第十一話 江東の二喬
答えが分かれば、色々と見えてくるものがあった。
喬公ほどの名士の娘で、しかもその美しさを噂されるほどの美女。さらには年頃であるはずなのに誰にも嫁いだとは言われず、また美しい娘がいると言う以上の情報が出てこないのは何故か。
確かに喬公の娘は姉妹揃って絶世の美女というべき美しさである。
が、盲目とあっては話が変わってくる。
何しろ家事全般に支障が出る。
それでも名士喬公の娘である以上、丁重に迎えねばならず、ほとんどの家では重荷として扱われる事になる事は容易に想像出来た。
それだけに喬公は姉を嫁に出す事は無く、盲目の姉を妹が甲斐甲斐しく世話している事もあって妹も嫁に出ようとはしなかったという事だ。
が、ここへ来て大きな嵐が吹き込んできた。
「喬公! 娘さんは俺が頂いていきますから!」
「待て、伯符。それでは求婚ではなく、ただの人さらいじゃ」
これまでも喬公の娘であれば、盲目でも構わないと言う者はいた。
家事全般や育児などについても、全て他の家人にやらせる事も出来るので盲目である事など何も問題無いと主張する者も決して少なくなかった。
しかし、ここまで人の話を聞かずに自分の思うがままに行動する者は、少なくとも喬公の前に現れた事は無かった。
「いや、しかし将軍」
「お前に大事な姉様を渡す訳にはいかない」
困り果てた喬公と違って、妹の方が敵意剥き出しで孫策を睨んでいる。
「聞いてるわよ。あんた、将軍だなんて言っても、領地や官爵を持っている訳でもないんでしょ? そんなモノ、ほとんど山賊と一緒じゃない」
「違う! まだ山賊じゃない!」
「まだ、とか言うな。山賊じゃないだけで良い」
熱くなる孫策に対して、魯粛は冷静に言う。
「ふん、いずれ山賊になるって事でしょ?」
「あら、それは困ります」
会話の中心にいる姉の方が、おっとりした話し方で言う。
「私、上手に山賊なんてやれるかしら?」
「……姉様?」
「だって、山賊なんてやった事ありませんから」
「それは私もないけど、やらなくていいから。むしろやらせないから」
どこに引っかかったのか、何故か乗り気な姉を妹が説得している。
「まあ、妹殿の言う事にも一理あるぞ、伯符。山賊ではないにしても、根無し草である事には違いないからのう。目が見える見えない以前に、そんな強行軍に女人を付き合わせるのはさすがにワシもどうかと思うぞ」
孫策に任せても良い事はないと判断した魯粛が、喬公側に協力する。
「大丈夫だ! だって俺だぞ?」
「知らんわい。お前だから何だと言うのじゃ」
「俺が大丈夫って言ってる事が、大丈夫な証だ! 分かるだろ?」
「分からんわ! もはや何を言っているのかすら分からんわ!」
「とにかく、こんなヤツに姉様を任せる訳には行きません! お父様もそれでよろしいでしょう?」
妹の剣幕に押されて、喬公は答えに詰まっていた。
この反応を見るに、喬公は孫策の事をまったく知らないと言う事は無さそうだと魯粛は感じていた。
本人同士に面識は無く、孫策も喬公の事は知らない様なので、おそらくは父である孫堅と喬公が知己だったのだろう。
孫堅は若くして海賊狩りとして武威を示し、各地を転々として武功を挙げてきた実績もある。
長沙の太守になってからは名士との交わりもあっただろうし、その時に喬公と知り合っていたとしてもなんらおかしくはない。
しかし、あの名将孫堅の嫡子がここまで行動力の化身、と言うより猪突猛進に過ぎるとは考えていなかったのだろう。
普通に考えれば孫策の行動は狂人のソレと思われても仕方がないのだが、孫策には人を惹きつける魅力と狂人特有の不安を掻き立てる雰囲気も無く、それどころかこの行動力は自信の表れに見えてしまうところもある。
喬公としては、現状では根無し草であったとしても大器の片鱗を見せる孫策であれば、盲目の娘を預けるのも悪くないと考えている様にも見える。
が、妹は違う。
徹底的に姉の身を心配している妹から見ると、孫策は人攫いと同類に見えている。
そこには将軍の息子だとか、将来有望と言ったところは見えていないのか価値を見出していないらしい。
「んー、でも案外上手に山賊も出来るかもしれないわよ?」
「姉様、山賊やりたいの?」
一人よく分からないのが、盲目の美女である喬公の娘の姉の方である。
孫策は色々と残念なところも目立つものの、見栄えだけで言うのであれば相当な男前だが、盲目の女性にとってその人物が美男子であろうがそうでなかろうが関係無い。
にも関わらず、この女性は妙に孫策の事を気に入っているようだった。
喬公と違って、女性の方には孫策との面識も無ければ知識も無かったと思われる。
「姉さん、意外と色々出来ると思うのよねー。どうですか?」
「俺もそう思います!」
まったく合いそうにないのだが、孫策と喬公娘の姉は初対面にも関わらず意気投合している。
「……私、何か邪魔してる?」
「いや、お前さんは至ってまっとうじゃとワシは思う。アレがちょっとアレなのでは?」
どこに惹かれあっているのか、孫策と姉の方は妙に楽しそうに話し合っている。
「それじゃ貴方が止めなさいよ! 魯家と言えば、それこそ大富豪なんでしょ?」
「アレが言って聞くと思うか? 言うて聞くならいくらでも説得しとるわい」
「とにかく、どこの馬の骨とも知れないほぼ山賊なんかに姉様を預けるつもりは無いわ!」
これはこれで、中々の女傑じゃのう。
父である喬公だけでなく、孫策に対してすら一歩も譲ろうとしないのは男でもそう簡単に出来る事ではない。
「どこの馬の骨、と言う訳ではありませんよ」
今までどこに行っていたのか、まったく目立たなかった周瑜がひょっこりと現れて言う。
「……はぅぁ!」
これまで散々孫策に噛み付いていた妹だが、周瑜を見た途端に呼吸が止まったかのように言葉が詰まる。
まぁ、分からんではないぞ、小娘。公瑾は男前じゃし、伯符と違って上品じゃからのう。
魯粛としても、孫策の扱いが上手い周瑜が戻って来た事によって肩の荷を降ろした様な感覚だった。
ましてそれまで孫策を相手に戦って来たのだから、周瑜の様な話の分かりそうな知的な男前に出て来られたら喬氏妹でなくても息を飲んだだろう。
「公瑾、竹林の辺りから見かけなかったがどこへ行っていたのだ?」
「念のためと思って、呉景殿に状況を報告する為に鳥を飛ばしておりました。万が一にも女性を連れての行軍とならない様に、私の家族と同等の待遇を約束してもらっています」
「よし、さすがは公瑾! これで山賊とは呼ばせません! 喬公、娘さんは俺が頂いていきます!」
「じゃから、それは人攫いじゃと言うとるじゃろうが」
よく言えば即断即決果断行動と言えるだろうが、誰の目にも猪突猛進単なる暴走でしか無い孫策は喬公の姉の手を引いて攫っていこうとする様に見える。
「お、お待ち下さい、孫策殿。早急に過ぎると言いますか、これまで姉を甲斐甲斐しく世話してきた妹もいますれば……」
「なら、公瑾が嫁に貰えば良い。これで契だけではなく血縁上も正真正銘、俺とお前は義兄弟だ!」
「は?」
「ほぇ?」
唐突に名前を出された周瑜と喬公姉妹の妹は、一人で話を進めて決定しようとしている孫策について行けないらしい。
「なるほど、公瑾なら悪くないのう。喬公、いかがですかな? 孫策将軍はこれから大きく時代を動かす人物であり、周瑜殿は三公の家系である周家の嫡男。喬公の娘であれば何ら恥じない家系ではあると、ワシは思うのじゃが?」
魯粛は喬公に畳み掛ける。
本心では、喬公も娘を嫁がせたいとは思っているはずだ。
だが、名士である肩書きが邪魔している。
その点で言えば、名門である周家は地方太守でしかない孫家と比べて名の通りがよく、喬公としても納得どころか理想に近い相手である。
「何度も言うが、急ぐな。本来の目的はここで嫁を取るのが最大の目的ではないぞ?」
「いや! 今、この時、この瞬間には、喬公の娘を俺の嫁にすると言う事より重要な事など存在しない!」
この男、本当に大丈夫か?
天下の器と言えるかも知れないが、常人では理解出来ないところに孫策はいると思う。
少なくとも、魯粛には理解が及ばない。
「なぁ、妹。お前も公瑾であれば文句ないだろ? と言うより、公瑾に文句を付ける様な事は俺が許さない!」
「伯符、もはや何を言っているのか私にも分からなくなって来てるけど」
「だろ? 俺も勢い任せ過ぎて、ちょっと訳わからなくなって来てるからな」
孫策は笑顔で答えるが、この孫策と長く付き合って行けている周瑜は相当なモノだ。
「まぁ、気にするなよ。いつもの事だろ?」
「かも知れないけど、自分で言う事ではないよね?」
悪びれない孫策に、周瑜は苦笑いするしかない。
「喬公も良いですか?」
「わ、私はともかく、本人達は?」
喬公は姉妹の方に確認する。
「喬氏は良いだろ?」
孫策は尋ねるが、姉妹はどちらの事なのかわからずきょとんとしている。
「そうか、どっちも喬氏か。年上と年下と言う事で上下で分けるか、なぁ、下喬?」
「誰が下喬だ! 姉様、こいつぶん殴らないと!」
「よっしゃ! かかってこい!」
喬公姉妹の妹は本気で孫策を殴ろうとするが、周瑜に止められている。
「上下はあまりじゃろうが。年若な者は『小』と表現するのじゃから、姉を大喬、妹を小喬で問題無かろう」
見かねて魯粛が助け舟を出す。
「おお、それは良いな。これから君は大喬だ! よろしく頼む」
「うふふ、こちらこそ」
これまでのやり取りでもまったくびくともしない大喬は、微笑みながら孫策に頭を下げる。
これはこれでお似合いなのかも知れない。
「それでは、さっそく祝言の日を決めないと」
「うむ、そうだな。喬公、いつ頃が良いと思う? 俺も母上や弟達を呼びたいのでな」
「姉様、ちょっと落ち着いて。言っておきますけど、その男はまだほぼ山賊のままよ」
大喬と孫策は自身の結婚で盛り上がっているが、あまりの暴走振りに周りがしっかり引いている事に気づいていない。
「祝言についてはワシに考えがある」
早くも暴走夫婦として息の合い方を見せている孫策と大喬の為に、魯粛が提案する。
「劉繇を討ち、江東を収め、孫策伯符これにありと天下に知らしめるのじゃ。その時、大々的に祝言を上げて孫家と喬家の結びつき、さらには周家と喬家の結びつきを見せつければ江東は安泰じゃと誰もが祝福するじゃろう、吉日と言うのであれば、これほどの吉日もあるまい」
何より孫策には目の前の事に集中してもらわないと困る。
孫策自身の戦上手な所は周瑜が請け負っているが、いかに孫策に武才があり、周瑜や魯粛の様な天下の参謀が付き、孫家譜代の家臣達がいたと言ってもまだまだ足りない。
文武において、まったく人手が足りていない中では祝言より先に葬儀を必要とする事にもなりかねないのだ。
「それは良き提案! さすがは大富豪にまでなり得たもの。よく先が見えていらっしゃる。孫策殿、その時まで娘はこの喬公がしかと守りますれば、何卒、江東に平穏をお与え下さい」
暴風の様な孫策は相手に出来ないと考えたのか、喬公はすぐに魯粛の提案に乗る。
「姉様、私もそれが良いと思います」
「私も子敬の意見に賛成です」
小喬と周瑜もそれに賛成したので、孫策としても腕を組んで考える。
「こういう事は早い方が良いと思うのだが、大喬はどう思う?」
「私もそう思います。ですが、他の皆様が同意見であると言うのであれば、それはそちらに道理があるのではないでしょうか。私は早い方が良いと言う理由を、そこまで明確に説明出来ませんし」
「うむ、大喬がそれで納得するのであれば、俺も納得するとしよう。だが、祝言の日が決まっていないと言うだけで、俺の妻である事には違いない。今後は孫策伯符の妻を名乗るが良いぞ、大喬」
「やめて。ホントにやめて」
大きく頷こうとした大喬と止めながら、小喬が孫策を睨む。
この調子で二張先生の説得は大丈夫じゃろうかのう。
魯粛としては、不安を感じずにはいられなかった。
私も調べて知ったのですが
Wikipediaを見る限りでは、大喬は正妻では無かったかも知れないとの事。
では正妻は誰だったかと言うと、それは不明みたいです。
まぁ、孫策が何時嫁をもらっていたかわかりませんが、息子と娘がそれぞれ複数いる事は間違い無いので、もしかすると流浪時代にはすでに正妻がいたのかもしれません。
また、京劇での大喬は喬靚、小喬は喬婉と言う名が付いているらしいのですが、同じく京劇によって名が付けられた孫尚香ほど広まっていません。
大喬、小喬が通りも覚えも良かったのでしょう。
言うまでもない事ですが、大喬が盲目であったり、小喬が喧嘩っ早かったりするのは本作の創作設定であり、正史はもちろん演義にもそんな描写はありません。
と言うより、レッドクリフ以降の作品からでないと大喬も小喬もほとんど出て来ないので、当たり前と言えば当たり前かも。