最終話 最期の時
凱旋の途中、魯粛は昏睡状態に陥った。
矛を振るう事などもちろん、剣を振る事も弓を引く事も、本来であれば馬に乗る事すら出来ない状態のはずだったにも関わらず、自ら少数の兵を率いて伏兵として配置して最前線に立っていたのである。
当然、そこに無理はかかってくる。
「魯粛! 貴様に言っておく事がある!」
黄蓋が魯粛を乗せている馬車に、怒鳴りながらやって来る。
「将軍、大都督ですよ。一応は」
呂蒙が形だけは黄蓋を止めようとする。
そこには甘寧や凌統、呂岱や諸葛瑾と言った今回の戦に参加した面々が集まっていた。
黄蓋は先頭を行っていたので、一人離れていたのである。
「案ずるな。それくらい弁えている」
とても弁えている者の態度では無かったが、呂蒙と諸葛瑾は軍の足を止めて黄蓋を魯粛の馬車に迎える。
そうは言っても、馬車の中には意識を失った魯粛が乗っているだけなので会話など出来そうにない。
「魯粛! 貴様に言っておく事がある!」
黄蓋はそう言うと、魯粛の襟首を掴んで引き上げる。
「我々は勝った! 大勝利だ! 完勝と言っても良いだろう! だが、それを伝える為にも、大都督のお前は生きて帰り、主に伝えねばならん! それが出来て初めて大都督の責務を全うすると言う事だ!」
黄蓋の叩きつける様な言葉に、魯粛はうっすらと目を開けて黄蓋の腕を掴む。
「がならずとも聞こえておるわい。じゃが、赤壁の時、あの重傷でありながら笑って帰ってきた武将ならではの言葉、確かに届いたぞ」
「ならば良い。帰路で眠る事は良いとしても、死ぬ事は許さん。それは大都督としての責務を軽んじる事になると言うのはその胸に刻め」
「……そうじゃな。コレは爺様の言う通りじゃわい」
「それだけ憎まれ口を叩ければ十分だろうが、誰が爺様だ。そう言うのは子布に言ってやれ」
こうして魯粛は息のある内に建業へ戻る事が出来た。
孫権への報告は呂蒙と諸葛瑾が行うと買って出て、凌統が責任を持って魯粛を私邸へと送り届けた。
「正直に言うと、俺はあんたの事が好きじゃ無かったよ」
凌統は魯粛を寝かせながら言う。
「ガキの頃からオヤジを良い様に使っていたし、俺や子明をどこまでもガキ扱いしてさ。いつかぶっ飛ばしてやろうと思っていたよ」
「今なら出来るじゃろう?」
「……いや、結局今も出来そうに無い」
凌統は苦笑いして言う。
「死にかけていると言っても、あんたは大都督だ。気に入らないと言うだけの理由で殴ったとあっては、俺は軍規によって死罪になる。いくらなんでも割に合わないからな」
凌統はそう言って去ろうとしたのだが、ちょうどそこへ華佗がやって来る。
「何じゃ、華佗。まだおったか」
「華佗先生、その節はお世話になりました」
凌統が華佗に頭を下げる。
「何じゃ、お主ら知り合いじゃったか」
「俺も患者だったんだ。合肥でやられたのを、華佗先生に診てもらった」
「そう言う事か。ところで、華佗は何でまだここにおる?」
「奥方様がまもなく出産なされそうなので、せめて私なりの責任を取ろうと言う事です」
「では、俺はこれで」
凌統は立ち上がって席を外す。
「うむ、健やかにのぅ」
こうして凌統とは今生の別れを済ませた。
だが、正史には合肥以降の凌統の記述は無く、死去した後に配下の兵を別の者が継いだと記されるのみである。
魯粛は華佗の治療を受けたとしてども衰弱は著しく、ほぼ立ち上がる事すら出来ない状態になっていたのだが、それでもまだ息はあった。
「まだ生きているか?」
しばらくしてそんな魯粛を訪ねてきたのは、孫権と呂蒙だった。
「もう間もなくと言ったところじゃが、まだ生きとるよ」
魯粛は横になったままだったので上体を起こそうとしたが、孫権から止められる。
「そのままで良い。起きるのも辛いだろう。今日はそんな珍しいお前を目に焼き付けに来たんだ。後任の呂蒙も一緒にな」
「相変わらず良い性格をしておるのう。それでこそ我が主じゃ」
「先日、黄蓋の爺様が逝ってしまってな、俺も寂しいんだよ。からかわせてくれよ」
孫権の言葉に、魯粛は笑う。
「子明、この通りの主じゃ。大都督として仕えるのは、楽ではないぞ?」
「それは先代と当代を見ているので知っているさ。だた、出来る事ならもう少し当代から学ぶ事はあると思う。まだ当代には頑張ってもらいたいと言うのが本心だよ」
「無茶言うな。ワシはあの胡散臭い医者から無理矢理生かされておるだけの状態で、いつ事切れるか分からん。それは明日かも知れんし、今この時かも知れんからのう。仲謀も子布とは喧嘩するにしても仲良く喧嘩するんじゃぞ?」
「また難しい事を言ってくれるな。だが安心しろ、子布とは死ぬまで喧嘩仲間だ」
つい先日も孫権が虎を狩りに行こうとしていたところ、張昭から大目玉を喰らったらしい。
主君たるものが身一つで狩りなど、言語道断とブチギレだったと言う。
そこで孫権はその意見に素直に従って、狩りに行く時に使う馬車に装甲をつけて武装させる事にした。
「……そう言う事じゃあるまいに。子布はキレたじゃろう?」
「いや?」
「キレとらんのか?」
「今現在進行形でキレ散らかしている」
「謝っとけ。死にかけとるワシまで巻き込むな」
「そう言うなよ、大都督。困ってるんだから、助けてくれよ」
「子明、この通り、大都督は決して楽ではないぞ」
「ご主君、これは当代の言い分が正しいと思います」
「そう言うなよ。師父がちょっとムカついたから言っちゃっただけなんだよ」
「ムカつくのはわからんではないが、お主は主君じゃぞ? 子布のキレ芸に一々付き合ってどうする」
「え? アレって芸なの?」
「芸じゃよ。あの筋肉があるからこそ成立する、高等芸じゃな」
「二人共、師父殿に聞かれたら怒られますよ」
孫権と魯粛の止まらない張昭批判に、呂蒙が口を挟む。
「そんな愚痴とかじゃなく、今後の軍略とかの話はしなくて良いのですか?」
呂蒙が尋ねると、孫権も魯粛も嫌そうな顔をする。
「あんたら、マジかよ」
「子明はすっかり真面目になって」
「昔はあんなに脳筋じゃったのにのう」
「何で悪い事みたいに言われてんの? 俺が間違ってる?」
呂蒙が不思議そうに尋ねる。
「間違ってはおらんよ。じゃが、ワシの軍略と子明の軍略は違うからのう。ワシが大都督となってもっとも気をつけた事は、公瑾の後を追わない事じゃった。ワシの才は公瑾に及ばん事は分かっておったからのう。その上で公瑾の後を追ったのでは、確実に失敗する。お主も一緒じゃよ、子明。子明の才覚の伸びはおそらく人並み外れておるじゃろう。一部で言うのならば、既にワシを超えておる分野もあるじゃろう。が、総合的に言うのであればまだ子明はワシにも及ばん。当然、公瑾にもじゃ。なればお主がやるべきは、ワシや公瑾ではなくお主が一から軍略を練り上げる事じゃろう。お主の軍略であれば、ワシや公瑾以上にお主がもっとも詳しく優れた人物なのじゃからのう」
「そう言うな、子敬。何か道筋くらいはあるだろう?」
呂蒙を突き放す魯粛に対し、孫権が助け舟を出す。
「あるにはあるが、あくまでもワシの軍略じゃからのう。じゃが、一つ確かな事は、曹操と戦うにしても劉備と戦うにしても一筋縄ではいかんと言う事じゃが、それは言われんでも分かっておるじゃろう?」
それに関しては孫権も呂蒙も頷く。
「じゃったら話は簡単じゃ。戦をするのであれば勝てる方に勝つ。戦をせぬのであれば、双方を戦わせる。特に劉備と孔明の軍略であれば、曹操とは必ずやり合うのじゃからのう」
魯粛はそう言うと、ゆっくりと息を吐く。
「ここからはワシの独り言なのじゃが、慌てんでも、荊州を得る機会は必ず来る。しかしそれはワシの軍略じゃから、子明が同じ事をしても上手くいかんかも知れん。それで最初に戻るが、ワシや公瑾を追うのではなく自身で練った軍略に、先の条件を当てはめていけば戦うべき相手と戦うべき時も自ずと分かってくる事じゃろうて」
魯粛の言葉に孫権は難しそうな表情を浮かべたが、呂蒙は何か思うところがあったらしく何か考え込む。
「ここまで言ったのだから、ついでに仲謀にも言っておこうかの」
「俺か?」
「酒はほどほどにのう。ワシらが袁龍と戦っている間に、お前、周泰を潰したそうじゃのう。そう言うところじゃぞ?」
「楽しく飲むのが良いんじゃないか」
「そこは否定せんが、お主しょっちゅう虞翻と揉めるし」
「それは虞翻が悪い」
「師父殿の時と同じですね、ソレ」
「な、お主が悪かろう?」
そう言われては孫権も返す言葉が無い。
「楽しく飲むのを咎めておるのではない。お主がハメを外しすぎる事を懸念しておるのじゃ。そう言うところは先主と一緒じゃからのう」
「まぁ、兄弟だし」
そう言って笑い合っていると、離れから歓声と赤子の泣き声が聞こえてきた。
「何事だ?」
「どうやら、ワシの子が生まれたらしい」
「え? 結婚してたの?」
呂蒙だけでなく、孫権も驚いている。
「してたのじゃ。仲謀には言うとったじゃろうに、何を驚いておるのじゃ?」
「まったく女っ気が無いから、てっきり見栄を張っているとばかり。脳内家族の話じゃ無かったんだな」
「ワシを何じゃと思っとる」
そんな話をしていると、華佗が赤子を抱いて、さらにその後ろからは女官から肩を借りて于氏までもが魯粛の元へやって来た。
「おいおい、出産直後に動き回るヤツがあるか」
「名前を。この子に名前を付けてあげて下さい」
于氏は息も絶え絶えになりながら、女官の手を借りてでも魯粛の元にやって来たのは、まさにその為だった。
会話は平然と行っている魯粛だが、その意識がいつ途切れ息を引き取るかも分からない状況なのである。
十分に休んでからでは間に合わない恐れがある事を、彼女は誰よりも分かっていた。
だからこそ、華佗まで連れてやって来たのだろう。
「これがワシの子か。感慨深いはずなのじゃが、生まれたての赤子はまったく見分けがつかんのう」
「元気な男の子です。立派な世継となられるでしょう」
「うむ。華佗を見て大泣きしているのを見ると、安心するわい。我が君、我が子を抱いては下さらぬか?」
「……俺が?」
「華佗よりマシじゃろう」
「奥方様は横になられた方が」
自分に回ってくる事を察した呂蒙は、于氏を介助していた女官と共に于氏を魯粛の隣に寝かせる手伝いをする。
「ワシは父を知らずに育った。まさか、我が子にも同じ思いをさせるとは思わなんだな」
「父がいかに優れた者であったかを伝え聞かせますので、是非名をお与え下さい」
疲れきっているだろうが、それでも于氏は魯粛に縋る様に言う。
「そう言う事は望んでいない。ワシを気にする事無く、ただ淑々と生きてくれればそれで構わんのだが……。そうじゃな、淑が良い。我が子の名は淑、魯淑が良い」
「淑、か。良い名をもらったな、魯淑」
孫権は華佗から渡された魯粛の息子に向かって言う。
生まれて間もない赤子であっても、孫権は華佗とは違う事は分かるらしく泣き止んだだけでなく興味深そうにじっと孫権を見ている。
「まるで父を見る様な目じゃな」
「なら父であるお前が抱いてやれ」
孫権は赤子を魯粛に渡そうとしたのだが、魯粛はゆっくりと目を閉じて深く息をつく。
我が子には苦労をかけるかもしれんのう。
そんな事を考えながら、魯粛は眠る。
やり残した事はある。悔いが全く無いと言えば嘘にもなるだろう。
だが、悪くない。全てに満足と言う訳ではないにしても、納得の行く人生だった。
と、うっすらと笑いながら、魯粛は目覚める事の無い眠りについた。
享年四六歳。魯粛は息子が生まれた年にこの世を去った。
魯粛の死を知った諸葛亮は喪に服したと言う。
多大な功績を残していながら、どこまでも周喩の陰として行動していた魯粛ではあるが、孫権は後に、
「自分を皇帝に、と言う臣下は多かった。しかし、誰よりも早く、それも周りが鼻で笑う様な時から自分に皇帝になれと言ったのは魯粛が最初であった」
と言う話を臣下に伝えたと言う。
「そうか、魯粛殿が逝かれたか。孫権にとって多大な損失であろうな」
荊州にあって、関羽はその訃報に触れた。
孫権軍にあって、誰よりも親劉備派でありながら誰よりも油断ならない人物がこの世を去った事によって、関羽の目は完全に北を向いた。
それこそ、魯粛の遺した策である事も知らずに。
この物語の中で魯粛の荊州奪還タイミングについて
結局最後まで説明する機会に恵まれなくて放置していましたが、度々魯粛がいずれ荊州は手に入ると言っていたのは、本作での創作です。
正史でも演義でも荊州獲りに行ってます。
ただ、この物語の魯粛は別のタイミングを見出していました。
劉備が正当性を主張する為に必ず行う北伐のタイミングです。
魯粛が生きていれば、関羽は無謀な北征に挑む事は無く、当然呂蒙に討たれる事も、その後の夷陵の戦いもありません。
ただし、曹操軍も于禁軍や龐徳を失う事もありませんが。
それでも孔明は劉備の正当性の為に、どこかで北伐を行わねばならず、この物語の魯粛はその際に荊州奪還を考えていました。
司馬懿が五路から同時攻撃の策を仕掛けた事を、逆に孔明が魏に仕掛ける形にする為にもこの提案を拒否出来るかは難しいと魯粛は読んていた、と言うワケです。
ただ。本編では話す機会が無かったのでここで説明しましたが、あくまでもこの物語だけの創作設定です。
それではこれまでご愛読、ありがとうございました。




