奪行為なら俺も反対したが、子敬はそんな安い事を考えている訳では無さそうだ」
孫権だけは興味津々と言った表情で、魯粛に尋ねる。
「本来であれば子布や顧雍先生の方が専門家だと思うのじゃが、漢の高祖がいかにして楚の覇王項羽に勝利したかと言う話じゃよ」
魯粛の言葉に、張昭達は首を傾げる。
「韓信と言う国士無双の武将がいた事か? それもあるじゃろう。張良と言う天才軍師がいた事か? もちろんそれも一因じゃ。じゃが、大元は……」
「回復力か」
魯粛が言い切る前に、張昭が言う。
「さよう。高祖が覇王に対しどれだけ敗れ、負けに負けても最期には勝利したのは、勝つまで戦い続ける事が出来た事がもっとも大きく、高祖自身がそれを自覚したからこそ韓信でも張良でもなく、蕭何を第一功としたのじゃ。袁術にわざわざその故事をなぞらせる必要もあるまい」
「で、子敬。具体的にどうするんだ?」
「間違っても兵を率いて攻め込むと言う事では無いのじゃから、仲謀はあまり期待しすぎるでないぞ」
魯粛に先手を取られて、孫権はつまらなそうな表情を浮かべるが、それによって場の空気が少し和む。
「幸いな事に、今、この場には名文家の先生方が集まっておられる。そこで、淮南の有力者に宛てて文書を送って欲しい。内容としては、袁術が敗れた後の淮南の惨状についてじゃ。間違いなく、袁術が敗れた後には重税と徴収が待っておる。財貨のみに限らず、人的な徴収もじゃ。そうなってからは有力者の特権など、当然考慮される事も無くなると。袁術が敗れた後には、確実にそれが現実のモノとなる」
「……なるほど、淮南を略奪する、か。上手い事を言ったモノだな」
虞翻は楽しげに言う。
「名文家の先生達には書にて、名文家ではない我々の様なモノは今の話を淮南の隅々まで聞かせて回るのじゃ。江東の地は長江と言う自然の大堀に守られ、戦火を免れるには都よりむしろ江東の方が良いと付け加えてのう」
「悪党め、気に入ったぞ!」
孫権は手を叩いて、魯粛の提案を受け入れる。
「そう言う事であれば、私も協力致しましょう。なるほど、淮南を略奪とはそう言う事でしたか。確かに広大な土地があっても人がいないのであれば、回復力も機能しなくなりますな」
「人が増えれば、商売も上手く回ると言う事か?」
顧雍と違って、張昭はどこか気に入らないと言う表情で魯粛に尋ねる。
「人が増えただけで商売が上手く回ると言う事は無いが、袁術を弱め、孫家を強めると言う事においてもこの策は優れておるじゃろう? 子布よ、良いモノは良いと認める事も大事じゃぞ?」
魯粛にからかわれて、張昭は魯粛に殴りかかりに行く。
本来であればこの場には数多くの武将達がいて、その者達が張昭を止める役割があったのだが今は孫策と共に出撃している為に、魯粛は素早く逃げ回る。
「淮南の無人化は単なる袁術弱体が目的にあらず。今後の戦略は陸路にて荊州を、水路にて徐州を、どちらにせよ他勢力の攻め手を絞る為にも淮南を荒らす事は我らの利となるのじゃ。戦術戦略両方から見ても十分な利であろう」
魯粛の提案に対し、張昭は代案を出すことが出来ず、積極的にとは言えないまでもついには賛成する事となった。
「袁術との戦、正直に言うとさほど長くは続くまい」
家臣団がそれぞれの仕事につく為に解散となった後、魯粛は孫権に向かって言う。
「先ほどは荊州と徐州と申したが、天下の趨勢を占うのは袁術が敗れた後には皇帝を擁する曹操と、最大勢力である袁紹との戦いになるのは明白じゃ。伯符はひょっとすると、その隙をついて皇帝を奪う事さえも考えておるかもしれん」
「兄上が?」
「それくらい飛躍した事も考えつくヤツじゃし、それを実行出来るかどうかを考える頭脳として公瑾もおる。先の話ではないが、それを支える柱、蕭何の役割を担うお主の責任も重くなるぞ」
「ふっ、そう言われると、留守役も悪く無いと思わされるな」
孫権はそう言って笑うが、本人の望みとは違った形でさらに重い責任を背負う事になるとは、もちろん想像もしていなかった。
略奪in淮南
この物語では行っていない事になっていますが、正史のクズ感満載な山賊時代の孫策はがっつり略奪行為を行ってます。
それはもう、周りがちょっと引くくらいの略奪行為を行ってます。
その後、みんなの期待を背負った仲王朝の皇帝が期待に応えて重税を課して、最終的にはハチミツも手に入らない様な状況になりました。
さらにその後、曹操が占領地宣言した事によって住民の大量流出が起き、鄧艾が手を加えるまで広大な荒野になりました。
そこに戦略的意図があったかは不明ですが、呉の国防の観点から考えると目の前に肥沃な大地が広がるより、広大な荒野であった方が守るには都合がよかったのではないかと思って、勝手に戦略としました。