第二十三話 覇王項羽の相あり
会稽でも相変わらず捕虜を取らずに解放した孫策は、敵対した王朗ですら切る事をせずに放逐するに止めた。
孫策としては切っても構わないと思っていたところだったが、名声のある王朗を切るのは得策ではないと張昭や周瑜から止められ、そのまま会稽に留める事も良くないと言う事で会稽からの放逐と言う結果となった。
その一方で王朗の配下には寛大で、孫策に仕えると言う者はそのまま仕官を許し、仕えるつもりがないのであればそのまま解放した。
この時、虞翻は孫策の元に降り、彼の臣下となったのだが孫策の意識はすでに戦後処理に移った王朗ではなく、次の標的である厳虎に向かっていた。
東呉の徳王を自称してはいるが、別にその人徳を讃えられていると言う事も無く、正式な官職についているわけでもない。
虞翻の話では、山越の族長であり一族郎党を率いて勢力を築き、箔をつける為に自らの号を含めて厳白虎と名乗っていると言う。
王朗軍より好戦的で戦闘能力も高いと言う事だったが、かと言って大勢力であっても戦えるほどの戦略は持ち合わせていない様で、自分達の根城を守るのに精一杯で外に向けて戦う事はしていない。
「ほー、それじゃ巣穴から引っ張り出す方法を考えるとするか」
「考えるまでもなく、挑発すれば乗ってくるじゃろう? そこをぶっ叩けばそれで終わりじゃ」
魯粛は簡単に答えるが、意外な事に冷静沈着な程普もそれに頷いていた。
「そろそろ袁術に備える必要もある。ここは時間をかけずに勝負を決め、早めに足場を固めてしまう方が良い」
「おっと、その問題もあったか。それじゃ最初に袁術から借りた兵数に、色を付けて返してやるとするか。その上で、厳虎討伐にかかろう」
孫策はそこで軍議を終了させたが、孫策が解散を命じてもそこに魯粛と周瑜、孫権が残った。
と言うより、魯粛が残したのである。
「お、どうした子敬。何か秘密の話か?」
「うむ、秘密の話じゃ。以前噂になっておった玉璽はどうなったのじゃ?」
「玉璽?」
「うむ、反董卓連合の際に孫堅殿が持ち帰ったと言われておるモノじゃ。ソレがどこに行ったかを聞かせてもらえんかのぅ」
魯粛の言葉に、孫策は珍しく表情を曇らせる。
「どう答えたら良いかなぁ。もちろん本当の事を話すし、それが事実である事は公瑾にも仲謀にも確認してもらっても構わないんだが、それを信じてもらえるかは分からない話でもあるんだ」
「随分妙な言い回しじゃのう」
「結論から話すと、父上は『玉璽と思われるモノ』を拾った事は間違い無いんだ」
「玉璽と思われるモノ?」
「おう。何しろ誰も『本物の玉璽』を知らなかったんだ。拾ったモノが『たぶん違うけど、ひょっとしたら本物かも知れない玉璽らしきモノ』で、父上も扱いに困っていたんだ。ただ、袁家の連中が異常な反応を示したから、親父はあえて真贋を隠して持ち帰った。いずれ袁家を追い落とす為の切り札としてな」
「……なるほど、面白い事を考えたものじゃのう。孫堅将軍は漢を乱すつもりじゃったか?」
「それは誤解です」
周瑜が口を挟む。
「孫堅将軍は、漢に対して忠誠を誓う名将でした。一方の袁術、袁紹は漢の名門でありながら漢を蔑ろにし、いずれは自身が天下を狙うと言う野心も持ち合わせていました。漢の再興を考える場合、袁家打倒は必ず必要になる障害なのですから、その為の策の一つです」
「で、その『多分玉璽』は今どこにあるのじゃ?」
「袁術が持ってる」
さらりと孫策は答える。
「……何?」
「ソイツを担保に兵を出させたからな。今は俺の手元じゃなく、袁術が持っている」
「ふむ。ところで、袁術はその玉璽(仮)の真贋は分かっておるのか?」
「さぁな。多分分かってないんじゃないか? と言うより、本物である事を疑ってないって感じだな」
孫策が簡単に答えるが、周瑜の表情を見る限りでは孫策が言う様に袁術はその玉璽が偽物である可能性など考えていないのだろう。
普通に考えるのであれば、孫堅の持ち帰った玉璽は本物ではなく贋作、あるいは複製であると思われる。
焼き捨てられた洛陽から孫堅が見つけて持ち帰ったと言われているが、先帝の墓まで暴いて副葬品を回収したと言われる董卓が玉璽紛失にまったくの無言と言うのも不自然だったと魯粛は思う。
董卓自身もさる事ながら、相当な切れ者の腹心もいた事を考えると生きた皇帝を抑えているのだから、わざわざ玉璽にこだわる必要など無いと考えたのかもしれない。
あるいは玉璽を泳がせる事によって、それを手にしたお調子者が現れた時に逆賊として討つ名目にしたとも考えられる。
董卓やその軍師であれば、それくらいの深謀があってもおかしくない。
そして、形は違うが孫堅も同じ事を考え、これまた意図しない形であっても目論見通りに袁術の手に渡った。
「なるほどのう。ならば一つ、袁術には踊ってもらおうかのう」
「何か悪巧みですか?」
周瑜が尋ねると、魯粛は首を振る。
「人聞きの悪い事を言うでない。ワシは袁術殿の背中を押してやろうと考えただけじゃ」
魯粛はそう言って自身の策を練ろうとしたのだが、一時中断させられる事態が起きた。
朱治が許頁を打ち破ったと言う報告だったのだが、その時に入手した許頁が朝廷に送ろうとした書状が問題だったのだ。
「……覇王、項羽の相有り、だと?」
全身の筋肉をさらに一回り膨張させるかの様に、張昭は怒りに血管がブチ切れそうになっている。
「……項羽、か」
「伯符、何を満更でもないと言う顔をしておる」
ニヤニヤしている孫策を、張昭は睨みつける。
「伯符、分かっているのか? 漢の世で項羽と例えられると言う事は、我らは賊であると言われておるのだぞ? まして、いずれ大敵となる恐れがあるのだから、早めに摘み採れと言われておるのだ! 今の皇帝とそれを奉じる曹操にその力が無いにしても、袁術に大義を与える事になるのだぞ!」
「分かってるって、子布。それ以上怒ると、血吐いて死ぬぞ?」
「儂を憤死させようとしているのは、お前だ! 伯符!」
「少し落ち着きましょう。ここにも憤死しそうな者もいますので」
程普が怒りに体を震わせている黄蓋を抑えながら言う。
それが孫策が項羽に例えられている事に対する怒りなのか、孫策に対する張昭の態度に対する怒りなのかは分からないが、確かに憤死しそうなくらい怒っているのは分かる。
「張昭殿の言う事ももっとも。我らは賊を討伐しているのであって、我らが賊扱いを受ける謂れはありません。覇王項羽の相とは、言いがかりも甚だしい」
程普はそんな黄蓋を抑えながら、張昭に賛成する。
「さしずめ小覇王が妥当じゃしのう」
「子敬、お主も殴られたいらしいの」
魯粛が小声で呟いた事も聞こえたらしく、張昭に睨まれる。
「小覇王、か。ま、今のところはそんなモンだろうな」
「だから、何で満更でもない顔をしておるのだ! ここは怒るところだろうが!」
「怒ってどうにかなるモンじゃないだろ? 言いたい奴には言わせとけよ。俺にそのつもりが無いと言うのを分からせれば良いんだ」
孫策は簡単に言う。
「具体的にどうするつもりじゃ?」
「知らん。それを考えるのは俺じゃなくて、お前たちの仕事だろう?」
魯粛の質問に、孫策はこれも簡単に答える。
「その為の参謀だろう? 何か良い方法は無いか?」
孫策の質問に、魯粛も張昭も考え込む。
今は地盤を固める事が最優先なのだが、それだけに勅命と言う大義を振りかざして袁術に介入される事はなんとしても避けたいところでもある。
今の状態で袁術に全力で攻め込まれた場合には勝目は薄く、またそれを撃退した場合にも孫策軍は漢の正規軍であり勅命を受けた袁術軍を退けた賊軍と認定され、次には袁術だけでなく荊州の劉表や、徐州を得た呂布や皇帝を奉じる曹操と言った面々も敵となる。
「一つ、考えがあります」
周瑜が挙手して言う。
「公瑾、言ってみろ」
「官職を得るのです。正式に漢の官職を得れば、我らを賊と罵る者はいなくなるでしょう。また、我らを賊呼ばわりした許頁の狭量を世に知らしめる事も出来ます」
「なるほど、それは妙案。さっそく儂と共に都へ行くとしよう」
「待て、子布。ここは子綱先生と公瑾に行ってもらう。使者には上品な者の方が良い」
孫策が自ら名乗り出た張昭を退ける。
「何じゃ、儂が下品とでも言うのか?」
「下品ではないけど、どう考えても脅迫の使者に見えるだろ? 子布が行くと。その点、子綱先生と公瑾だったら、穏便に済むだろうし」
「確かに」
孫策の言葉に納得したのが魯粛だったらまた張昭から睨まれるところだったが、そう言ったのが程普だった為、張昭は言葉に詰まった。
「張昭先生には殿と若殿を見ていてもらわねば、また自身を小覇王などと名乗って調子に乗られる恐れがある」
「むう、それは確かに」
「良い響きじゃと思うがのぅ、小覇王」
「黙れ、子敬。その様な俗称、口にするでないわ!」
「そこまで正当性にこだわる必要があるとも思えんがのう」
「いや、ここは張昭殿の言われる通りだ。その俗称は使うべきではない」
虞翻も張昭に賛成している。
「あまりに広まってしまうと、それが事実として扱われる事になる。既成事実が出来てしまった後で官職を得たといしても、賊が着飾っているだけに見られるだろう。今でも近い見られ方をしている事だし」
「言っている事は分かるが、言い方は良くないな」
程普が虞翻を諭す。
「まずは張紘先生にお戻り頂き、すぐにでも出発出来る様にしておきます」
「ああ、そうしてくれ」
周瑜が準備を進めている内に、文人の元を回っていた張紘が会稽に呼び出された。
「……なるほど、妙案と言えるでしょうが、一つ問題があります」
「ほう、どんな問題ですか?」
「我々だけでは説得力に欠けると言う事です。他の誰かの推薦があれば、おそらく官職も得られるのではと思われるのですが」
張紘の言う事ももっともな話だった。
朝廷に対して貢献したと主張したとしても、本人のみが官職を求めるのは単に強請っている様にしか見えない。
他の正式な官職にある者が推薦して、初めて官職を得られると言うのが今の漢の仕組みである。
「それなら呂布将軍を頼れば良いんじゃないか?」
孫策はふと思いついて言う。
「呂布将軍?」
張紘だけでなく、張昭も虞翻も表情を曇らせる。
「呂布と言えば、馬や女の為に親を切った不忠者と言われているが、そんな者を頼ると言うのか?」
張昭が首を傾げながら尋ねる。
「風聞と実情は違います。呂布将軍であれば、全面的に信用出来ます」
「伯符ならともかく、公瑾が言うのであれば、まぁ問題は無いか」
張昭も渋々ながら納得する。
「徐州を通れるとなれば、水路で徐州に入れますから陸路で許昌を目指すより時間も短縮出来そうですね」
「では、別件で袁術にも踊ってもらおうかのう」
魯粛は笑いながら言う。
「何をするつもりだ?」
孫策が身を乗り出して尋ねる。
「何、特別な事をする訳ではない。借りたモノを色つけて返すから、預けたモノを返してくれと言うだけじゃ。虞翻、やってくれるか?」
「良からぬ事を企んでいる顔だな。面白そうだ」
虞翻もニヤリと笑う。
「これが上手くいけば、伯符の小覇王の騒ぎなんて軽く消し飛ぶじゃろうの」
「それはそれで納得いかないんだが」
魯粛の言葉に、孫策は不満そうな表情を浮かべる。
「納得せい。そんな余計な風評があっては、張紘先生達にも迷惑がかかるだろう」
張昭はそう言って孫策を睨むが、孫策はまったく気にしている様子は無かった。
小覇王
演義での孫策の二つ名として登場する呼び名です。
正史でも許頁が『項羽の相有り』と書状に書いていた事で、孫策が激怒したと言うエピソードがあります。
本編でも触れた通り、漢の時代に『覇王項羽』に例えられるのは褒め言葉ではありません。
正史でも演義でもまあまあ評判の悪い呂布が『飛将軍李広』に例えられてますが、これは正真正銘の褒め言葉で、孫策の素行と評判の悪さが伺えるあだ名とも言えるでしょう。
もっとも、許頁が自身の保身の為に大げさに盛っていた可能性は十分考えられます。
はっきり分かっている事は、正史の孫策は演義や本作の様に覇王項羽に例えられる事を喜んでいなかったと言う事です。