第三十四話 諸葛瑾の受難
「孔明、あんな感じで良かった?」
劉備は諸葛亮に尋ねるが、諸葛亮は何やら考え込んでいた。
「ダメだった?」
「あ、いえいえ、完璧です。あれほど胡散臭い言動は、しっかりした素養が無ければあそこまで自然な悪党のフリは出来ないですよ。さすが我が君です」
「……なるほど、この話は後からゆっくり時間をかけてするとして、何悩んでたの? らくないじゃない」
「兄が使者としてやって来た事です。決して兄を悪く言う訳ではありませんが、この手順は無駄以外の何物でもないのです」
「めちゃくちゃ悪く言ってるわね。でも瑾さん、孫権軍ではそれなりの地位にいるんじゃないの?」
「いるみたいですけど、ここに来るのは魯粛殿のはずだったんです。結局やる事は同じなんですが、兄はこの後荊州に言って関羽殿に追い払われて、呉に帰って魯粛殿に報告して、魯粛殿が荊州に来て関羽殿と話し合いになるわけですが、魯粛殿が直接来てれば兄の件が丸々不要なのが分かるでしょう?」
「ああ、まぁ、うん。そうね」
「何か魯粛殿が来れない理由があった、と見るべきなのです」
「私、けっこうあの人好きだけど、あの人来ないと何かマズい事でもあるの?」
「そうですね、めちゃくちゃマズい事と、ちょっと良い事がありますかね」
「え? 何それ、いいじゃない。それじゃ良い事から聞かせてもらいましょ」
劉備は身を乗り出して、諸葛亮に尋ねる。
「魯粛殿ってあんな感じですけど、すっごい怖いじゃないですか。あの方が自由に動けないのは、それだけで十分有難いでしょう?」
「有難いわねぇ、でも周喩と比べて魯粛の方が能力は格下じゃないの?」
「それが問題なんですよ」
魯粛は確かに周喩と比べると僅かとは言え劣るところはあるし、それは魯粛自身が認めている。
その事が問題だった。
周喩は人品優れた名将の中の名将であったが、その事が周喩の軍略を狭めたところもある。
清廉潔白である周喩は、清廉潔白な手段を用いる事を強制させられていたとも言えた。
妙な例えになるが、諸葛亮ですらその周喩の清廉さに甘えていたところもあった。
しかし、魯粛は自身が周喩より劣る事を隠さないどころか、実際の能力より自分を小さく見せる事が上手い事もあって、周喩では取れなかった汚い手も平然と打つ事が出来る。
何しろ、あの周喩ですら敗れるほどの相手なのだから、勝利の為には止むを得ない事なのだ、と。
実際に魯粛が人道に悖る様な真似までしてくるとまでは諸葛亮は考えていないが、そう言う事も有り得る『かもしれない』の時点で脅威なのである。
そして困った事にその効果の高さを、魯粛は十分に理解している。
「つまり我々にとって周喩殿は孫権軍最強の敵であったと共に最良の敵でもあったのです。魯粛殿は最強の敵とはなりえないにしても、最悪の敵にはなりかねません」
「でも、その人が自由に動けないのは凄く良い事じゃないの? それがちょっと?」
「それより都合が悪い事が大き過ぎるんですよ。何をどう言っても、魯粛殿はこちらに協力的です。私達が荊州をぶん取った事で、孫権軍の方々からそれはそれは恨まれている事でしょう。ですが、魯粛殿は大局から見ておられますから、なんやかんや言っても私達の味方をしてくれてました。その方が自由に動けなくなったと言うのは、本当にマズいんです」
「あ、そう言う事。それはマズいわね」
「ただ、原因にもよります。何かしらの政変があって失脚したとかであれば、ある意味ではまったく問題ないんです。それであればあの異才をこちらに招き入れられる機会もありますし。ですが、動けない理由が健康上の理由、特に重病などであれば大問題です。魯粛殿の後任が魯粛殿と同じ軍略を引き継ぐとは限らないですから、いきなり全面戦争も有り得ます」
「そりゃ困るわね」
「今の孫権軍にとって、荊州の件は何よりも優先されるはず。その事について大都督が動こうとしないのは、何かおかしいどころの話では無いのです。政変の話などはまったく聞こえてきませんし、おそらく魯粛殿に何かしら良くない何かが起きているとしか思えません」
「うわー、ちょっとマズそうね。でも、戦になって困るのは向こうも一緒って言ってなかった?」
「そのはずなんですけど、先ほども言った通り、荊州の件は孫権軍にとって最優先事項であるはず。魯粛殿に何かあった時には、最短で荊州を取りにと言う事は考えられるのです」
「だとすると、雲長さんに追っ払わせるのは失敗だったんじゃない?」
劉備の質問に、諸葛亮は考え込む。
おそらく、十中八九はそんな事にならない。こちらにとっても戦は出来る限り避けたいところではあるが、孫権軍は合肥で大損害を被った直後である。
それに、魯粛が死んだと言う報告も無く、もしそうであったら諸葛瑾の態度もあんな程度では済まなかったはずだ。
魯粛であれば、ここが妥協点である事は分かるはず。
魯粛が短絡的に全面戦争を引き起こすとはとても思えないが、もし死期が近い事を自覚していたらとても軍略とは言えないほどに短絡的な行動を取る事は無いとはいえない。
「雲長さんで大丈夫? あの人、けっこう喧嘩好きよ?」
「あんな言動の関羽将軍は並外れて大器の将軍ですから、大局も軍略も理解しています。今の我々にとって荊州は手放せないにしても、全面戦争を引き起こすくらいなら荊州南部を手放す事の方が双方にとって最良であるとわかってくださるはずです。念のために私が荊州を離れる際に『北は曹操を拒み、東は孫権と和す』と言う言葉を残していますので分かって下さると信じていますので」
「わりと心配なんだけど」
劉備は不安そうだったが、諸葛亮も同じように心配していた。
関羽の扱いは劉備や諸葛亮ですら困るのだが、その点では魯粛の方が上手いと言うのが本当に困りものなのである。
諸葛瑾はまったく軽くなる事も無い心を抱えて、荊州にやって来た。
話が通じるとは言え結果としては何も変わらない弟や劉備もそうなのだが、関羽は言葉が同じであっても話が通じるとは思えないところがある。
何しろ関羽は曹操からの厚遇を受けていたにも関わらず、そこを離れる時には数箇所の関所を破って関所の守将すら幾人か切り捨てていると言う。
まともな武将ならそんな事しないだろ、とどうしても思ってしまうのは諸葛瑾が文官だからと言うだけではないだろう。
それでも諸葛瑾は正式な使者であり、丁重に城へと招き入れられた。
美髯公とあだ名されるほどに立派な髭、堂々とした体躯とよく日に焼けた赤ら顔、細く鋭い目など、まったく会った事が無くてもその人物が関羽である事を実感出来る。
「して、孫権よりの使者との事であったが、一体何用か? 先の奥方様が我が主の後継となる若君を誘拐しようとした件に関する謝罪かな?」
いきなりの先制攻撃だな。やはりまともに話をするつもりはない、と言う事か。
諸葛瑾は眉を寄せて関羽の言葉に首を振る。
「かねてより、益州を手にした時には荊州を返還すると言うお約束であったはず。劉皇叔と、弟である諸葛亮よりその旨を伝える書状を預かっております。速やかに荊州の返還にご協力いただきたい」
「はっはっは、これは異な事を言われる。この領土は全てが漢の領土。それすなわち漢の皇叔である我が主に帰するものである。それを返せなどとは、実に解せぬ物言いであるな」
「漢の皇帝は北にあり、その言を用いるのであれば我らは全て曹操家臣と言う事になります。皇帝がご顕在であらせられるのに、皇叔がそこまで自身の権勢っを振りかざすのは漢への謀反となるのでは?」
あまりにも傍若無人な物言いに諸葛瑾は思わず反論してしまう。
これで気分を害したとなれば、これ以降は本当に話が出来なくなると心配したのだが、予想に反して関羽は満足そうに頷く。
「確かに、これはこの関羽の失言であった。試すような真似をして申し訳ない」
試されていたのか? アレで?
いかにも関羽らしい言葉だったので、諸葛瑾はまったくそんな感じを受けなかったのだが、本当にそうだとしたら大したものだと思う。
「しかし、この荊州は先の大都督である周喩殿との取り決めによって得た大地。それを返せと言われるのは、亡き周喩殿との約束を蔑ろになれる事にはならないかな?」
関羽は挑発的な事を言ってくる。
論戦、か? いや、下手な事を言って論破する事の方が面倒になるだろう。
「お願いします、関羽殿。我が主は私と弟の内通を疑い、家族を捉えているのです。このまま主の元へ帰っては我が家族は極刑に処されてしまいます」
「それはお辛い事でしょう。仕える主を誤りましたな」
笑ってやがる、マジかよコイツ。
諸葛瑾としては泣き落しを仕掛けるつもりだったのだが、まったく相手にされない。
「我が主であれば、その様な無体はなさりませんでした。仕える主を誤るとは、その様な事なのです。いかがですか、諸葛瑾殿。誤った主を捨てて我が主に仕えては。弟君もおられる故、その地位も約束されましょう」
「関羽殿、それはあまりにも酷な話なのでは?」
「諸葛瑾殿、貴方は正式な使者故にこの関羽もそう接したつもり。もし謀られるのであれば、この関羽とてそう接しますが、いかがかな?」
本当に油断ならないな。この人、単純極まりない武将ではないと言う事か。
「この関羽、その様な安い謀で踊らされると思われては、些か以上に心外。それとも武将如きはこの程度の浅知恵で十分と思われたか?」
「とんでもない。ですが、我が主が我が一族を捉えたのは事実。それ故に劉皇叔もこの様に書状を持たせたのです。互いの為にも、是非ご尽力のほどを」
諸葛瑾が劉備からの書状を出そうとするのを、関羽は手で制する。
「将、外にありては君命受けざるところなり。事、荊州に関してであれば、それは決定権はこの関羽に帰すところにあるはず。いかに主君の書状をかざされようと、この関羽、荊州の民の為を思えばこそ割譲するつもりなど一切無い」
「何を言われますか。それこそ謀反ではございませんか?」
「この関羽、後ろ暗いところなど皆無。もし主君に謀反を疑われると言うのであれば、この身一つで主の元へ出向き、事の経緯を説明する所存。諸葛瑾殿、この関羽と話す時にそれだけの覚悟を持って臨まれましたかな?」
覚悟? これは劉備や孔明からの決定事項を関羽に伝える為のことだったはずなのだが。
と言ったところで通じる相手では無い。
やはり最初に感じた通り、まともに話が通じる相手では無かったのだ。
「何より貴方は我が軍の軍師の兄に当たるお方。本来であれば非礼にて手打ちにするところ、今日のところは見逃すと致しましょう。関平、周倉、使者殿のお帰りだ。失礼の無い様に送り出せい!」
関羽は有無を言わせずに宣言すると、傍らに控えていた二人の武将が諸葛瑾を城から追い出した。
関羽と言う人
Mr.理不尽の髭男爵ですが、今の時代であれば絶対に許されないパワハラ全開上司と言うのはその通りだと思いますが、張飛と違って末端の者にはかなり優しく、中途半端に立場が高い者にはすっごい厳しかったみたいなので、わりと良いところもある上司ではないでしょうか。
私は関羽の下で働きたいとは思いませんが、張飛よりはマシなのは確かです。
諸葛瑾が書状を持って返してと言ったのを突っぱねたのも、ぶっちゃけ弟の指示だったのですが、関羽であれば別に不思議じゃ無いと思われるのが怖いところです。
ただ、誰しもが予想出来る通り、こんな理不尽大王な性格が災いを招かないはずはありません。
いつの時代もそうですね。
何度も言いますが、張飛よりはマシですけど。




