ザノール来たる(5)
これだけ乱戦になれば、身の軽いザノールの方が有利だった。人間よりも動きが速く、鋭い爪や牙を振るって暴れ回るザノールに比べ、鎧や武器に頼る兵士達はどうしても後手後手に回るしかない。連携など取れぬまま、1人、また1人と血煙の中に兵士達が倒れ、血の海に志願兵達が沈んでいく。
そんな阿鼻叫喚の中、マーヤーは冷静にあたりを見つめていた。不可視の魔法で姿を消したマーヤーとフィシスの側にはザノールはいない。
(仕方ない…やるよ!)
誰もが目の前の相手のことで手一杯だ。魔法を使っても、誰にも見られはしないだろう。
そう腹をくくって姿を現わしたマーヤーの前に、1人のザノールが現れる。か弱い女1人、いい獲物とばかりに飛びかかってきたザノールの前で、マーヤーの全身が炎に包まれた。マーヤーの身体から四方八方に炎が吹き出し、それがマーヤーを包み込んだのだ。
巨大な火の玉と化したマーヤーに驚き、その高熱に恐れをなして、キャン! と叫んで飛び退いたザノールを、マーヤーの身体を包んだ炎が巨大な触手のように伸びて捕える。灼熱の炎に包まれ、絶叫と共にザノールがその場に倒れる。
「フィシス!」
名を呼ばれたフィシスは、マーヤーのしようとしていることを悟ってうなずく。あらかじめマーヤーから聞かされていたことだ。いよいよとなったらマーヤーが使うつもりの魔法をフィシスは知らされており、これからその1つが始まるのだ。防壁から下に降りる扉を開け、フィシスはその中に身体を滑り込ませた。
マーヤーの全身を包んだ炎が少しずつ膨らみ、大きくなっていく。四方に広がって、防壁の上に燃え広がっていく。本来なら燃えるものなど何もないはずの防壁の上を、紅蓮の炎が、最初は徐々に、そして次の瞬間にはまるで巨大な桶から水を流しでもしたように広がり、あっという間に何もかもをその中に包み込んでいく。
防壁の上にいた者が熱気を感じて振り返った時には、もうあたりは炎に包み込まれていて、逃げ出す場所はない。一面の火の海の中、敵味方の区別なく、全ての者が焼かれ、燃え上がり、声の限りに叫んで、そして耐えがたい苦痛の中で意識を失っていく。
焦熱地獄、というしか形容のしようのない光景がそこに広がっていた。
しばらくして炎が消えた時、あたりには物音1つせず、防壁の上に立ってる者は誰もいなかった――ただ1人、マーヤーだけを除いて。
防壁の上から見下ろせば、呆然とこちらを見つめるザノール達の姿があった。もはや防壁に近付こうとする者はない。炎が消えても、その表情から恐怖と驚愕は消えない。進むことも引くこともできず、只々、その場に立ち尽くすだけだ。
(よしよし、と。さあ、下の奴らをどうするか…)
そうマーヤーが考えていた時、不意に上空から巨大な火の玉が降ってきて、十数人のザノールを一度にその中に包み込んだ。一瞬の後、火球が爆発し、木っ端微塵になったザノールの手が、足が、そして首があたりに飛散する。直撃を受けなかった者も、爆風を受けて吹き飛ばされ、地面に叩きつけられ、血まみれになる。
それが、2度、3度と続き、次々とザノール達を仕留めていく。今度こそその場に踏みとどまることができず、ザノール達は我先にと逃げ出し始めた。それをさらに数発の火球が襲う。
「シーフリート!」
上空を見上げたマーヤーの目に、空中に浮かんで、次々と火球を放つシーフリートの姿が映る。いつの間にかマーヤーの炎から逃げ出し、攻撃の機会を窺っていたのだ、とわかる。
「ずいぶんと派手にやってくれたではないか。危うく私まで巻き込まれるところだったぞ」
あらかたのザノールを片付けて、ゆっくりと防壁の上に降り立ったシーフリートが言う。口元には、不敵な笑みが浮かんでいる。
「味方まで倒してしまって、後はどうするつもりだったのだ?」
「倒して…、って、誰も死んでないから」
咎めるように言われ、思わず言い返したマーヤーに、シーフリートが続ける。
「わかっている、幻術なのだというのだろう。それでも、すぐに動ける者はいない。今のうちに、気絶しているザノールを片付けねばならん」
そう言うと、シーフリートは小さな魔法の矢をいくつも飛ばし、倒れているザノールに次々と止めを刺していく。
「シーフリートがわたしの魔法に掛かるなんて、思ってなかったから」
「本当か?」
そうシニカルに言うシーフリートに、当然でしょ、とマーヤーが答える。
「わたしのやり方くらい、知ってるはずよね?」
「確かにそうだが、しかし、ずいぶんと腕を上げたものではないか。以前は、お前の作る幻にこれほどの力はなかった。ザノールを惑わすような幻など作れなかったではないか」
マーヤーは黙ってうなずく。
「が、それでも、ザノールに止めを刺す術はない」
そうね、と少し顔をしかめてマーヤーは答えた。
「私がいたからいいものの、そうでなかったらどうするつもりだった? だから、お前は詰めが甘いというのだ」
昔からね、とマーヤーが自嘲気味に言い返し、でもね、と付け加える。
「シーフリートがいなかったら、こんな戦いに参加しなかったよ? それはわかってるよね」
「そうだな」
だから、そんなふうに咎められるいわれはないんだよ、とのマーヤーの言葉にもシーフリートはうなずく。
「まあ、今回はそういうことにしておこう」
そして、不満そうな表情を隠さないマーヤーに言う。
「私がいなくとも、ザノールの噂を聞けば、お前は首を突っ込んだに違いないと思うがな。それとも、知らぬ顔をして通り過ぎたか?」
う、と言葉に詰まるマーヤーから目をそらすと、シーフリートは近くに倒れているイズールの方へと歩み寄っていく。そして、その上半身を抱え起こすと、活を入れた。
正気に返ったイズールは、あたりに倒れている兵士達と、そしてザノールの死体を見回し、戦いが終わったことを見て取った。
「これは、一体…」
何が起こったのだ。そう言いかけて、気を失う寸前の記憶がよみがえる。周囲を燃えさかる炎に囲まれ、熱気に包まれて窒息したのだった、と。思わず自分の両手を見、そして全身を見回す。どこにも、燃えたり焦げたりした後はなく、火傷も負っていない。
「思い出されましたか。人を傷つけることのない、魔法の炎なれば、倒れている者もいずれ正気に戻りましょう」
「な、何と…」
「突然のことに驚かれたこととは思いますが、火急やむを得ない仕儀であったとご容赦いただきますようお願いいたします」
「う、うむ…」
「ザノールのことであれば、ご心配は無用に。すでに止めは刺し終えております」
そう言って深々と頭を下げるシーフリートに、イズールは、ようやくうなずいた。
「相わかった。格別の働き、大儀であった」
シーフリートがイズールに報告をしている間に、マーヤーはフィシスを隠れ場所から連れ出してきていた。防壁の上に上がってきたフィシスは、ちょうど、イズールの最後の言葉を聞いたところだった。
「シーフリートの手柄になっちゃうよ?」
いいの、とマーヤーは答えた。
「わたしがやった、なんてばれたら、後が面倒でしょ。そういう厄介なことは、あの人に任せておけばいいの」
「そうなの? 全部マーヤーがやったことなのに」
「止めを刺したのはシーフリートだから。それに、わたしの代わりに目立ってくれるなら、願ってもないことよ」
「ふうん…」
不思議そうにマーヤーを見るフィシスは、しかし、それ以上何も言わなかった。
一夜明けたリシフィラには平穏が戻っていた。
魔法から逃れたザノールはわずかで、もうリシフィラを襲うだけの力はない。たとえあったとしても、あれだけの魔法を見た今、再びこの町を狙うような気力もないに違いなかった。勝てる戦いしかしないのがザノールの習性なのだから。
片付けられたザノールの死体は優に100を超え、兵士達の死体も30は下らない。
志願した冒険者や傭兵の犠牲は皆無だったが、市井の者達で生き残ったのは、肉屋の主人1人だけだった。
ザノールの襲撃を受けてそれを退け、尚これだけの犠牲で済んだのは、マーヤーやシーフリートにしてみれば大変な僥倖と思われた。ザノールを撃退するだけなら、話は簡単だが、町を守り、少しでも犠牲を抑えるとなれば、それはまた別の話なのだから。
が、町の人々の思いは2人とは違っていた。
昨日まで一緒に暮らし、共に語り、労苦を共にしていた人々の死。それは町に住む者の心に重くのしかかっていた。志願した者達だけではない。領主の命を受けて戦った兵士達にしても、皆リシフィラの出身――町の人々の隣人達なのだ。
数日して、領主の名の下、神殿で犠牲者達の葬儀が執り行われた。参列者は神殿に入りきれず、道にまであふれていた。
戦いの中で散った者を悼む声、命を投げ出して町を守った者への感謝。
そんな思いが僧たちに唱え上げられ、死者と神に捧げられる。
市井の者達にも、無謀な戦いを責める声ではなく、町を守ろうとしたその気概を称える賞賛の声が、分け隔てなく捧げられる。
そして、生き残った者達には、それ以上の賛辞が惜しまずに与えられた。
夜を徹して戦った騎士や兵士達。町のために立った冒険者達。そして、身の危険を顧みずに志願した勇敢な町の男達。名誉は彼等のものだった。
別けても、防壁の上でザノール相手に奮戦し、最後の止めを刺したシーフリートへの賛美の声は止むことを知らなかった。既にこの町でいくつもの冒険を成し遂げ、その名を知られていた彼に、新たな名声が付け加わったのだ。
他の冒険者達の働きは、彼の活躍の前にかすみ、人々の注意を引くこと極めてわずかだった。無論、マーヤーも。
自分に対して人々の関心が向かないとわかったのは、マーヤーに取って幸いなことだった。
だが、リシフィラへ来てほんの10日で、もうこんな冒険に遭遇したのだ。シーフリートの言っていた冒険の拠点という言葉は決して誇張でも何でもなかったのだとわかる。
この先、どんな冒険に付き合わされるのだろうか。それを思い、マーヤーの心は晴れないままだった。




