第二十五話 厳虎との決戦
「小覇王、か。許頁よ。いかにお主が敗れた相手とはいえ、少々過大評価が過ぎるのではないか?」
「徳王、奴は礼儀を知らない若僧ではあるが、戦に関してだけは天才的だ。徳王とては百戦錬磨であり古今無双の名を欲しいままにしているとは言え、江東の虎の息子は決して親の七光りとばかりは言えない」
「違うのだ、許頁よ。戦とは、必ずしも戦場で勝敗が決まるモノではない。確かに孫策は戦場では大した腕なのだろう。劉繇と王朗は誰にでも倒せると言うものではない事は我も知っている」
厳虎はそう言うと、凄みのある笑顔を浮かべる。
「が、我とて戦えば勝てたであろう。だが、甘い」
厳虎はそう言うと、不安そうな許頁に説明する。
魯粛と会っていた時の伝令がそうだったのだが、孫策が兵を率いて会稽を出たと言う情報だった。
孫策軍は連戦であり、しかも手勢は多くはない。
今は勢力を伸ばしているとは言え、その大半は投降者であり、厳虎や許頁の常識では有り得ない。
裏切りの危険は避けるべきであり、普通投降者はいきなり戦場に出そうとしても士気が低く数ほどの働きは出来ないものだ。
つまり水増ししただけの兵力は少し突くだけで混乱を招き、逆に軍を崩壊させる危険もある。
「孫策も最低限の事は分かっている様だが、それだけだ」
厳虎の伝令が伝えてきた情報は、実は許頁も手に入れていた情報である。
孫策が会稽を出た、と。
しかもその兵力は二千。
孫策は急襲を狙い、その意識を逸らす為に魯粛がやって来て好き勝手振舞ったと言う訳だ。
本来の戦術で言えば、厳虎は孫策の急襲に備えられずに籠城するしかなくなり、その間に孫策は別の勢力を飲み込みながら時間を稼いで、兵力が整ってから本格的に攻め込んでくるのが狙いだろう。
そこで厳虎は孫策の先手を取る事にした。
厳虎は五千の兵を率いて城を出て、孫策軍の頭を押さえる為に待ち構えたのである。
厳虎の率いる兵は漢の民ではなく、南方に住む異民族である越族の者で構成されているので装備の質では劣ったとしても、身体能力では遥かに上回る。
騎馬同士のぶつかり合いでは練度の違いもあるかもしれないが、歩兵同士のぶつかり合いではまず負ける事は無い。
その絶対の自信があったからこそ厳虎は開戦に踏み切り、許頁もそれに同意したのだった。
が、あまりにも楽観が過ぎたと思い知る事になった。
厳虎が戦場に着いた時には、すでに孫策の大軍が突撃体勢を整えて待ち構えていた。
「こ、これは? 二千では無かったのか?」
許頁は愕然として厳虎に問い詰める様に尋ねるが、厳虎にしても答えられるはずもない。
「ここは今すぐにでも引き返すべきでしょう。敵の備えが万全なのは、策に乗せられたと言う事。無理押しして犠牲を増やすべきではありません」
厳虎と許頁に、そう進言する者がいた。
董襲と言う下位武将であり、声と口が大きいと言う特徴がある事もあって人を覚える事が得意とは言えない厳虎が、家臣の中で覚えている数少ない人物の一人である。
「お、おお、徳王よ。ここは貴殿の家臣の言う事がもっとも。ここは撤退して籠城するべきだ」
許頁も董襲の意見に同意し、この時は厳虎もそれがやむを得ないと判断した。
「どうした、徳王よ! ワシの首、戦場で落として晒すのでは無かったのか! 尻尾を巻いて逃げ帰り、城で怯えて震えているのは似合っておるが、それではワシの首など孫の代までかかっても落とせはせんぞ! もっとも、孫の代まで生きてはおられんじゃろうがのう!」
魯粛が高らかにのたまい、それに合わせて孫策軍が大笑いするまでの短い間だった。
「おのれ、惰弱な漢人め! 切り伏せてくれようぞ!」
「挑発です! 乗ってはいけません! 孫策軍は何故かはわかりませんが、勝負を焦っている様子! 奴らは時間をかけられるのを嫌がっているのは明白ではありませんか! ここは引いて立て直すべきです!」
「黙れぃ! おのれら漢人は戦の事をまるでわかっておらん!」
厳虎は怒鳴ると、自ら手に取る大刀を待ち構える孫策軍に向ける。
「敵が大軍であると怖気づいているようだが、どれほどの大軍であったとしても孫策は一人なのだ! もう一つ、奴らの布陣を見よ! 一戦にて勝負を決めたいのは董襲の申す通りであろうが、それ故に孫策めは突撃布陣の先頭におるわ。敵は大軍にあらず、ただたまたまツキがあっただけの傲慢な若僧一人のみ!」
「無謀です! それはただの願望であって、戦術では無い! いや、願望であればまだ良い! そんなモノはただの妄想だ! そんな事の為に犠牲になれと申すか!」
「董襲、なんだ、その口の利き方は!」
怒りを抑えられずに進言していた事もあって、厳虎に言われて董襲は一度深呼吸する。
「孫策はこれまでの相手とは違います。一度引いて体勢を立て直し、改めて当たるべき相手と……」
「怖気づいた上に言い訳とは、まさに漢人らしい物言いよの。今であれば油断しておるのだ。勝機は今しか無い! キサマら漢人が先駆けとなって突撃し、その後我が孫策の首を刎ねてやろうぞ! さあ、戦って忠義を示せ!」
それは頭に血が上っていたとは言え、厳虎が言ってはならない言葉であった。
「何か、モメてるみたいだな」
孫策は槍を肩に担いで、魯粛に言う。
「十分に煽ったつもりじゃったが、厳虎のヤツめ、存外冷静じゃったか。あるいは、配下に恵まれたかのう。じゃとすれば、ちょいと面倒になるやも知れんの」
「いや、逆に楽に収まるのではないか?」
そう言ったのは黄蓋だった。
「世の中は貴様や徳謀の如きヒネクレ者ばかりではない。誤った主に仕えた事を悔いる義侠心溢れる者はおるはずだからな」
「ふむ、ワシはヒネクレ者の自覚はあるが、程普殿もそうなのか?」
「アレは筋金入りだ。なぁ、伯符よ」
「そうでないと父上の軍師は務まらないさ」
孫策は笑いながら同意する。
その程普は、いかに策の為とは言え会稽を無人地帯にするわけにはいかない事から留守役に甘んじているので、言いたい放題である。
魯粛の立てた策は相変わらず子供の悪戯に近いモノであり、普通なら簡単に見破られる程度のモノなのだが、使い方によっては想像を絶する効果を生む。
仕掛けは極めて簡単で、武将達が会稽を出る時に
「孫策軍、二千。これより厳虎討伐に向かう」
と叫ばせたのである。
完全に腕力自慢な厳虎はともかく、小細工好みな許頁がこちらの動静をうかがっていないはずがない事を逆手に取り、意図的に情報を流したのだ。
が、二千を率いて出ると言う以上、実際には五千の兵を率いて出ると言う様な行動では簡単にバレてしまう。
そこでさらなる小細工として、そう宣言して会稽を出る武将達は、会稽のあらゆる門から同時に出立したのである。
もちろん間者や斥候の排除も必要になるのもこなしている。
それだけでなく、曲阿や前線基地であった牛渚、さらに許頁を打ち破った朱治達も同じように参戦してきた事もあって、実際の戦場には二万近い兵が集まっていたのだった。
魯粛の見立てでは、腕力自慢の厳虎は策にハマった後に一度退いて体勢を立て直す様な事はせず、総大将である孫策を討てばそれで勝てると判断すると思い、わざわざ孫策を一番目に付くところに置いていたのだが、予想に反して厳虎の軍は攻め込んでくる気配は無い。
しかし、だからと言って退く気配も無かったので、魯粛は挑発したのだがそれでも動きが無いのである。
「こりゃ、家臣の線が濃厚だな。もし厳虎が冷静であったとしたら、出るにしても退くにしても動きがあるはずだ。それが無いと言う事は、別の誰かが何か言ったんだろう」
戦場での孫策の冴えは、超一流の軍略家と言うより千里眼の類としか思えないモノであり、魯粛にとっては理解に苦しむところもあるが、それが的確である事もさらに理解出来ない事でもある。
動きを待つ孫策軍だったが、厳虎の軍はやがて臨戦態勢を解いて動きを止め、そこから縛られた二人の男とそれを連れてくる兵士、さらに首桶を持った者が孫策の元へやって来た。
「ほらな」
「勝ち誇られると言うのは、思っていた以上にムカつくものじゃのう」
ニヤリと笑う黄蓋に、魯粛は苦笑いしながら言う。
縛られた男の二人は、実に対照的だった。
片方の武将風の男は、縛られているにも関わらず堂々としており、連れている兵士も彼の部下なのか気を使っている様に見える。
もう一方の男は血の気の引いた顔で、今にも倒れそうである。
その、血の気の引いた男の事は孫策も知っていた。
「許頁、人の事を小覇王と呼びながら、まさか戦って勝てるとでも思っていたのか? この毒虫めが」
孫策は許頁に向かって吐き捨てる様に言った後、武将風の男に目を向ける。
「貴将は何者だ? 何故縛られている?」
「厳虎配下の董襲と申します。孫策殿にお目にかかりたい」
距離感を間違っているのか、予想していたより数倍大きな声で名乗るので、孫策ですら驚いていた。
「お、おう。俺が孫策だ」
「孫策殿、どうか乱を企てる許頁と、それに踊らされていた厳虎、その首を切った不忠者の董襲をもって、どうか無用な戦を収め、兵や民には寛大なご処置を願います」
相変わらず物凄い大音量で言う董襲だが、必死に訴えていると言う訳ではなく地声がちょっと常人とは違う大きさらしい。
「はっはっは、そこの二枚舌のせいでよほど血を見るのが好きと思われているみたいだな」
許頁に対してとは違い、孫策は朗らかに笑う。
「……好きだよな?」
「……好きだよな」
魯粛と黄蓋はそう言っていたが、孫策は聞こえないふりをする。
「董襲、俺は敵に対しては容赦するつもりは無いが、敵で無い者に対しては寛容であろうと心掛けている。董襲よ、貴将の覚悟は確かに受け取った」
孫策はそう言うと、剣を抜いて自ら董襲の戒めと解く。
「だがな、董襲よ。俺などの為に不忠者のそしりを受ける事も、その手を汚す必要も無かったのだぞ?」
「無用な犠牲を出したく無かったのです。もし戦えば孫策殿の勝利は疑い無かったでしょうが、それによって落とす命は敵味方それなりの数になったでしょう。それを我が命と汚名程度で救えるのなら安いもの」
「よし、気に入った! 董襲よ、俺の元に降れ! お前は厳虎如きに仕えるべき武将では無かったのだ。まして、その程度の者を切ったからといって不忠者などと言われる様な男ではない。この孫策の元で、存分に武名を轟かせよ、董襲!」
孫策の宣言に、董襲は反対する理由も無く、頭を地につけて忠誠を誓う。
こういうところは、天下の大器と思わされるな。
いやでも感心させられるところがあるのは、魯粛も認めている。
「董襲、厳虎を切り許頁を捕らえた武功は認めよう。だが、主を切った事は許される事ではない。故に此度は賞罰無しとする。それで構わないな?」
「御意! この董襲、終生孫策殿に忠誠を誓います!」
ただでさえ声の大きな董襲が、感激のあまりに最大音量で叫ぶので、近くにいた孫策達だけではなく、戦場のほぼ全域にその宣誓は聞こえたのではないだろうかと思われた。
「さて、これにてほぼ江東の統一はなされたな。董襲、お前、良い時に軍に加わったぞ」
孫策はそう言うと、全軍に向かって言う。
「祝言を上げるぞー! 俺と大喬の祝言だー!」
大喜びでそう叫ぶ孫策だったが、その事実を知っているのが極少数と言う事もあって、孫策軍の盛り上がりは本人ほどでは無かった。
「無論、貴様の如き毒虫と共に祝うつもりも無いがな」
孫策はそう言うと、許頁を切り捨てた。
もしこの場に周瑜や顧雍の様な名士がいれば、あるいはその行為を止めたかも知れない。
だが、この場にいた者達は孫策の行動は当然の事だと理解し、納得していた。
演義と正史で順序が違います。
演義では厳白虎が先に戦って、敗れた後に王朗を頼ります。
正史では王朗が先に敗れて、その後に厳虎が敗れます。
この物語では正史の順番で戦っていますが、董襲が厳虎の配下として出てくるのは演義です。
ホントは篭城戦で孫策が厳虎の手を射抜くところも書きたかったのですが、引っ張ったところで厳虎はそんなに膨らませられる要素も無いので、董襲に切り捨ててもらいました。
ちなみに董襲の口と声が大きいと言う特徴は演義からです。
許頁については、この人本人に関して言うのであれば、特筆するべきところは何もありませんが、付属品の方には大きな仕事がありますので、その時に改めて触れるかも知れません。




