科学の天才グノーメ(1)
3月ももう終わりの頃。まもなく春分で、寒さももう緩んできている。冬の間のような身を切るような冷たい風ではなく、優しい、温かみのある風が時折吹くようになっていた。
洗濯を終えて、広場からの帰り道だった。
「外を歩いてても、もうそんなに寒くないでしょ」
マーヤーに言われ、フィシスが首を振る。
「寒いよ、まだ。それは真冬よりはましだけど」
「そうかな?」
「そう、そう! マーヤーは感覚がおかしいんじゃない?」
強い口調で言うフィシスに、本当かな、とマーヤーは首をかしげて見せた。
確かに、あまり寒さが苦になる方ではないけれど、それがおかしいと思ったことはない。体感温度なんて、そもそも個人差の大きいものだ、と思っているし、冒険者時代、一緒に旅をしていた仲間にそんなことを言われたこともない。
「人がみんな自分と一緒だと思ってちゃだめだよ、マーヤー」
「その言葉、そのまま返します」
澄ましてそう言い返す。フィシスが寒いと思うからといって、マーヤーもそうだとは限らないんだから、と。
「おたがいさまだね。自分の感じるものが自分の世界。共有してても、自分だけの世界」
そう悟ったように言うフィシスは、歳に似合わない表情をしてみせる。こういう顔のときのフィシスは可愛くない、と内心マーヤーは思う。子供の姿とは妙な不釣り合いを感じさせるのだ。
そう思っていたときだ。
「あ、鳥」
空を見上げてフィシスが言う。その表情はいつもの子供らしいものに戻っている。彼女の指さす方へマーヤーも目を向ける。確かに、そこには1羽の鳥、赤や黄色、それに濃い青の、鮮やかな色をした鳥が飛んでいる。色合いがはっきり見えるのは、それほど高いところを飛んでいるのではないからだろう。
「本当、ずいぶんきれいな鳥ね」
「なんていう鳥?」
さあ、とマーヤーも首をかしげる。
「見たことのない鳥ね。わたしも知らない」
気が付けば、道を行く人々もその鳥に目を奪われている。くるりときれいな輪を描いて鳥が青空を優雅に舞っている。2度、3度と空中に円を描くと、鳥は大きく羽ばたいて上空へ舞い上がり、どこへともなく消えていった。美しい姿に見とれていた人々は、見えなくなったその姿を追い求めるように、いつまでも空に目を向けていた。
「きれいだった…」
そう思ってマーヤーが視線を通りに戻したときだった。通りを駈け去っていく太った男の後ろ姿が目に入る。くすんだ緑のマントに身を包み、濃いグレーのブーツを履いた姿。
同時に、誰かの声が聞こえる。
「財布が…ない?」
えっ、とそれに答えるように誰かが言う。続けて何人かの声が上がる。
「俺も…?」
「わ、わたしも!」
あいつだ、とマーヤーは直感した。盗人ウィーゼルオックス。ルイランで見たあの男だ。そしておそらくは、ベサランザにもいた。そいつが人々が鳥に目を奪われている間に仕事をしたのだ。追おうとしても既に彼の姿はどこにもない。
(着いてきたんだ…こんなところまで)
冗談じゃない、と思う。あんな相手とはさっさと縁を切りたいのに。
「どうしたの、マーヤー?」
いぶかしそうにフィシスが訊いてくる。ため息交じりに、しかし、少し微笑んでマーヤーは答える。
「嫌な奴に会っちゃったみたい」
「嫌な奴?」
「そう、泥棒。お金に汚い、いけ好かない男」
へえ、とフィシスが目を丸くする。
「マーヤーでも、そんなことを言う相手がいるんだね」
人間ですからね、と肩をすくめてマーヤーが言う。
「いつか懲らしめてやらなくちゃ」
「そうなの?」
「悪者だから」
「悪い人?」
「そう。人のものを取って平気な男。借りたお金を返さない男」
そう勢い込んでいったマーヤーに、フィシスがきょとんとした表情をする。
「マーヤーが懲らしめなくっても、来世で報いを受けるよ」
当たり前のように言うフィシスに、マーヤーは、一瞬、言葉に詰まる。
「それはそうかもだけど、…でも、それまで放っておいたら、あいつのために困る人がでるでしょ?」
「うん。でも、それもその人に原因のあることだよ」
ああ、確かにね、とマーヤーがため息をつく。こういうことは、僧団で教えられたことなのだろうか、と。
「それでも、なんとかしたいと思うよ。困る人がいるなら、放っておけない、って思わない?」
「うん、それはいいことだと思う。人助けはいい縁を生むから」
「でしょ?」
そう言ったマーヤーへの答は、しかし、予想しないものだった。
「でも、そのために悪者をやっつければ、マーヤーに悪い縁ができるよ」
「わたしに?」
「悪者でも、殺せば人殺しだよ。人殺しは罪」
「殺さないから」
「殺さなくても、傷つけるのはやっぱり悪い縁の元になるよ」
「え…」
「やっつけるんでしょ?」
「う、うん、それは、まあ…」
ああ、そうね、と渋々マーヤーは認める――フィシスの言葉を認めざるを得ない。決して揚げ足取りで言っているのではないのはわかっている。幼くてもフィシスは僧侶なのだ。
「誰かを助けるために、自分が罪を背負うんだよ。マーヤーはそれを選ぶの?」
かなわないな。はっきりそう思う。今のフィシスは子供の顔をしていない。老練な僧、あるいは賢者の顔だ。そう思ったとき、ファービュアスのことが頭に浮かぶ。だから、こんな疑問を投げかけてみる。
「選ぶ、のかな。もう決まってることを、なぞるだけなんじゃないの?」
「決まってること…?」
きょとんとして訊くフィシスに、マーヤーはファービュアスのことを話す。無数の過去世の記憶を持つ彼には、この世の中の出来事は、これから起こることではなく、既に起きたことなのだ。だから、マーヤーがこれからすることも、全て、誰かが記憶していることで、だから、もう終わっていること、決まってしまっていることなのだ。
ああ、とフィシスは納得したように言う。
「面白いね。それに、その人の言うこと、間違ってないよ」
そう言いつつも、しかしフィシスは、でもね、と言葉を続ける。
「誰かが決めることなんだよ。生まれ変わりの一番最後の誰か。誰の過去でもない、最後の1人。その誰かが未来を決めていくんだよ」
最後の1人? 確かに同じ有情が転生を繰り返しているなら、その最後のものはどこかに、いつかの時点にいるはずだ。その1人は誰の過去世でもないから、その生は既に定められたものではない。だが、そうなのだろうか? その1人と関わった者がいる以上、その1人の行動は制限されないのだろうか?
そんな思いが、一瞬の内に頭の中に浮かぶ。だから、え? と問い返したマーヤーに、フィシスが言う。
「もし、マーヤーが、その誰かだったらどうする?」
そう言って浮かべた笑みは、幼女のそれではない。試すような、慈しむような優しい微笑み。それを見たマーヤーは、果てしない深淵を覗いたような錯覚にとらわれていた。
言葉を失ったマーヤーに、次の瞬間、子供の顔に戻ったフィシスが声を掛ける。
「鳥だよ、マーヤー」
え? と混乱してマーヤーが聞き返す。今までの会話と、全く話が繋がらない。一体フィシスが何を言っているのか、と思いながら、フィシスの指さす方、頭の上を見上げる。そこに、さっきの色鮮やかな鳥が飛んでいるのを見て、ようやくマーヤーはフィシスの言った言葉の意味を理解した。
「ああ、さっきの鳥」
うん、そう、とフィシスがうなずく。
「あの鳥も、もしかして、フィシスのお友達?」
違うよ、とフィシスが首を振る。
「あの鳥は、フィシスと心が通わないから」
そう言って見上げた鳥が、見る見るこちらへ迫ってくる。足に何か掴んでいるのが見える。それを見たマーヤーが、とっさにフィシスを抱いて道の脇へと飛び退いた。次の瞬間、鳥が持っていたそれが地面に落ちて、しぶきを上げて粉々に砕け散る。甘ったるい、鼻につくにおい――腐臭が辺りに漂う。
よく見れば、鶏の卵ほどの大きさの、何かの実だ。地面に落ちて潰れた様子を見れば、当たったら怪我をするようなものではないようだが、しかしまともにぶつけられていたら、その汁にまみれてベタベタになっていたところだ。街の人々も、飛び散った実や汁を見て、唖然とするばかりだ。何人かが露骨に嫌な顔をしているのは、飛び散った汁がかかったからだ。
「な、何だったの?」
マーヤーが、上空へと飛び去る鳥を呆然と見送る。フィシスも黙って空を見上げるばかりだ。こんなことをする鳥は見たことがない。
大きく旋回すると、鳥はまた地上へめがけて降下してくる。今度はマーヤー達のいるところからかなり離れた場所だ。あっ、と思う間もなく、巡回中の警備兵がまともに実をぶつけられて、汁まみれになっていた。驚きと、悔しさの混じった罵り声が上がる。
「なんて鳥なの…!」
あっという間に鳥は上昇していく。ほとんど垂直に飛び去る様は、まるで放たれた矢のようだ。あんな動きをする鳥がいるものだろうか。見上げるマーヤー達の驚きをよそに、鳥は今度こそどこかへ飛び去っていったのだった。
「みんなを驚かせに来たみたいだね」
面白そうにフィシスが言う。
「驚かせに? …鳥が?」
「だって、そうじゃない。最初は丸く飛んで、自分の姿を見せておいて、それから次に来たときは、腐った果物をぶつけていって」
なるほど、フィシスの言う通りかも知れない。
「自分の存在を見せつけたがってるみたい、っていうこと?」
そう言ったマーヤーに、そうだね、とフィシスが賛成する。
「だから、きっとまた来るよ」




