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新説 魯粛子敬伝 異伝  作者: 元精肉鮮魚店
第一章 雄飛の時を待つ
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第十八話 牛渚での戦い

 孫策、侮っていたな。


 樊能は牛渚に向かう中で考えていた。


 これまで共に武功を競い合ってきたからこそ、樊能は張英の実力はよく知っている。


 少なくとも樊能の知る限りでは、張英以上の豪傑は決して多くない。


 樊能が実際に知る限りでは、張英と互角に戦えそうな人物は一人だけ。


 現在、劉繇軍の客将として迎えているが、樊能はもちろん劉繇軍で彼に対して好意的に接している人物はいない。


 それでも軍事に関して言えば有能である事は否定出来ず、中にはその者を大将軍として対抗させるべきと主張する者もいたが、劉繇はそれをよしとしなかった。


 その者は、あの人物評論家として高名な許劭きょしょうをして曰く付きの人物であると評した事もあり、その者を重用する様な事をすれば笑われるのではないかと思ったらしい。


 それもあって、と言う訳ではないにしても、牛渚奪還は樊能に任せられた。


 それだけの信頼があると言うだけでなく、樊能は孫策の行動に奇妙なところがある事に気付いたのである。


 袁術軍の武将である孫策が叔父の呉景の為に戦うのはわかる。


 それが袁術の戦略であっても、特におかしいところは無い。


 が、それも牛渚陥落までの話である。


 おかしなところは多々あった。


 まず、孫策の率いた兵が少なすぎた事。


 袁術としては劉繇を潰したいと思っている事だろうが、それにしては投入する兵力が少な過ぎる。


 最前線の要塞を落としたとあっては、袁術が本腰を入れて来てもおかしくないはずだが、袁術にまったくそう言う動きが無い事に樊能は気付いた。


 孫策は親の七光りと言う訳ではないにしても、袁術と言う名前を見せつけているだけで実際にはその名を利用しているだけで、実際には現存兵力だけで動いている。


 そして、袁術の元に戻った時にいかにも自身の武勇である様に見せて出世しようとしているのではないか。


 何しろ孫策には相当切れ者の参謀も付いている。


 実に見事な手だと、樊能は本気で感心していた。


 袁術軍で出世すると言う事は天下にその名を知らしめると言う事である。


 当然樊能にしても袁術軍に敗れるつもりはさらさら無いが、ここで劉繇軍を釘付けにしたと言う事実だけで十分過ぎる戦果であると言えるほどに、孫策の兵は少ない。


 このまま孫策は対劉繇軍前線司令官となり、袁術はその隙に徐州を狙うのだろう。


 ここまで見えれば、孫策の急所も見えてくる。


 最大の弱点は兵力だ。


 孫策には牛渚を奪ったところでそれを守るだけの兵力さえも足りていない。


 それにも関わらず、袁術の後ろ盾を見せつける為にも攻め込むつもりらしい。


「いくら何でも、侮り過ぎだな孫策め。それとも袁術に介入される事を嫌って、武功を焦ったか」


 樊能の言葉に、于糜も頷く。


 横江津で戦った川賊や貧民達も合流しているだろうが、それでも孫策軍が一万を超えると言う事は無い。


 樊能は二万の兵を率いて牛渚を目指しているが、これは孫策に勝利する為の兵力ではない。


 目指すところは、勝利では無く殲滅である。


 劉繇軍を敵に回すと言う事を教える為にも、孫策は見せしめの為にも壊滅させる必要がある。


 その為の兵力である。


 孫策の武勇は破格、さらに相当な切れ者の参謀も付いている。


 将の差で言うのなら、孫策側の方が上であると樊能は認めている。


 しかし、それで埋められる程度の兵力差ではない。


 自信満々な樊能だったが、牛渚に到着した直後に足を止められる事になった。


 孫策軍にとって戦略上の最重要拠点であるはずの牛渚だが、そこに旗は無く、門すら開け放たれて見張りの兵の一人すら見かけないのである。


「……これは? 砦を放棄したと言う事でしょうか?」


「いや、それは有り得ない。ここを放棄しては、深入りした孫策は退路を絶たれる事になる。それは孫策軍の全滅にほかならない。何かしらの罠だ」


 あからさまな罠の気配は、樊能に限らず于糜も感じている。


「全軍で入るのは危険、か。物見を派遣する。十騎ほどで砦の中を探らせろ」


 樊能はそう指示を出して斥候を牛渚の中に放ったが、どれだけ待っても斥候は砦の中から戻る事は無かった。


「……ちっ、余計な時を稼がせてしまったか。だが、中に伏兵がいる事は分かった。しかも、これだけ静かに保てていると言う事は、それほど多く伏せていると言う事もない。おそらく千もいないだろう。であれば、どれほどの仕掛けがあろうとも数で踏み潰す。間違いなく奴らにとって一番嫌な手であるはず」


「であれば、俺が先陣を切ります。将軍は後方からゆるりとついて来て下され」


「ほう、ここへ来て武功を独り占めするつもりか?」


 樊能の言葉がよほど予想外だったらしく、于糜は心底驚いている。


「将軍、俺はその様な事など」


「はっはっは! わかっておる。この劣勢、覆す為には少数の伏兵にて私を討ち取る事のみ。故に自らがその難を受けようと言うのであろう? その献身、まさに忠臣たる者である。この戦、第一功はそなたであるぞ、于糜」


 樊能は于糜に五千の兵を与え、その後ろから自身も大軍を率いて続く。


「そこで止まれぃ。それ以上進むと、命を落とす事になるぞ」


 要塞の中は驚く程何もなく、ただ広い空間が広がっていた。


 そこに孫策軍の者と思わしき騎馬兵が数百並んで待ち構えていた。


「命を落とす、か。大きく出るのは勝手だがその程度の兵力で何が出来ると言うのだ?」


「何が出来るか、だと? 聞いとらんかったのか? 命を落とす事になると言うたじゃろう。ああ、すまんな。ワシの言葉が理解出来る程度の知恵を持っておる事を前提で話しておったわ。お主は言うに及ばず、劉繇軍の者達にはちと難しかったか」


 その男は露骨に馬鹿にした態度で、于糜の事を笑う。


 もし最初の提案通りに樊能自らが先陣を切っていたら、これほどわかりやすい挑発には乗らなかったかもしれないが、それを言ったところでもはや意味はない。


 于糜にしても違和感は覚えていた。


 最前線の砦である牛渚なのだから、それなりの兵力を滞在させる事がある。


 それなのに砦の中がこれほど何もない広場であるはずもなく、本来であれば最低でも飯炊き場や休養所が無ければおかしいのだ。


 が、忠誠心に厚い猛将である于糜はその違和感の正体に気付くより、孫策軍の男による挑発によって思考を遮られた。


 憎悪によって塗り潰されてしまった。


 末端武将とも言うべき于糜であっても主君である劉繇への暴言を許すことは出来ず、ましてただの荒くれ者であった自分を武将まで引き上げてくれた大恩ある樊能まで愚弄されては、とても冷静ではいられなかったのである。


「殺せ! 孫策如き輩の一派、生かしておく理由無し!」


 于糜は激情に任せて全軍突撃を命じ、自ら真っ先に駆け出していく。


 あるいは、これこそが敗着の一手であったかもしれない。


 于糜が手にした大刀を振り上げ、挑発してきた男を切り捨てようとしたまさにその時、突如地面が揺らぎ地中へと吸い込まれて行く。


 落とし穴だ、と気付いた次の瞬間に于糜は落とし穴の底に立てられていた槍によって貫かれていた。




「少し考えれば分かりそうなモノじゃろうが。まさかこれほどの効果が見込めるとは思わんかったわ」


 本来であればこの落とし穴は見せ罠に過ぎず、この落とし穴を警戒した動きを見せて迂回しようとしたところを次の罠にかけるつもりだったのだが、先鋒軍は率いる武将まで込みで半数以上もの損害をこの単純明快な落とし穴で出してしまっている。


 これには仕掛けた側である魯粛ですら、呆れるくらいに驚かされた。


 だが、想定外の損害を与えた事は必ずしも喜ばしい事とは限らない。


 魯粛達にとっては十分な戦果と言えるかも知れないが、敵将がここで攻撃の標的をこの砦では無く出撃した孫策に変える恐れがあるのだ。


 砦を守っても総大将を失っては無意味となり、総大将を助ける為に兵を率いて打って出ればそこを叩かれ、無人となった砦を奪い返される事にもなる。


 そうさせない為にも何かしら手を打つ必要に迫られたのだが、敵将は先鋒隊を失った損害を出しただけで兵を退かせると言う難しい決断ではなく、分り易い挽回策である砦を落とす事に固執したらしく、攻め込んできた。


 それなりの智将ではあったらしいが、一級と言う訳では無かったか。ま、これはこれで良かったとするべきか。


「こ、これは……」


「お主の飼っていた猪が罠にかかったのじゃよ。せっかくの猪じゃ。鍋にしてお主にも振舞ってやろうかのう」


 魯粛はそう言うと、軽く右手を上げる。


 その動きに合わせて、率いていた兵たちが一斉に笑い出す。


 少数の敵に配下の武将を失った上に嘲笑までされては、智将と呼ばれる樊能でも我慢出来るものではなかったらしい。


 と言っても、最短距離で突撃しようにも地面には大穴が空いている為、穴を避ける為に迂回しなければならない。


 樊能は兵を二手に分けて落とし穴を避けて兵を突撃させるが、それを見越していた魯粛は城壁に伏せていた弓兵に樊能軍の兵に矢の雨を降らせる。


 樊能の兵は矢に倒れ、あるいは落とし穴に落とされていくが、樊能は兵の突撃を止めない。


「ほほう、最低限とはいえ分かっておったか」


 いかんともしがたい兵力の差があるので、どれだけ兵力を失ったとしても魯粛に軍を全滅させるだけの兵力が無い事を樊能は気付いていた。


 損害は出るが、確実に勝利出来る戦法である。


 相手が魯粛だけであれば、の話だが。


「しょ、将軍! 後方より、敵襲!」


「後方だと?」


 報告を受けて樊能が振り返った時、後方から騎馬で駆け寄ってきた孫策によって首根っこを掴まれて捕えられる事になった。


「敵軍に告ぐ! 総大将、この孫策が生け捕りにした! その大穴、お前たちの屍によって埋め立てるのが嫌なら、武器を捨てて投降しろ! むやみに抵抗しないのであれば命は取らない! それは当利口、横江津の戦いでも分かっているはずだ! この孫策、約束は違えたりしない!」


 孫策は大きな声で宣言する。


「投降し武器を捨てれば、命は取らん。孫策は約束を違えん!」


 孫策の言葉を魯粛が叫び、さらに合図を送って兵士達に同じ言葉を叫ばせる。


 さらに城壁の上からも矢ではなく、降伏の言葉を降らせる事によって勝負は着いた。


 劉繇軍の両翼である張英と樊能だったが、兵力で言えば十分の一程度の孫策を相手に手も足も出ずに敗れているのを見せつけられては、戦意を保つ方が難しいだろう。


「子敬、お前の読み通りだったな」


 孫策は樊能を小脇に抱えて、魯粛のところにやって来る。


「……相性じゃろう。ワシの本質を最期まで勘違いしていたのが敗因じゃ」


「ん? どういう事だ?」


「その男、樊能はそれなりに切れる男じゃった。相手が程普殿や公瑾であれば、敗れる事は無かったにしても、もう少し良いところもあったじゃろうに」


「ああ、なるほど。正統派の参謀の考えにはついて行けたかもしれないが、子敬はお世辞にも正統派とは言えないからな。参謀とさえ言っていいかも分からないし。ぶっちゃけただの博徒だもんな」


「お主には言われとうないのう。ところで、伯符。その骸、いつまで持ち歩くつもりじゃ?」


 魯粛は孫策が小脇に抱えている樊能を指差す。


「骸?」


 そう言われて孫策が目を向けると、樊能はすでに事切れていた。


「命まで奪うつもりは無かったんだが、悪いことしたなぁ」


「おそらくそやつが最期に考えていたのは、何故お主がここにおるのかと言う事じゃろうな」


 樊能は孫策が兵を率いて出た事を知ったからこそ、この牛渚に守る兵無しと見て攻め込んできたはずだった。


 実際に孫策は出陣し、支城の一つを守る笮融さくゆうと交戦した。


 孫策と一戦交えた笮融だったが、接触しただけの戦闘で兵を数百も切り捨てられた事によってまともに戦って勝てる相手ではないと悟り、支城に戻って守りを固めた。


 そこで城攻めを続けているフリをして、もう一つの支城を守る薛礼せつれいを強襲して打ち破り、自身は精鋭のみを率いて牛渚へ戻って来て、樊能の後背を突いたのである。


 結果だけを見れば高度な戦術に見えてしまうのだが、やってる事は行き当たりばったりで孫策の才覚に委ねた、ただの暴力に過ぎないのだが、だからこそ真っ当な知略を基本とする樊能には読みきれなかったのだ。


「さて、それじゃ俺は戦に戻るとするかな。笮融のヤツが寂しがっているだろうから」


「お主に絡まれるのは嫌じゃろうのう。ここの事は心配いらん。ワシが面倒見てやるわい」


 これによって孫策は、樊能の率いていてきた兵だけでなく最前線拠点である牛渚に蓄えられた物資なども、丸ごと手に入れたのである。

樊能と于糜


正史ではこの戦いに敗れて以降の記述が無くなり、生きているか死んでいるのかも分からない状態になっています。

演義では孫策に生け捕られて窒息死したのが于糜で、孫策に怒鳴られてびっくりして馬から落ちて死んでしまったのが樊能です。


と、文字にすると情けないやられ方の樊能ですが、演義では怒鳴られてびっくりして馬から落ちて死んだ武将は他にも数名いますので、特別珍しいと言う訳ではありません。

でも、あんまりだったのでちょっと変えてみたら、于糜と逆になってしまった感があります。


今回名前はあえて出さなかったのですが、能力の割に評価されずにくすぶっている猛将も近々出番があります。

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