第三十六話 それぞれの思惑
「っざっけんなよ、あのヒゲ! ぶっ殺してあのヒゲむしり取ってやらぁ! やんぞ、てめぇら!」
魯粛が戻って来て数日と経たないうちに袁龍の反乱が伝えられ、上機嫌だった孫権は火が付いた様に激怒した。
「同じ怒り方じゃのう。今度こそ酔っとるのか?」
「酔ってねぇよ! って言うか飲んでねぇっての! ナメられてんだろ、どう考えてもよぉ! あのヒゲ、口では返還を約束しながら、舌の根も乾かないウチからコレだぞ! キレるところだろうがよぉ!」
「まぁ、そう見えるのう」
激怒する孫権と違って、魯粛はどこ吹く風と言う態度である。
だが、この頃になると魯粛が重病である事は本人が隠そうとしない事もあって、周囲も心配していた。
それに対してすら、魯粛はどこ吹く風と言う態度を崩さない。
「そう見える? そうとしか見えないだろう? あのヒゲ、ぶっ殺すしか無いだろう?」
「いや? あのヒゲは今回無関係じゃよ」
文官達はいつ孫権が暴れ出すかを心配して張昭の後ろに隠れる準備をする者達も多かったが、魯粛はその心配もしていない。
「ヒゲが関係無いだと? どう考えても関係あるだろう!」
「まぁ、まったく無いと言う訳ではないじゃろうが、それはあのヒゲが描いた絵では無いのぅ。おそらくは袁龍とかいうお調子者が、ヒゲに媚びるつもりなんじゃろうな」
「ところで袁龍とかいうヤツはどんなヤツなんだ? 俺は知らないんだが」
孫権はイラつきながら尋ねる。
「ワシもよう知らん。小さな頃から悪ガキで、齢十五で不良と呼ばれるに至ったそうじゃ」
「そんな触る者を皆傷付ける様な話じゃなくて、戦力だとか戦術だとか陣容の話だ」
「兵力は一万五千程度と、数はそれなりじゃな。地元の豪族らしいが、武将として活躍したという訳ではななさそうじゃな。それ故にヒゲに名を売ろうとしておるのじゃろう。可愛いモノじゃな」
魯粛は薄く笑う。
「で? それを放っておくのか?」
「そんなワケ無かろう。徹底的に叩き潰す。ヒゲがワシらを軽く見ておる事は違いない。それはそれで利用価値はあるのじゃが、ワシとてその見られ方は気に食わんからのう。お調子者が出てきてくれたのじゃ、存分に利用させてもらおうかのう」
「よし、兵はどれくらい出す?」
「前の三千いれば十分過ぎるくらいなのじゃが、ヒゲの手前、派手にやる必要があるから一万といったところかのう」
「一万? 敵は反乱勢力だけで一万五千という事だが?」
張昭が尋ねると、魯粛は大きく頷く。
「じゃからこそ、一万で良いんじゃよ。さっきも言うたが、本当なら三千で十分なんじゃが、ヒゲが見ているからちょいと派手に演出する必要がある。じゃが、敵より圧倒的に大軍で攻めては、あのヒゲはこちらを下に見続けるじゃろう。それは好みじゃあるまい?」
魯粛はそう言うと、陣容として呂蒙と甘寧、呂岱は引き続き旗下に置き、新たな七千を率いるのは諸葛瑾、その補佐として凌統と黄蓋を任じた。
「……私ですか?」
諸葛瑾が不思議そうに尋ねる。
「本当なら厳畯なんじゃが……」
魯粛が厳畯に目を向けると、厳畯は手と首を振って拒否している。
「まぁ、案ずるな。お主くらい忍耐強い者は得難い資質じゃからのう。矛としての大都督には向かぬかも知れぬが、盾としての大将軍であればお主は適任じゃとワシは思っておる。故に戦場を経験するのも悪くなかろう。それに血の気の多い黄蓋爺と怪我が治って体を動かしたくて仕方が無い公績が両翼を固めるからのう。むしろ両翼の制御が一番の大任と考えた方が良い。な、適任じゃろ?」
魯粛が言うと、諸葛瑾は項垂れながらも諦めてその任を受ける。
「まぁ、気負うな。先に言うた通り、お主の仕事は戦場で敵を倒す事ではなく、味方を制御する事じゃ」
魯粛の予想した通り、関羽は最初この戦に関わるつもりは無かった。
それどころか、自身で袁龍を討つと宣言して兵を上げようとしたくらいだったが、それは関平と参謀である趙累から反対された。
「将軍、それはなりません!」
「何を言うか、趙累。この関羽が返還を約束したのだ。それを何処の馬の骨共知れぬ者に汚され反故にさせられたのだぞ。それを良しとする道義がどこにある。この関羽自らが討伐せねば立つ道理も無かろう」
口調は冷静だが、説得は楽じゃない事は関羽の配下全員が分かっていた。
平時であってすら関羽の説得は困難であると言えるのだが、今回の事に関して言うなら明らかに関羽の言うとおりである。
どれほど言葉を飾ったところで、こちらから返還を約束すると言ったにも関わらず、それが成されるどころか言い出した側から一方的に反故にする様な行動なのだから、本来ならば関羽が言う通り荊州を治める側の責任として対処するべきところだろう。
関平にしても趙累にしても、その事は分かっている。
それでも反対するには理由があった。
現状の荊州の不安定さである。
荊州を狙っているのは孫権だけではなく、より強大な戦力を誇る曹操が常に隙を伺っている。
例えここで関羽の不興を買ったとしても、戦は袁龍と孫権軍で勝手にやってもらって荊州軍は今回の騒動で一兵足りとも損なうべきではない、と言うのが趙累の考えであった。
それは損得勘定だけでなく、戦略的にも戦術的にも間違ってはいないはずだと趙累は判断した。
同じ様に出兵を止めた関平も、おそらくは同じ考えだったのだろう。
問題は多々あるが、最大の問題は戦略的には間違っていない選択であったとしても、それだけが説得材料ではとても関羽を説得するには足りない。
「孫権軍が出張ってきたのでしょう? ここは孫権軍に花を持たせてやればどうですか? 連中としては曹操軍にやられっぱなしだから、憂さ晴らししたいんでしょう?」
まったく戦略に関わらないところから、気楽とも言える様な事を周倉が言う。
「確かに! 孫権軍としては面子を保つ為にもここでの勝利を望んでいるはず。父上が兵を挙げて討伐してしまっては、孫権軍にとって挽回の機会を奪う事になります」
関平が周倉に賛成する。
「それは向こうの都合であり、この関羽の義では無い」
「ですが、将軍が乱を収めたとして、孫権軍にどの様な言い訳をなさるおつもりで」
「言い訳? 言い訳だと? この関羽が言い訳とな?」
趙累の言葉に関羽が睨む。
「将軍であれば袁龍程度の小者、まさに赤子の手をひねるより容易く打ち倒されるでしょう。ですが、不手際の説明は必要になるでしょう。将軍は孫権の前に膝を屈して謝罪せねば、形としては許されないのでは?」
趙累の言葉に、関羽は怒りの形相を浮かべるものの言い返す事はしない。
「……続けよ」
「ここで兵を出したとしても、将軍は戦に参加せず見守るのです。もし孫権軍が遅れを取るのであればそれに加勢して乱を収める事が良いでしょう。もし孫権軍が乱を収めれば、その総大将、おそらくは魯粛殿でしょうが、その時はこちらの不手際を認め、さらにその手腕を褒め称える事で体裁は整います。その上で返還をこちらの手動で行えば全て収まりましょう」
「詐術であるな」
趙累の言葉に、関羽は一言呟いて目を閉じる。
まだ納得はしていない様だが、それでも考えてくれるところまでは届いたか、と趙累は安堵する。
「だが、病身を押して自らの任に耐える魯粛殿は英傑と呼ぶに相応しい人物である。おそらくはその最期の戦場、この眼に納めるのは悪くない」
関羽はそれでも三万の荊州軍を率いて、戦場へ向かった。
先行していた廖化が関羽の軍に合流すると、戦場の様子を伝えてきた。
「……なんだ、この布陣は?」
廖化が詳細に記した戦場を見た周倉は、思わず声を上げた。
それは周倉に限らず、関平も関羽も同じ様に思った。
袁龍と魯粛は川を挟んで対峙しているが、中央突破を考えている袁龍の布陣に対し、兵力の少ない魯粛は何故か上流側に片翼を担う兵力千を、下流側にもう片翼の千、中央の先鋒軍として千。本隊なのか予備兵なのかわからない後軍が七千ほどだが、その兵も後方で半分ずつ左右に分かれている。
明らかに中央突破を狙う袁龍に対し、魯粛の陣は方陣とも鶴翼とも取れる中途半端な陣を構えていた。
「父上、魯粛は病によって気弱になっているのでは?」
関平の言葉も、わからないではない。
魯粛の布陣は相手の行動に対応する事ばかりを考えた様に見える為、逆に自分から何も仕掛けられない無様とも言える布陣であり、いかにも机上の空論を振りかざす戦場を知らない参謀が好みそうな布陣だった。
だが、中央突破を構える相手に対して、あまりにも中央が薄い。
これでは何か策を用いようとしても間に合わず、中央から真っ二つに分断され蹂躙されるだけだ。
関羽はそう思った。
魯粛を侮るつもりは無いし、むしろ関羽は高く評価しているつもりだった。
が、それでももし関羽が袁龍の立場で魯粛と戦う場合、罠があると分かっていても中央突破を狙う事だろう。
それで勝利は確実だ、と思った瞬間に、目の前に魯粛の幻影が現れて関羽の喉に手を伸ばしてきた。
掴まれた!
と、関羽は実感した。
ここで中央突破を敢行した場合、確実に失敗する事だけは分かる。
「廖化、これは確かか?」
「はっ、数刻前の布陣です」
全員が魯粛を買い被っていたと思っていたところだが、関羽の表情が険しい事に気付いて全員が気を引き締める。
「将軍、何か?」
「この戦、よく見ておくべき戦であろう。廖化、この布陣は数刻前だと申したな」
「はっ。まもなく夕暮れですので、本格的な戦闘が行われるのは明日以降になるかと」
廖化の報告に、関羽は頷く。
「では代表して関平よ、貴様であればこの戦どう動かす? 袁龍の立場で考えよ」
「袁龍の? 魯粛ではなく?」
見たところ不利なのは魯粛であり、圧倒的に有利なのが袁龍である様に関平には見えていた。
「ここに至っては中央突破で決着が着くでしょう。いかにも罠の存在を匂わせていますが、ここから中央突破を止めるのは非常に困難なのではないかと思いますが」
「……皆、そう思うか?」
関羽は周囲を見回すと、関平の他、周倉や廖化も頷いている。
「趙累はどうだ?」
「私には実戦の経験がありませんので、ここからどの様に兵を動かすべきかはまったく想像も付きませんが、将軍には別のモノが見えておられるのですね」
趙累の言葉に、関羽は川を指差す。
「決して大河ではないが、船が無ければこの川を越える事は出来ない。我らは地続きの戦には強いが水軍を挟む戦には慣れていない。おそらくだが、既に魯粛の戦は始まっている。皆、もし自分が袁龍であればと考えながらこの戦を見守ると良い。廖化、改めて詳細を調べて来てくれ」
「御意」
廖化はそう言うと、ごく少数の兵だけを連れて戦場の様子を見に行き、関羽は三万の兵を待機させた。
袁龍って誰?
正直に言えば、袁龍ってのが何者なのかは私程度に集められる資料ではわかりませんでした。
なので本当にギザギザハートな感じだったのかはわかりません。
Wikipediaでちょろっと名前が出てくる人で、どんな人なのかわかりませんが単刀会の後に反乱を起こしたみたいだったので、出てきてもらいました。
また、正史ではすでに黄蓋は死去していますし演義でも赤壁以降の働きは無いのですが、正史によると赤壁の後にも反乱勢力と戦った記述もありますので、ここでソレを成してもらう為に出てきてもらいました。
凌統にしても死亡時期がはっきりせず、早ければこの時期に病死している可能性があるみたいですが、この物語ではまだ存命です。