第二十一話 江東統一に向けて
孫策は曲阿を占領したが、ここでもこれまで通り捕虜を取る様な事はせず、降伏した兵は即時解放、また曲阿に残った住民にも完全な行動の自由を約束し孫策に仕える事をよしとしないのであれば曲阿から離れる事も許可した。
この処置は普通では考えられない非常識極まり無い行動なのだが、孫策に付き従う者達の中にそれに反対する者はいなかった。
これまでは捕虜を抱えてもそれを押さえる兵力を割く事が出来ず、それなら圧倒的な戦闘力を見せつけて敵対すると言う判断を鈍らせると言う苦肉の策な面もあったが、まさに狙い通りに捕虜から解放しても劉繇の元に戻る者はほとんどいなかった。
今回に至っては劉繇の元に戻ろうとする者がいなかったのみでなく、孫策軍に加わりたいと言う者が多く、孫策の軍は一気に膨れ上がった。
劉繇を蹴散らした事もあって最前線の砦である牛渚には守将として凌操を残し、魯粛達だけでなく、親族の呉景や孫権といった家族も呼び寄せた。
そんな中で、孫策に目通り願いたいとやって来た者がいた。
「お初に目にかかります。全柔と申します」
「ほう、富豪である全柔殿か」
「はっはっは、魯粛殿に富豪と言われましても、恐縮するばかりです」
全柔はいかにも名門の生まれと言うのが見て分かる身なりの良さと、孫策に対しても臆する事の無い胆力を持った人物であった。
その後方には二人の少年を連れている。
「この全柔、微力ではありますが孫策殿に家財、配下の兵全てを捧げて尽力したいと思っております。よろしければ、是非とも傘下に加えていただければ」
「願ってもない! こちらこそよろしく頼む」
孫策が飛びかからんばかりに喜んでいたのだが、あまりの勢いの為に傍に控えた黄蓋や韓当が体を張って孫策を止めている。
「ところで、そこの子は? 全柔殿のお子さんか?」
「いえ、こちらは……」
「私は、陸遜と申します。こちらにおられますのは私にとっての本家筋、陸康殿の御子息である陸績殿です」
二人の少年の内、僅かに年長でありながら後方に控えていた少年が堂々と名乗る。
「ほう、陸康殿の御子息と、それに連なる者か。父の仇を討ちに来たのか?」
孫策はにやりと笑うが、二人の少年は孫策を恐れる事無く姿勢を正す。
「我らも全柔殿と同じく、閣下の配下に加えて頂きたく参上いたしました」
陸遜がそう言うと、陸績も共に揃って頭を下げる。
「俺の配下に? 俺は構わないのだが、俺は父の仇だろう? さすがに理由を聞かせてもらいたいものだ」
単純明快に過ぎる孫策でさえ、陸績が臣下の礼を取ろうとしている事に対してすんなりと受け入れる事ができなかった。
全柔を介してでなければ、おそらくこの場に来る事さえ叶わなかっただろう。
さらに陸家と言えば、この呉では四姓と称される名門の中の名門の一族であり、本来であれば孫家などより数段上の家格である。
「仇と言うのであれば、私は孫策将軍ではなく袁術こそが仇であると考えます。確かに孫策将軍は陸康殿を討たれましたが、孫策将軍が思い付きで陸康殿を攻めて討ち取ったと言う訳では無いでしょう。まず間違いなく袁術からの命令があり、しかも無理難題であったはず。それをなされた孫策将軍は、まさに名将。憎むべき袁術を討つに、もっとも近いのが孫策将軍であると私は考えました」
「我ら陸家、生涯孫策将軍に忠誠を誓い、孫家を主と定めます。是非とも我らに仇討ちの機会をお与えくださいませ」
陸遜の言葉の後に陸績が続き、改めて頭を下げる。
「徳謀、いかに思う?」
孫策は珍しく即答せずに、軍師である程普に意見を求める。
「道理においても、忠孝においてもその陸遜の申す事に理があると思われます」
「うむ、子綱先生はどうだ?」
「程普殿のおっしゃる通り。まだ若いながら、立派な事です」
張紘も大きく頷く。
軍師である程普と相談役である張紘の意見が一致するのであれば、これ以上の反対意見も出るはずもない。
単純な利害関係だった陳武や蒋欽達の様な川賊と違って、陸績らには袁術と言う共通の大敵がいる事も信用出来ると魯粛は思っていた。
陸康であっても袁術を破る事など出来なかったが、その子である幼い陸績では万に一つも勝機などあるはずもない。
そう言う意味では孫策に降ると言う選択は悪く無い。
「一つ良いかのぅ」
程普や張紘は陸績と陸遜の参加に異議は無さそうだし、魯粛としても悪く無いと思っていたが、それでも一つ気になる点があった。
「何故に我が軍にと思ったのじゃ? 我ら孫策軍は袁術の武将の一人であるはずじゃぞ? その孫策軍に加わると言う事は、まさに袁術に利する事じゃとは思わなんだか?」
殊更隠しだてしている訳ではないにしても、孫策が袁術から独立しようとしている事は今のところ身内だけの情報である。
陸遜の言葉に嘘がある様には魯粛にも聞こえなかったが、その理屈は孫策が袁術と敵対していなければ成立しないのもまた事実であった。
「それについては、二つ理由がございます」
陸績は一瞬陸遜に目配せして、陸遜が小さくではあるが頷いたのを確認してから言葉を続ける。
「一つには我が父、陸康と将軍の戦いです。いかに秘策があったにせよ、最初に将軍の率いる兵の報告はあまりにも少なすぎました。これは袁術から期待されながらも恐れられていると言う証なのでは? 孫策将軍がそれでもなお袁術に粉骨砕身の働きで袁術に応えたとしても、袁術は孫策将軍に応える事は無かったのでしょう。此度の劉繇との戦、袁術からの支援が無いのはそう言う事なのでしょう?」
「ふむ、二つ目は?」
「父の遺言です。先ほどの話、ほとんどが父の推測でした。もし父が敗れる事あらば、孫策将軍の動静を見定めよと。孫策将軍が袁術の手足に過ぎないのであれば遠からず破滅するので静観し、一人の英傑として立つのであれば父の仇である袁術討伐に尽力せよ、と」
淀みの無い陸績の言葉には、魯粛でさえ感心させられる。
「はっはっは! 良いな! 良く出来た話だ!」
そんな中で、孫策は高らかに笑った。
「作り話である、と?」
「一部な。全柔殿の入れ知恵かな?」
「い、いえ、私も初耳です」
孫策に尋ねられ、全柔は慌てて首を振る。
「では、そこにいる陸遜と共に考えたのか? いや、立派だ。その話を聞いては、俺も無碍には出来ないからな。だが、そこまで策を巡らせなくても俺は君らを歓迎するぞ」
「伯符、今のが作り話だと言う根拠は?」
程普が尋ねると、孫策は軽く首を傾げる。
「根拠? 根拠は無いが、一部は作り話だろ? たぶん、父親の遺言の辺りだ。俺の勘がそう言っている」
「勘って、お前……」
黄蓋も呆れていたが、陸遜は頭を下げる。
「まさにおっしゃる通りでございます。少しでも主家筋である陸績様のお立場が良くなる様にと、同情していただける様に話を盛りました。全て私の浅知恵によるところでございます」
「うむ、気に入った! 俺の娘をお前にやろう、陸遜よ」
「……娘? いないだろ?」
「これから作るんだよ。たぶん一人くらい出来るだろ?」
魯粛が尋ねると、孫策はさも当たり前の様に答えた。
「俺と大喬の娘だからな。さぞかし別嬪な事だろう」
「まだ生まれるどころか作ってもいないのに、嫁の貰い手だけ先に決めるな」
「こういうことは早い方が良いだろ?」
「程度をわきまえい。云うておくが、お主、まだ祝言も上げとらんのだからな」
若くして切れ者である事を見せる陸遜だったが、さすがに孫策と魯粛の会話にはついて行けないのか返答に困っている。
そんなやり取りがあった事を知らず、難しい課題を持ち帰る事になったと思っていた周瑜達は知恵者に似合わない表情を浮かべていた。
「……天運にも程があるだろう?」
張昭は言葉を絞り出すので精一杯だったらしく、それ以上どう言っていいかもわからない様な表情だった。
「まさか私達が戻るより先に陸家が降っているとは、私も想像すらしていませんでした」
「まあこれも俺の人徳の成せるワザだな。どうだ? 子布先生?」
周瑜の言葉に孫策は大きく頷きながら、ニヤニヤと笑って張昭を煽る。
張昭としては何か言い返したいところなのだろうが、実際に陸家の陸績と陸遜が孫策の元にいるのだから何も言い様がない。
「ん? どうした、子布よ? 何か言う事があるんじゃないか? んん?」
「このジジイは、見た目だけで口ほどでも無いんじゃよ」
「……殴る!」
孫策と魯粛に煽られ、張昭は二人に殴りかかろうとしたが二人共素早く逃げる。
「遊んでいる場合ではありません。曲阿を得たとは言え江東統一とは程遠く、最大勢力であった劉繇を倒し我らも力を得たと言っても、周囲には厳虎、王朗、許頁など我らと変わらない力を持つ勢力、笮融や太史慈と言った劉繇の残党もいます。今すぐにでも動き出すべきでしょう」
はしゃいでいる孫策や魯粛と違って、程普は年長者の余裕なのか冷静沈着に提案する。
「徳謀は硬いなぁ」
「伯符が自由過ぎるのじゃ」
「お前もな」
自由過ぎる孫策と魯粛は笑っていたが、程普が咳払いするとさすがにマズいと思ったのか大人しくなる。
「案ずるな、徳謀。数は多くとも王朗などまともに戦も出来ない様な腐れ儒者。厳虎も『徳王』などと称しているがただの賊に過ぎない。許頁も話にならない小物であり、笮融や太史慈には動くだけの兵力が無い。朱治」
「はっ」
「戻って早々だが、陳武と韓当を率いて許頁を抑えて欲しい。やれるならぶちのめして構わない」
「御意」
「呂範」
「はっ」
「いくら頭花畑の阿呆どもとは言え、より小さな勢力や賊を煽ってこちらを攪乱する程度の事は考えるヤツはいるだろう。牛渚の守りは呉景の叔父上に任せて凌操、凌統を預けるから、お調子者が現れたら誰を敵に回したのか思い知らせるが良い」
「御意」
「俺らはまず、王朗を叩く」
「王朗? まずは厳虎を討つ方が良いのでは?」
曲阿に呼ばれた叔父の孫静が尋ねるが、孫策は笑いながら首を振る。
「厳虎などただの群盗に過ぎず、恐れるに足りない。王朗は腐れ儒者とは言え名声はある。早めに討たねば面倒になるのは自称徳王の賊より、腐れ儒者の方だろう」
孫策は口では侮っているものの、実際には正確に戦力を分析しているのが分かる。
ホント、コヤツは戦に関しては天才的じゃな。
孫策による江東統一が本格化した事に、魯粛は呆れながらも感心する。
これが一人の英雄の破滅に繋がる事になるなど、この時点では誰一人として予想する者はいなかった。
孫策の子供達
本来なら陸遜の事を語るべきかもしれませんが、魯粛伝では陸遜はそんな重要な人物ではありません。
これが呉伝や孫権伝であれば、絶対に外せない人物なんですがね。
でも、四姓のほとんどが孫権の時代にいつの間にか臣下に加わっているのに対し、陸家は孫策の時代にはすでに参加していたみたいです。
実はこの話のタイミングで大喬と小喬を娶る事になる孫策と周瑜なのですが、正史では大喬小橋は妾で正妻は別にいたみたいです。
まぁ、タイミングと孫策の子供の数を考えると双子や三つ子を続けて産んだとかじゃないと、どう考えても計算が合わない事になります。
陸遜が孫策の娘を嫁にしたのは事実ですが、それを決めたのは孫権であり、孫策存命の頃の事ではありません。