第十三話 張昭に会う
孫策と周瑜は、魯粛や張紘から教わった張昭の屋敷へと向かった。
孫策が飛び出したとは言え、魯粛の方から前もって連絡を入れてあった上に張紘からもおそらくこの後に張昭への紹介状が届くだろうと言う事もあって、周瑜としても無理に孫策を止める事は無いと判断していた。
張昭の屋敷は張紘のところからさほど離れておらず、もし鳥を飛ばしたとしても張紘の紹介状より早く到着した事は疑いない。
「張昭先生! 張昭先生はおられるか!」
張紘の時と同じ様に、孫策が屋敷の外から叫ぶ。
……まぁ、声を掛けているだけマシと思うべきかな。
周瑜が止めるより早く行動する孫策なので、大体の場合は流れを見守る事しか出来ない。
これでどうにかなってきているのだから、孫策には天運が付いているのだと周瑜は思っていた。
もちろんそれだけではないだろうが、普通はここまで勢いだけに任せて上手く行く事など有り得ない。
「張昭先生!」
「やかましいわい! おらんと言え!」
屋敷の中から怒号が返ってくると、ゆっくりと屋敷の門が開き、小間使いと思われる少女が恐る恐る顔を出す。
「あ、あのー」
「初めまして! 俺は孫策と申します! 中に張昭先生がおられるのですね! ではさっそく案内していただきたい!」
先ほどの怒号は十分ここまで聞こえていたので歓迎されていない事は分かっているはずなのだが、孫策はどこ吹く風と言わんばかりに少女に向かって言う。
「え? え、あ、あの……」
「張昭先生! 失礼しますよ!」
「失礼と思うなら帰れ! お前などに会うつもりは無い!」
「はっはっは! そう照れなくても良いじゃありませんか」
これはこれで凄いな。
周瑜はその場にいなかったので見ていなかったのだが、孫策は袁術の元を訪ねてきた呂布に向かってすら同じ様に会いに行ったらしい。
その際に娘に止められたそうなのだが、その娘を引きずって呂布に面会したと言うのだから凄まじい話である。
「会わんと言うとるだろうが!」
「向こうだな! ありがとう、探してみるよ」
孫策はするりと少女を躱すと、屋敷の中に入っていく。
「あ、あの、ちょっと……」
小間使いの少女は困り果てているが、残念ながらごく普通の少女がどうにか出来る相手では無い。
少女には悪いが、周瑜も軽く頭を下げて孫策を追う事にした。
「張昭先生! どこですか!」
「どこですかではない! 帰れと言っとるんじゃ!」
「まあまあ、会って話しましょうよー、張昭せんせー」
声を聞く限りではけっこう本気で怒っている様に聞こえるのだが、孫策は本当に楽しそうである。
「こっちですかー」
「来るなと言っているのが分からんのか!」
「はっはっはー、そんな事言ってー、いちいち反応しているって事は相手して欲しいんでしょー? もう、恥ずかしがり屋さんなんだからー。可愛いなぁー」
「よし、分かった! 一発殴る! それから決める!」
孫策の挑発に耐えられなくなったのか、声の主の方から会いに来る宣言に変わった。
門前払いは避けられた上に会う事も成功しているのだが、今後の交渉には甚だ悪影響が出そうなのは簡単に予想出来る展開である。
「殴られるのがゴメンだが、俺は張昭先生に会いに来たんだ。会う分には大歓迎だ」
「儂はお前なんぞに用は無いし、招いた覚えも会う約束をした覚えも無い! 会う義理などは無いのだが、あまりに無礼で不遜な小童の性根を叩き直すのも儂の役目だろうて。覚悟しろ、小童めが」
声の主が張昭と思われるのだが、いかにも賢人で柔らかい声音だった張紘とは違い、厳つい低音で地響きの様な足音と共に近付いて来る威圧感がある。
姿も見えない内からコレは、ちょっと予想とも想像とも違うな。
どこまでも楽しそうな孫策と違って、周瑜の心配事は尽きない。
そしてその心配は、声の主が現れた時により深刻である事を実感させられる事になった。
身にまとっているのは一応朝服と言えなくもないのだが、はちきれんばかりの筋肉のせいでまとっているのが布と言う事以外の情報が入ってこない。
身長も高いのだが、身体の大きさのせいで実際以上に大きく見える。
見た目の圧力で言えば、連合の時に見た人外の魔物にさえ見えた華雄に匹敵すると言えた。
「良い面構えだ。張昭先生だな?」
「む? 別人であるとは思わなかったのか?」
周瑜もその人物を張昭本人とは思わなかったのだが、孫策は笑いながら言う。
「はっはっは! そんな小さい者では無いだろう? わざわざ別人を用意して、その別人からさらに情報を得るとか言う余計な手間は必要あるまい? 直接品定めしてこそだろう?」
「気に入らんな。まるで天下人の様な物言いだ」
「それは仕方が無い。そこは持って生まれたモノだ」
孫策は堂々と言い放つ。
「さあ、張昭先生よ。俺が使ってやるから、正史に名を刻むが良い!」
「……はぁ? 何をほざくか、小童めが」
「そう照れる事は無いぞ? 主と仰ぐ事を許す」
「なるほど、よく分かった」
張昭は腕を組んで大きく頷く。
「人の話を聞かぬ者に、仕える臣などおらんわ!」
大音声で吠える張昭だ。
下手すると吹き飛ばされるのではないかと言う、凄まじい声量である。
「話を聞かぬと決め付けるな! 俺ほど人の話に耳を傾ける主はそういないぞ?」
「まったく聞いておらんだろうが!」
「馬鹿にするな! 聞いていない訳ではない! 聞くまでもないと、気にしてないだけだ!」
「よし、殴る! まずは殴る! まずはそれからだ!」
張昭が本気で殴りかかってくる。
孫策も十分過ぎるほどの実力者であり、呂布にこそ及ばなかったものの天下に有数の猛将である。
張昭の拳を孫策は軽くいなす。
「おお、良い拳だ。早く、重く、威力もありそうで、人を殴るには良い拳だ。だが、先生自身は人を殴るのには長けていないらしい。そこは武将と腐れ儒者の違いだな?」
「誰が腐れ儒者だ!」
張昭は豪腕を繰り出してくるが、孫策はそれを躱し、いなし、一撃でも直撃すれば致命傷にもなりかねない張昭の攻撃を無力化する。
「俺に仕えよ、張昭。腐れ儒者から、官吏に昇格する。それどころか、位人臣を極める事も望むがままだ」
「興味がない!」
「そんなはずはない!」
こいつらは感情を表に出さずに会話出来ないのだろうか。
周瑜は口こそ挟まないが、やたら感情的に叫びまくっている孫策と張昭を見てそう思う。
「俺にはわかる! わかるそぉ、張昭よ。ぬっふっふっふっふ」
孫策は意味ありげに両手を前に出し、指をわしわしと動かしている。
「本当は官職が欲しいんだろう? 良い主に仕えて、官位を貰い、自身の才覚を世に知らしめたいのだろう? 隠すなよ、張昭先生。ぬっふっふー」
「……殴る!」
こう言う人なんだろうなぁ。
知識人として高名なはずの張昭なのだが、何故か言葉より先に手が出てくるらしい。
ひょっとすると本人もその自覚があるせいか、その為に身体を鍛えた結果、この様な並みの武将をはるかに超えた筋肉の鎧を身に付ける事になったのかもしれない。
「そっちこそ、人の話はちゃんと聞いておくべきだぞ? 主を正しく諌める事も臣下の役割なのだからな」
これまで張昭の攻撃を避ける事に集中していた孫策が、この時初めて僅かに攻撃の意思を見せた。
それは戦場を経験している上に、一歩引いたところから冷静に見ていた周瑜だからこそ気付いたほど小さな兆し。
文官である張昭がそれを見抜く事は出来なかった。
張昭の繰り出す危険極まり無い拳を、孫策は腕を張昭の手首に当てて大きく逸らす。
重さと早さを兼ねる張昭の拳なので、外に流された場合にはその巨体をもってしても僅かに流れる事は止められない。
が、張昭もこの時に身の危険を感じたのだろう。
流される事を無理に制御するのではなく、そのまま体勢を崩すに任せて足を振り上げていた。
拳による突きでも十分な破壊力を見る事が出来るのだから、蹴りなど貰えば本当に深刻な打撃を受ける事になる。
孫策は攻撃に出る事を断念して、張昭の蹴りを躱して間合いを取る。
「何だ、歳食った腐れ儒者と侮っていたが、やるじゃないか」
「小童めが……」
張昭はそういうと、凶暴な笑みを浮かべる。
「俺の配下になるのだから、その程度の事はやってもらわねば困るんだがな」
「誰が配下だ! いつそうなった!」
「俺がここに訪ねてきたのだから、それはもう決定事項なんだ」
「あくまでもそこは話を聞かんと言う事か」
「聞かない訳ではない。決まっているだけだ」
「聞いてないではないか!」
話はまったく噛み合っていないものの、相性そのものは悪くなさそうだな。
周瑜は冷静にそんな事を考えていた。
「やはり殴る! まずはそこからだ!」
「よっしゃ! かかって来い! いっちょ揉んでやる!」
止めた方が良かったのは周瑜にも分かっていたのだが、完全にヤる気になっている二人を止まるのは少々骨が折れる。
むしろ血が昇りまくっている二人を中途半端に止める方が、今後の事を考えるとよくないかも知れない。
それ以前に止められる気がしない。
周瑜は自分に言い訳しながら、筋肉の巨塊と若き猛将の戦いを見守る事にした。
血の気の多さで言えば同等みたいなのだが、何故かいつも先手は張昭である。
あくまでも孫策は張昭を配下に加えようと考えているせいか、先手を譲っている様に見える。
何しろ孫策も考えるより先に手が出て、言葉より先に行動を始める様な人物である。
そんな人物が毎回こちらから手を出さずに、先手を譲る事などまず有り得ない。
一方の張昭は、とても文人の品定めとは思えない殺意さえ篭った拳を容赦無く繰り出している。
今回は孫策も殴り合うつもりだったので、躱す事に集中するだけではなくすぐに反撃に移る。
孫策が散々挑発していたように、張昭は膂力には長けているものの殴り合いが専門家と言う訳ではない。
むしろそちらに関しては素人と言うべきだろう。
一撃の重さを比べるのであれば張昭の一撃は、孫策の一撃を遥かに上回る事は疑いないのだが、孫策に直撃することはない。
人並み外れた膂力で振り回される拳は驚異である事は疑いないのだが、実戦経験に乏しい張昭は拳を振り回す時にまず振りかぶるのだ。
それは訓練されていないのであれば、ごく自然な行動なので自覚していない限り、その予備動作を消す事は出来ない。
孫策はその予備動作を見て躱しているので、張昭の攻撃が当たらないと言う訳だ。
が、それを寸分たがわずに行える孫策もまた非凡である。
分かっていても張昭の拳の圧力は桁外れであり、もし躱し損なったら大惨事である。
いかに予備動作を見抜く事が出来たとしても、普通はその『もし』が頭を過る。
それが僅かな身体の硬直を呼び、それが結果的にその『もし』を呼ぶ。
孫策はその威圧感を恐れる事無く、むしろ楽しむだけの余裕と胆力があるからこそ完全に張昭を無力化する事も出来ている。
「あ、ちょっといいかな?」
周瑜は家主が大暴れして気が気じゃないと集まってきた家人達の一人に声をかける。
「は、はい?」
家人の中でもそれなりの地位にありそうな年配の男性が、反応する。
「二人が会話出来そうになる頃にはお疲れで汗だくでしょうから、汗を流せる湯浴みの準備を。後は食事の用意もしてもらえれば助かります」
「かしこまりました」
家人の男性と周瑜の間に面識は無かったのだが、周瑜の見るからに貴人と言う雰囲気から周瑜の言葉に従う様に動いた。
孫策と張昭の戦いは日暮れまで続き、ついに張昭が折れる形で決着がついた。
もっとも、家臣になると言う事についてはまだ認めていない様だったが。
ただ一つ、はっきり分かった事がある。
「魯粛子敬、侮れない男だな」
張昭が使い易い人物ではない事は魯粛も知っていただろうし、この暴威の事も知っていたはずだ。
そんな人物であるにも関わらず、孫策に最初に勧めてきた人物であり、おそらくは孫策であればこの人物を手懐けられると見越したのだろう。
商人としてもそうだが、人を見る目と人を動かす手段は人並み外れている。
他に流出させるべきではない人物だな。
周瑜は、改めてそう思ったのである。
この物語はフィクションです。
張昭先生が筋骨隆々だったと言う事は、少なくとも正史には記されていません。
が、正史では兵を率いて内乱を鎮圧した事はあるみたいです。
呉を代表する様な面白爺さんですが、実はこの当時は四十そこそこ。場合によっては三十代。
張紘先生もそうですが、爺さんの印象が強すぎて若い時代があった事が信じられない様な人物です。
内乱鎮圧の実績もさる事ながら、若い頃には陶謙の招聘を断って投獄されたり、晩年になったら孫権とガチでやりあったりするエネルギッシュなところから、こんな武闘派になりました。
書いている側としては、思いのほか違和感が無い仕上がりになっているので、いかにもな張紘先生より動かしやすいです。