第十話 喬公の元へ
「劉繇とは、面白い事を考えましたね。魯粛殿は商人としてだけではなく、軍略家としても超一流ですね」
「公瑾からそう言うてもらうのは悪い気はせんが、いらん世辞じゃな。今のワシの主戦場が中原ではなく江東だったと言うだけの事。故にワシは呂布の事を知らんかったが、その分劉繇の事を知っていただけじゃ」
魯粛は得意げにならず、むしろ淡々と答えた。
劉繇とは、黄巾党の討伐の際に命を落とし後事を曹操に託した劉岱の弟であり、自身も優れた官吏である。
彼は正式に朝廷から揚州刺史を任命されているのだが、袁紹と袁術は今の朝廷を正式な朝廷と認めていない事もあり、袁術は揚州の治都である寿春を実効支配したまま動こうとしなかった。
やむを得ず劉繇は曲阿を拠点とした事もあって、魯粛は調べる機会を得る事が出来た。
劉繇自身は決して好戦的と言う訳ではないのだが、袁術の傍若無人な態度や朝廷から正式に任命された地位についても偽物だとか難癖を付けてくる事もあり、当然の事ながら双方の関係は険悪化していく。
大義名分はどちらかといえば劉繇にあるのだが、何分勢力が違いすぎる事もある。
そこで劉繇は自身も負けじと力で対抗しようと考えてしまった。
自身の旗下武将である樊能と于糜、更に張英らと共に、孫策の親族であり袁術の旗下にいた呉景と孫賁を攻め立ててきた。
呉景達は苦戦を強いられ、戦線を下げる必要に迫られていた。
「もし袁術の猿が太守の任をケチるようでも、呉景らを助けに行きたいと言えば、それに対して否と言う事は無いじゃろう。もっとも、兵は前回の一千が限度じゃろうが、それは問題無い。率いる武将さえおればな」
「それは問題無いですよ。孫堅将軍時代からの三将の他、ご親族である呉景殿や孫河殿、また名士である朱治殿も協力して下さる事を約束して頂いてます」
「それは凄いが、人材はこれからさらに足りなくなる。名士を口説いていくのは悪くない。公瑾は、二張の事は知っておるか?」
「はい。張紘先生と張昭先生ですね。お名前だけですが、聞き及んでおります」
「孫策みたいなヤツは、おそらく武将には好かれるじゃろう。これから孫策を支えていく武の要は、出自やら地位やらに拘らず、それこそ川族やら野盗、貧しい者達を中心に集めていけば良い。じゃが、政となるとそうもいかん。二張はどうしても欲しいところじゃぞ」
「確かに。魯粛殿は、二張先生をご存知なんですか?」
「まぁ、知っておるには知っておるが、ワシは関わらん方が良いじゃろう。張紘先生はともかく、張昭のジジイには、ワシの名前を出しては逆効果になりそうじゃし、そもそもあのジジイを口説きたいのであれば下手に口出しせずに孫策自身を出向かせて主と認めさせなければならん。そうでもないと、動きそうも無いからのう」
「何かしたんですか?」
「聞いてくれるな」
魯粛はそう言って話を切り上げると、周瑜に援助物資を渡した後に孫策への伝令も頼む事にした。
「よーし、行くぞ、魯粛!」
「相変わらずとんでもない行動力じゃのう、お前さんは。中途半端にしか話を聞いていないのか、完全に話を理解するつもりがないのか、そう言うところは治した方が良いぞ」
周瑜と別れて数日の内に、孫策は周瑜を伴って魯粛の元へやって来た。
「はっはっは。よく言われるよ」
「よく言われるなよ。治せよ、よく言われるようなら」
「はっはっは、これは俺の持ち味と言うヤツだ。治そうと思って治るものではない」
「開き直りか。まぁ、それも良いじゃろう」
「よし、では行くぞ」
「行かんと言うたじゃろうが、聞いておらんのか?」
「いや? 聞いたよ、公瑾から」
孫策は首を傾げて言う。
首を傾げたいのはこっちの方じゃ、と言いたいのを魯粛は我慢した。
彼にしては珍しい行動である。
「まあ、待て待て。俺も別にお前をダシにして喧嘩を売りに行く訳ではない。簡単に言えば道案内だ。俺も公瑾も二張の噂程度は聞いているが、詳しくは知らないんだ。道すがらお前の話も聞いてみたいからな」
孫策は満面の笑顔で言う。
……まるで子供じゃのう。
無邪気な表情を見て、魯粛は苦笑いする。
この行動力もそうだが、孫策はまるで少年のまま大きくなった様な人物だった。
単純な好き嫌いの話をするのであれば、嫌いではない。
しかし、主として仕えるとなると苦労させられそうでもある。
むしろ面倒見ている周瑜が凄いと、改めて思う。
「ところで子敬よ、あの凌操と言う者、相当な使い手だな。ああ言うのとは、他に知り合いはいないか? これから必要になる」
「……字かい」
「俺の事も伯符と呼んで良いぞ」
「まぁ、そうじゃの。いくらか当たってみよう」
「ああ、そうか。魯粛殿も相当な使い手だから、そう言うところにも顔が利くと言う訳ですね」
周瑜が余計な事を言う。
「公瑾、余計な事を……!」
「何? 子敬は商人でありながら、武将でもあるのか? これは一度手合わせしてみねば」
「こうなるじゃろうが」
「……これは確かに、私が迂闊でしたね」
周瑜も失言に気づいたが、その時には孫策は目を輝かせていた。
「よし、ちょっと腕試しと行こうではないか!」
「ほら、こうなるじゃろ?」
「すみません。これは、本当にすみません」
周瑜は平謝りだったが、それで目を輝かせる孫策を止める事など出来ない。
「なー、なー、なーってばよー。腕試ししよーぜー」
「分かった分かった。じゃが、真剣ではやらんぞ? そんな事で命を賭けとうは無いからのう」
「む? 寸止めではダメか?」
「熱くなったら止めれんじゃろう? それなら最初から木剣で寸止めなら、下手に熱くなっても真剣よりはマシじゃろうからの」
「まどろっこしいけど、まあ言ってる事は間違ってないな」
「あと、場所じゃな。できればその後にゆっくり出来るところが良い。寸止めが上手くいかなかったら痛い目にあうからのう」
「何だよ、子敬。俺の腕を信用してないのかよー」
「用心しとるんじゃ」
馬上でも剣を抜きかねない孫策に、魯粛は抑える様に言う。
「たしかこの辺りであれば喬公の屋敷が近いじゃろう。何度か商いで顔を合わせた事があるから、宿泊も許してもらえるはずじゃ。そこで遊んでやるわい」
「はっはっは! それは楽しみだ」
「ついでに言えば、喬公にはそれはそれは美しい娘がおるそうだ。そっちも気になるじゃろう?」
「ん? まぁ、気になりはするが、今は子敬の腕前の方が興味がある」
「話を逸らせると思ったんじゃがのう」
意外とブレない孫策に多少驚きながら、魯粛は進路を喬公の屋敷に向ける。
喬公は地元の名士ではあるものの、どこか俗世との関わりを断つところがあり、まるで仙人の様な暮らしをしていると評判であった。
もちろん魯粛には仙人に知人がいないのでどんな生活を仙人の様と言っているのかは分からないが、確かにちょっと浮世離れしたところがあるのは知っている。
その一方で何故か野盗などから狙われる様な事も無く、この乱世において不思議なほどに平穏な生活を送っている人物でもあった。
孫策などは真逆の乱を呼び込みかねない人物なので、ひょっとすると門前払いされるかもと恐れはしたが、喬公は受け入れてくれた。
「ほっほっほ。魯家には良くしていただいてますからな。お返しは当然でしょう」
喬公自らが迎え入れてそう言ってくれたので、魯粛達は屋敷に招かれた。
「よろしいので? こんな半山賊の様な輩を」
「ほっほっほ、孫策将軍の名前は最近評判ですからな。山賊と言う事などないでしょう」
魯粛の言葉に、喬公は笑って答える。
「いや、こやつは半山賊と言うより、ほぼ山賊じゃぞ?」
「失敬な事を言うな。まだ山賊になどなっていないからな」
孫策は抗議するが、自身も山賊になるつもりが多少はあったらしい。
喬公の屋敷は広く、また屋敷の裏には見事な竹林も有していた。
「……なあ、子敬」
孫策が小声で魯粛に尋ねる。
「なんじゃ」
「喬公の娘は別嬪さんだって話だったよな?」
「うむ、そう聞いておるが、それがどうしたのじゃ?」
「……何歳?」
孫策はちらっと喬公を見て尋ねる。
正確な年齢は魯粛も知らないが、喬公は見た目だけで言えば老人に見える。
もし年相応の頃に結婚して子供が出来たと仮定した場合、娘は下手すると孫策達の母親世代か少し年下くらいになるかもしれない。
「……孫?」
「……ワシも会った事は無いからのう」
周瑜の指摘に、魯粛もそんな気がしてきた。
別に孫なら孫で問題は無いのだが、関わる人物が多くなると面倒事も増えるのは気に入らない。
まして直情型で行動力の塊の様な孫策を抱えているのだから、その娘が本当に評判の美人で孫策が気に入ろうものなら厄介事になるに決まっている。
「喬公、そちらに練習用の木剣はあるか? あったら二振り貸して欲しいんだが」
「ありますよ。演習ですか?」
「ああ、子敬と腕試しだ」
「……忘れとらんかったか」
魯粛は眉をひそめる。
「ほっほっほ、魯家のお坊ちゃんと孫家のお坊ちゃんの腕試しですか。興業で一稼ぎ出来そうではありませんか」
「喬公、余計な事は吹き込まんでいただきたい。この旦那は、本当に客を呼びかねないからのう」
「面白そうだが、今から客を呼ぶのは時間がかかるからな。そちらの娘さん達で良いよ」
孫策は笑いながら言うが、喬公は複雑な表情を浮かべて答えなかった。
魯粛としてはまずゆっくり休んでからと思っていたのだが、孫策が譲ろうとしない上に何故か喬公も乗り気になっていたので、さっそく竹林へと移動して孫策と腕試しと言う事になった。
喬公の使用人が二振りの木剣を持ってきて、孫策と魯粛に手渡す。
「噂の魯家の狂児の実力、拝ませてもらおうか」
「……のう、伯符よ。ワシの実力の話じゃが、ワシは武将ではなく商人じゃ。それ故に、武将の考える腕前とは違うかも知れんが、それは構わんよな?」
「ん? 武勇に違いがあるのか?」
「そりゃ違うじゃろう。まぁ、口で言うより実際にやった方が分かり易いかも知れんな」
魯粛は木剣を軽く数回振ると、両手で握って正面に構える。
「ワシとて撃剣の心得はあるのでな」
「面白そうだ」
孫策も数回木剣を振ると、こちらは特に構える事無く様子を伺っている。
「して、伯符よ。試し合いの場合には開始の合図として、互いの剣先を合わせる事になっておる。実戦ではまず有り得ん事じゃが、これはあくまでも試し合いじゃよな?」
「ああ、殺し合いをするつもりは無いよ」
孫策はそう言うと、魯粛の木剣の剣先に自分の剣を当てる。
その瞬間に、孫策の手にあった木剣は宙を舞い、魯粛は一瞬で間合いを詰めて孫策の喉元に木剣を押し当てた。
「勝負アリじゃの」
「……お?」
一合と打ち合わずに勝利宣言された事に、孫策は怒りを示す事も無く、ただ驚いていた。
「何だ? 妖術か?」
「いや、『巻き上げ』と言う単なる小手先の技術じゃ。武将は案外この手に引っかかりやすいからの」
「面白い! 俺にも教えてくれ!」
孫策は相変わらず目を輝かせながら、魯粛にそう言ってきた。
ムキになってもう一本と言い出す事を予想していた魯粛は、この孫策の行動は少し意外だった。
魯粛の行動は奇襲と言うより、完全な騙し討ちの類であり本来であれば勝負でも何でもないのだが、孫策はそれも技術として認め、自身もそれを身に着けようとしている。
随分と柔軟じゃな。こやつ、ただの野生児ではなく公瑾が入れ込むだけの器じゃったか。
「もっとも重要なのは、実際の技術よりその前段階じゃ。いかに相手を油断させるかに、全てがかかっておると言っても良い」
「ほうほう、面白いな」
「随分と楽しそうな雰囲気ですわ。ついつい誘われてしまいました」
「姉様!」
屋敷の方から竹林へ、二人の女性がやって来た。
「……天女か?」
「え? 天女?」
孫策の呟きが聞こえたのか、女性の一人が首をひねる。
「これこれ、こんな所にまで出てくるものではないよ」
「ごめんなさい、お父様。どうしても気になってしまって、妹にお願いしてしまいました」
女性の一人が素直に頭を下げるが、もう一人の付き添っている方の女性は困り顔である。
「喬公の娘か?」
「これは、お恥ずかしい限り」
「俺の嫁に下さい!」
相変わらず直球が過ぎる孫策に、喬公もどう答えたものか悩んでいる様だ。
「い、いや、この娘は……」
「そこを何とか! 俺の嫁はこの方しかいない! どうか、喬公! いや、お義父さん!」
「しかしですな、孫策殿」
喬公が答えを渋るのには訳があった。
それは孫策が現在無位無官であると言う事ではない。
「あの、先に声をかけられた方が良い。是非とも、俺の嫁に!」
「あ、姉の方ですか? それこそお待ちを。将軍には相応しい女性を見繕いますので」
「いや、喬公。あの方ほど俺の嫁に相応しい女性は、この天下にいるはずもない!」
と、孫策は譲らない。
「待て、伯符。そう言うのは屋敷の方で進めようではないか」
魯粛は助け舟を出して、ひとまずは竹林から屋敷に移動する事になった。
「俺が手を貸そう」
「いえ、私がやります」
孫策が姉である女性に手を貸そうとしたが、妹と思われる付き添いの女性が拒絶する。
喬公が答えを渋った理由。
姉である女性は、目が見えていなかったのである。
喬公とは?
モデルは橋玄とされてますが、演義から『橋』ではなく『喬』になっているので、ある意味では演義での架空の人物とも言えます。
と言うのも、橋玄が曹操よりずっと年上の人物で、その娘の場合にも曹操より年上の可能性が高く、孫策や周瑜から見るとほぼ間違いなく母親より年上の人物になってしまいます。
正史で孫策が落とした城の捕虜の中に『橋』公の娘がいて、だったら橋玄をモデルにして曹操とのつながりを、といったところなのでしょう。
あと、この物語の大喬は盲目ですが、それは正史にも演義にも無い創作設定です。