第十六話 横江津を攻める
横江津を守るのは劉繇軍の中でも智勇兼備との誉れ高い樊能であり、当利口を守る剛勇の張英と共に劉繇軍の両翼と称される武将である。
そんな彼だからこそ、自身の掴んだ情報を疑っていた。
孫策が当利口を攻める、と言う情報である。
「孫策? 確か祖郎とか言う賊にも苦戦する様な若造。父孫堅の七光りと言った輩でしょう」
樊能の部下である于糜が、鼻で笑う様に言う。
「……確かにそうだ」
だが、その数倍の兵力を持っていた陸康には戦っている事さえ知られないほどの早さで撃砕し、陸康を討ち取っている。
樊能も自分の才には自信を持っているし、張英と協力すれば陸康を討つ事は出来ただろう。
しかし、当然それなりの犠牲は出ると予想されるし、一瞬にして撃砕する事はまず不可能である。
さらに不可解な事に孫策が率いた兵は、五百とも三千とも言われているが、仮に三千であったとしても陸康は簡単に勝利出来る相手では無いはずなのだ。
何かしら策を用いたとしか思えない。
その策が樊能に看破出来ない以上、自分より優れた策士が孫策の家臣にいると言う事を想定していなければならない。
そんな策士が傍にいて、攻めると言う情報を簡単につかめるモノなのか?
孫策の兵は袁術からの借り物で、総数は千人程度だと言う。
そんな少数の兵で当利口を攻めたところで、剛勇を誇る張英を相手に万に一つも勝ち目はない。
そう、そのはずなのだ。
奇襲以外に張英に勝つとすれば、それは挑発によって張英自身を引っ張り出して一騎打ちに勝利すると言う方法もあるにはある。
が、張英はそう簡単に討たれる事は無いと樊能は思っていた。
反董卓連合には加わっていなかったので正確な事は分からないが、張英ならそれこそ華雄や呂布にも劣らなかったはずなので、孫策がどれほどの武勇を持っていても勝つ事は決して簡単な事では無い。
それに、張英はその剛勇だけに留まらず、冷静さや慎重さも持ち合わせている。
一騎討ちに自信はあるだろうが、少数の軍を相手に遅れをとって拠点を失う愚を知っている。
張英ならば、相手の奇襲を察知したなら守りを固めるはずだ。
奇襲を仕掛けたいはずの孫策軍にとって、攻勢の情報は絶対に知られたくないはずである。
道理に合わない。
情報はそれだけではなく、最近この近辺で軍馬を買っていると言う情報も入ってきている。
騎馬の機動力は、奇襲をする為には必要不可欠なモノであり、これもまた孫策が当利口を攻めると言う情報の裏付けにもなりかねない。
「それで、いかが致しますか?」
険しい表情で何も言わない樊能に、于糜は心配そうに尋ねる。
「いかが、とは?」
「あ、いえ、一応敵襲の情報を得た以上、援軍は必要なのではないかと」
「……それだ!」
突然の大声に、于糜は驚く。
「は? 何がです?」
「敵の策、見切った! 孫策の進軍、それ自体は虚報ではないだろう。その数は情報通り一千から、おそらくは三千程度のはず。そして、我々は当然の戦術としてこちらから援軍を出し、孫策軍に備える。それこそが狙いか!」
妙に興奮している樊能に、于糜は言葉を失っていた。
「于糜、急ぎ迎撃の準備だ! 敵はこちらを狙ってくるぞ!」
突然の命令に驚いたが、それでも于糜はすぐに動き始めた。
于糜の言葉は、まさに天啓かと思わんばかりに敵の策の正体へと樊能を導いた。
戦場において情報を正確に早く入手すると言う事は、勝敗に直結する。
敵の策士もそれを知っているのだろう。
そして、情報統制と言うモノは決して簡単な事ではない事も、よく理解しているようだ。
そこで、どうせ漏れる情報だと言うのであれば、最初から無理に隠したりせずにこちらにもわかる様にしていた。
情報を手にしたのであれば、当然の戦術として援軍を出す。
そうして手薄になった横江津を奪い取ると言うのが、向こうの戦術だ。
「なるほど! 孫策軍と言う本命としか思えない部隊が実は陽動と言う事ですな」
「……おそらく、それだけには留まるまい。だが、我ら劉繇軍は陸康ほど甘くない事を教えてやらねばな」
横江津を攻める場合、大きく迂回するなどしない限りは眼前で渡河しなければならない。
それは常道の戦術では攻略する事は困難と言う事であり、何かしらの策を用いない限り大兵力を組織するなどしなければ攻略出来る事は無い。
だが、守る兵さえいなければ眼前に河があろうと山に囲まれていようと簡単に奪う事が出来る。
なるほど、良い策だと樊能も評価する。
ただし、相手が悪かったな。
ほどなくして、横江津を狙う船団が現れた。
決して大型の船ではなく、それどころかみすぼらしい船であると言わざるを得ない。
もっとも、この船団は無人の拠点を攻めようと考えているのだから、それも仕方が無い。
樊能はすでに船を停泊させる為の地点を囲む様に兵を配置し、例えみすぼらしかろうが劉繇軍に牙をむく不届き者に対する容赦など与えるつもりもない。
樊能はそのみすぼらしい船団に対し、一斉に矢を射掛ける様に命じる。
「はっはっは! さすがは樊能将軍! 敵の浅知恵などものともしないですな!」
「いや、于糜。これはまだ陽動。次が本命の攻撃だ。上流に配置した兵に備えさせろ。浅はかな小細工など、この樊能には通用しない事を教えてやろう」
樊能の言葉通り、上流から川賊と思われる船団が横江津を狙ってきた。
「これは……。樊能将軍は千里眼をお持ちか?」
「敵の策士が優秀であると認めたからこそ、見える策もある。侮れない相手に油断などもってのほかだ」
樊能の指示に于糜は喜び勇んで、自ら上流の兵を指揮する為に動く。
だが、この時に樊能は致命的な読み違いをしていた。
余りにも完璧に看破したと思える様な敵の動きに、勝利を確信するのが早すぎた。
また、川賊に対する侮りもあった。
皇族の流れを汲む劉繇の軍は、その名門の血筋と言う事もあってほとんどが名門士族によって構成されている。
それは武将だけに留まらず、一兵卒に至るまでそれなりの血筋であり貧民や賊などが兵士に加わっている事は無い。
上流から攻め込んでくる陳武と蒋欽の一団は、劉繇軍の兵士より明らかに戦闘能力が高かった。
……強いな。
それでも樊能は崩れなかった。
地の利、兵数、装備の質でこちらが上にも関わらず苦戦を強いられている事は想定外だったが、上流から攻めてくる川賊の一団にも当然問題はあった。
いかに操船に優れていても、流れる川の上で船を長時間停止させて戦う事など出来はしない。
上陸さえ阻止すれば、下流へと流されてあのみすぼらしい船団と合流する事になる。
であれば、まずは上陸を阻止してあの暴威を封じてしまえば、下流の船団と共に一網打尽に出来る。
樊能は下流に配置した兵を広く展開させて先に攻めてきた船団に矢で攻撃させ、そのまま兵を上流側へと流す様に兵を新たに配置しなおす。
それによって上流への兵力を厚くして、凶暴な川賊に対抗する事に成功した。
と思った事こそが、最大の読み違いだった。
上流から流れてきた川賊が想定より強力だった事で、兵力の再配置を終えたその時、下流側の薄くなったところを狙って、背後から騎馬隊が突撃してきたのである。
「何? どういう事だ? いったいどこから湧いて出たと言うのだ!」
下流側に配置した兵は、あくまでも渡河部隊に対する攻撃重視の兵であり、主力武器は弓矢である。
その背後から騎馬で突撃されては、その騎馬隊の数が少なくとも混乱を収めるまでには相当な被害が出る。
立て直しの時間を作ろうとすると、渡河は完了し、中央突破を許す形となり、中央から分断されては暴威を振るう川賊達と合流して蹂躙される事になる。
そこまで見えてから樊能の判断と行動は早かった。
中途半端に兵を立て直す様な事はせず、いきなり全軍撤退を命じたのである。
兵士達も最初はその大胆過ぎる命令に驚きはしたが、于糜を含めて全員がその命令に従った。
横江津の砦に戻ろうとしたのだが、すでに砦には『凌』の旗が掲げられていたい為に樊能は牛渚の要塞には伏兵があると警戒して、迂回して本拠点である曲阿へと退却していった。
「何じゃ、樊能とやらは本当にそれなりの智勇兼備じゃのう。てっきり名門士族が武勇も智謀も中途半端で褒めるところが無いから智勇兼備と言われておるのかと思っておったが、中々どうして思い切りの良い手を打つもんじゃな」
無理な追撃をする事も無く、魯粛は曲阿へ撤退して行く樊能の軍を横江津の砦から見送っていた。
正しくは出せなかった。
勝ちに乗じると言うのは戦の常であるのだが、出せる兵がいない。
魯粛が率いて渡河したのは戦に出るのも初めてと言う貧民であり、さらには正式な訓練なども受けていない川賊である。
完全に敗走している状態ならともかく、樊能率いる軍は撤退こそしているものの規律を保ち、戦意も失っていない。
下手に追撃すると返り討ちに合う。
こちらの兵が多くない事を向こうは知っているのだから、返り討ちにあった後に横江津を取り返される事も十分過ぎるほどに考えられる。
「見事です。策とはこれほど恐ろしいモノなのですね」
貧民の中でも体格に恵まれた少年が、率直な意見を魯粛に向かって言う。
「上手くいけばこうなるモンなんじゃ。ところでお主、中々に見所のあるヤツじゃの。お主のおかげでワシも楽が出来た」
この少年が魯粛の身近で盾を持ち、常に魯粛を守る様に動いてくれたおかげで魯粛は渡河中には指揮に専念する事が出来たし、上陸してからも存分に剣を振り陳武達と合流する事も想定以上に楽に行う事が出来た。
「お主、名は何と言うのじゃ?」
「周泰です」
「うむ、周泰。この戦の間、ワシの身辺警護を頼む。いずれ正式に役職も与えようぞ」
「良いのかい? 勝手にそんな約束して」
先に僅かな兵を率いてこの砦を占領していた凌操が、呆れながら魯粛に尋ねる。
「孫策はそこまで狭量では無かろう。問題あるまい」
そんな話をしていたところ、戦場を駆け巡っていた陳武、蒋欽、凌統の三将がやって来る。
「終わりました、父上」
「待て、統。この場合は親父殿より先にワシに言うべきじゃろう」
「終わりました、父上」
魯粛の言葉を真っ向から無視して、凌統が凌操に報告する。
「魯粛殿、貴方の言葉が毒である事を実感したよ」
陳武が苦笑いしながら、魯粛に言う。
「半信半疑で戦に加わったが、まさか本当に数倍の相手を翻弄するとは思わなかった。まさに毒だな。俺自身が、あんたの指示に従う事に抵抗が無くなり、さらなる勝利に餓える様になった。俺の力、存分に使ってくれ」
「……分け前は十分にもらえるんだろうな?」
陳武はいかにも武将と言う風格なのだが、その赤い瞳が知的な風格も不吉なモノに感じさせる。
一方の蒋欽もこちらに従う事は了承している様だが、まだ若いせいか賊気分が抜けきれていない。
「では、親父殿はこの砦を守ってもらい、ワシらは牛渚へ急ぐぞ」
「今から? いくらなんでも急ぎ過ぎでは?」
「ワシもそう思うのじゃが、ワシより急ぐヤツがおるからのう。戦うかはともかく、戦場には到着しておきたいのじゃ」
魯粛はそう言うと凌操に兵一千を与えて砦に残すと、残りを率いて牛渚へ向かう。
そこで魯粛は想像を絶するモノを目にした。
牛渚はすでに孫策によって陥落していたのである。
「よう、子敬。早かったじゃないか」
「お主は異常じゃぞ。いったいどんな妖術を使ったんじゃ?」
笑いながら砦で手を振っている孫策に、魯粛は心底呆れると共に途轍もない何かを感じずにはいられなかった。
横江津の戦い
どんな戦いが行われたのかは不明ですが、孫策軍はわりと簡単に抜いたみたいです。
言うまでもない事だとは思いますが、今回の戦いは完全フィクションで、樊能や張英にこんな立派な二つ名などもありません。
ただ、劉繇は正真正銘の皇族の一因であり劉岱の弟でもある上に、この頃の袁術とも戦えるほどの勢力を持っていた事を考えても、演義ほど悲惨な実力しかなかったとは思えませんでしたので、派手にしてみました。
とは言え、噛ませである事には変わりないのですが。